2.異世界

 雲ひとつない血で染めたような深紅の空が、果てしなく続いているだけの風景の中に、健二は佇んでいた。健二自身、宙に浮かび、地面の感覚がないというのに、なぜか不安定感はなく、逆に安心感のような奇妙な感覚を覚える。目線を上げると、遙か遠い空に不気味な光を放つ真っ赤な満月があった。血に染まったような空と赤い満月が相まって、言い知れぬ不安を呷られ、これが夢だということを自覚するのに僅かながら時間を要した。


 僅かな胸騒ぎと不安から落ち着きを取り戻しかけたとき、何かが視界の端を通過した。それは、姿を捉えることができないほど高速で移動している。その姿を必死に追いかると、空中を滑空する巨大な両翼の生物だとわかった。


 両翼の生物は、遠くの空に浮かんでいる謎の物体に向かって飛翔する。物体の正体は、ここからは遠すぎるため、認識することができない。


 物体は球体の形状をしており、鈍く放たれる光が、不可思議な物体としての存在感を高めている。両翼の生物が、謎の物体に触れた瞬間、そこから閃光が迸り、視界の全てを真っ白に覆い尽くす。


 健二は眩んだ目を擦り、大きく見開く。視界がはっきりするまで、暫く時間が掛かった。辺りを見渡すと、そこに両翼の生物の姿はなく、それと入れ替わるように背後で気配を察した。


 気配は健二の背後から、首元に冷たいものを当てる。突然現れた存在に、全身が硬直し額に冷や汗が滲む。


「なぜここへ来た」


 背後から語り掛けたのは、女だった。特徴的な低い声には、怒りが籠もっており、健二に対して敵対する意思を感じる。


 健二は、自分がまずい状況に立たされていることを自覚した。夢の中で脅迫を受けるなど、理不尽以外の何ものでもない。だが、これがいかに不思議な状況である一方で、嫌なほど現実的な感覚があるのはなぜだろう。感覚や感情の全てが、現実と寸分違わない。そんなことを思いながらも、急いで状況を把握しようと努める。


「これって夢」


 かろうじて両手を挙げ、反撃の意思がないことを示すと、健二は背後に立つ女に尋ねる。何となく、背後の女が事情を知っているような気がした。女の口から、これが夢である、と告げてほしい期待を抱いた。そんな健二の問いに、女は低く笑う。


「――そう思うか」


 女はそう言うと、健二の背後で何やら始めた。背後に視線を向けることができず、緊張した面持ちで女の行動を探っていると、女は呟くように語り掛ける。その言葉が、後に不可解な疑問として健二の脳裏に焼き付けられることになる。


「お前は死ぬ運命にある……死にたくなければ必死に抗え」


 女がそれ以上の言葉を発することはなかった。女が何かを手にしたのを感じ取り、気になった健二が振り返ろうとすると、ちくりと鋭い痛みが背中に走る。冷たい感覚が全身に迸り、ようやくそれが刃物だというのがわかった。


 胸から刃物が突き出し、胸の辺りに血が滲んでいるのを認め、自分が刺されたことを理解すると同時に、目の前の視界が急速に霞んでいく。想像を絶する激痛が、心臓が波打つ度に、押し寄せる波のごとく容赦のない激痛が全身を襲う。視界が真っ暗になると、激痛はおろか、全ての感覚がなくなると闇が急激に広がり一気に呑み込まれる。そのあとは、無音と暗闇だけの世界になってしまった。




 健二は息が詰まるような感覚に襲われ、荒く息をして目を見開く。汗まみれになった身体を起こし、気持ちを落ち着かせようと深く息を吐き、激しく脈打つ鼓動を落ち着かせようと努める。


 気持ちを落ち着かせ、ふと辺りを見渡すが、そこにあるのは暗闇だけだった。あるのは、木々の間から聞こえてくる小さな虫たちが囀る音が虚しく響いているだけで、静寂に満ちた空気がこの場を支配している。


 健二はふう、と息を吐く。先程まで自分が目にしていた恐ろしく現実味のあった奇妙な夢、を思い出した。五感の全てが、その場にいるのと寸分違わなかった。そして、背後に現れた女の正体は何だったのだろう。あの夢と女の存在は何かを暗示しているのか、それとも、自分の潜在的な意識が無意識に現れた結果なのだろうか。

夢から覚めて以降は、夢の現実味から抜け出せず、目が冴えてしまった頭が、眠気に誘われることはなかった。一睡もできず、仰向けになったままじっと空を仰ぎ、暗い夜空が次第に薄らいでいくのを呆然と見つめていた。




 健二は眩しい日差しで眩んで目が覚めた。重い瞼を開き、おもむろに上体を起こす。どうやら、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。


「やっと起きたか」


 声が掛かり、そこに視線を向けると、スノウが行儀良く地面に座っていた。


 昨日は結局スノウの姿を認めることができず、どうすることもできないまま、結局その場から動かないことで一夜をやり過ごそうと考えていたが、その決断に間違いではなかったようだ。


「君は意外と寝ぼすけなんだな」


 スノウの嫌味を聞き流し、少し離れた場所にある古井戸に近寄る。改めて井戸の底を覗き込む。昨夜とは違い、日の光が差し込むことで視界は良好であるが、それでも健二が見つめる井戸は前と変わらない底の見えない闇があるだけだった。


「ここってどこなの。何の場所とは雰囲気が違う気がする」


 健二は辺りを見渡して言った。自分の記憶にある風景とは明らかに違うことに混乱する。森の中にいることは確かだ。だが、昨日の昼間に見た森の姿は、広葉樹だった。だが、今眼前にあるのは針葉樹ばかりで、広葉の樹木はひとつとして見当たらない。


 その場の違和感に困惑する健二を横目に、スノウは落ち着いた様子だ。


「気持ちの良い風だな。しかし……場所を間違えた。ここはどこだ」


 何かを知っている様子のスノウだが、その言葉の真意を見抜けず健二は混乱する。


「一体何なんだよ……それに昨日のは何だっただ」


 健二は自分が昨夜、目にした光景が信じられず、必死にその記憶を辿る。今思い出してもあの光景が現実か幻覚だったのか区別がつかない。


「境界門のことか」


「境界門――何それ」


 スノウの言葉に、思わず聞き返してしまった。昨夜からの度重なる光景の数々に、頭が全く追い付いていない。自分の身の回りで一体何が起きているのか、と理解に苦しむ。


「境界門は、こことあちらの世界をつなげるトンネルみたいなものだ。いわゆる……テレポークとかというやつ」


 スノウは健二が理解しやすいように、と使い慣れない言葉で説明しようとする。


「――テレポートのこと。そんな肉みたいな名前……」


「細かいことは気にするな」


 使い慣れない言葉の誤用に何気なく皮肉めいた指摘をすると、スノウは素っ気ない様子を見せる。どうやら、間違いを指摘されたことに気分を害したらしい。何気ない発言にも、冷めた空気が漂いかねない状況に、健二は内心で動揺した。今後はスノウへの無謀な発言は、極力控えるべきなのかもしれない。


「――ああ、忘れていた。お腹が減っているだろう。これを食べると良い」


 そう言ってスノウが健二に何かを差し出す。それは、大きな青葉を皿の代わりにして赤い小さな木の実が盛られたものだった。


「まあ、お腹は減ってるけど……何の実なの」


 木の実の正体が気になりスノウに尋ねるが、スノウは木の実を口に含むと、習うように、と無言の圧力を向けるだけだった。これ以上スノウが不機嫌になるのは望ましくない、と健二はスノウに差し出された木の実をひと摘まみすると、恐る恐る口に含む。すると、今までに味わったことのない強烈な酸味が、口の中に広がる。思わず吐き出してしまう健二の様子を見ていたスノウが、面白がるように言う。


「口に合わないか――これは木苺だ」


「何でこんなに酸っぱいものを」


「仕方ないだろう。この辺にある食べ物はそれだけなんだからな」


 スノウは、木の実の酸味に顔を歪める健二を尻目に、そそくさと歩き出す。


「それで、これからどうするの。あの変な人もいないし、家に帰りたいんだけど。それに、昨日の二人はどうなったの」


 スノウの素っ気ない様子に尻込みしつつも、自分の意見を述べようと詰め寄る。今朝から昨夜に突然襲ってきた男の姿を見ていないし、健二を先に行かせた二人のことも気掛かりだが、何より家に帰りたい。このままでは祖父母と母が心配していることは間違いなかった。


 スノウは健二に視線を合わせることはなかったが、応えてくれた。


「あの二人のことは気にするなと言っただろう。大丈夫だ。あとで合流する手はずになっているから、そんなに心配なら、そのときに二人をじっくり労ってやると良い。それより、私たちは街に向かう。そうすればここがどこなのかわかるかもしれない」


 そう言ったスノウの言葉に、健二は違和感を覚えた。スノウの発言から、ここがどこなのかわからない、という含みがあることは容易に察しが付く。だが、昨夜から場所を移動していなければ、ここが祖父の家の付近にある森であることは間違いない。


「言ってる意味がわからないんだけど。ここって昨日と同じ場所のはずだよね。もしかして寝てる間に移動しちゃったとか」


 徐々に不安を募り始めた健二は、冗談交じりに言ってみるが、スノウが表情を緩めることはなく、健二の問いに対しても、ただ短い言葉で、


「ここを抜けたら君も自分の状況を理解できるはずだ」


 そう言ったあと、スノウは無言を貫いたまま歩き続ける。そんなスノウの背中を追いかけながら、健二は自分の中で高まる不安を何とか押さえ込もうと必死だった。




 健二とスノウは、森の中を彷徨うかのように歩き続ける。


 朝の静かな雰囲気と意外にも涼しい空気が漂う中を鳥や小動物たちの気配が溢れている。少し離れた場所から、僅かな気配と共に、静かな視線が向けられていることを何となく察した。どうやら、日常の中に迷い込んだ奇妙な訪問者に興味を示しているらしく、一定の距離からこちらの動向を見張っているようだ。


 森の中を歩いていて、健二はふと思った。今は真夏の最中。嫌気が差すほどの蒸し暑さを感じるはずが、違和感を覚えるほど心地良い気温になっている。森の中を歩いているからなのか、とも考えてみる。


 今歩き回っているのが、昨夜に通ったのと森と同じなのだとすれば、祖父の家もこの付近にあるはずだ。だが、いくら歩き進めても祖父の家へ辿り着くことはなく、永遠とも思える足場の悪い地面を歩き続けるだけだった。


 暫く歩き続け、森を抜けたとき、目に入った風景を前にして、健二の中で燻っていた違和感は確信へ変わった。


 健二の目に映るのは、見慣れない風変わりな古い建物群だった。


 集落のような拓けた場所に、円柱型の建物が点在している。外観から石造りであることがわかるが、どの建物を見ても屋根がない。何らかの原因で屋根だけがなくなってしまっているようだ。


 健二は辺りの異様な雰囲気に怪しさを感じつつも、建物群を横目に道を進んでいく。昨夜、祖父の家を抜け出したときとは違い、今は建物どころか辺りの雰囲気さえまるで違う。


 不安を隠しきれず、戸惑っている健二をよそに、スノウはそそくさと進み続ける。


「まあ、私について来れば心配は無用だ……この近くに街があるはずだが」


 健二は何も言えず、スノウのあとを付いていくことしかできなかった。


 スノウが言った通り、建物群を抜けると、なだらかな丘陵地帯の中に、街が突如として現れた。


 ちょうど街を見下ろすことができる丘の上から、健二は遠目から街の様子を探った。街の外観を観察して思ったのは、街というより、ちょっとした市街地だ、ということだ。別段、高層な建物が目立つという分けでもないが、建物の高さや様式が統一されているらしく、遠くから眺めていても均一の採れている整然とした街並みだ。


 街の周囲は外壁によって囲まれ、北側の遙か遠くに山脈が見える。そこから、緩やかな湾曲を成し、下流へ向かう河川が街への支流となり街の生活を支えているようだ。


 街の入り口には、川を跨ぐように石と鉄骨でできた大きな橋が架かっている。そこを人々が行き交う。街に入り目の前に広がる風景を目にした健二は、驚きを隠せなかった。そこには、西洋を思わせる街並みが広がっていた。


 建物は石造りかレンガ造りの二、三階の建物が、区画ごとに建ち並び、そこを行き来している人々も西洋風の格好をしている。街中に立っていると、まるで自分が外国にいる感覚に陥る。


「ここがどこだかわかったぞ」


 街並みを凝視していたスノウが、思い出したように軽快な口調で言う。だが、スノウの言葉は、健二の耳には届いていなかった。


 目の前にある風景が、自分が記憶している祖父の家の周辺のものでないことは明らかだった。そこで、スノウが言っていた『境界門』なる言葉を思い出した。あの言葉は、冗談でも虚言でもなかったということだ。だとすれば、自分は今どこにいるというのだ。遠くどこかの地、あるいは外国なのだろうか。


「ここはカトラリアだ。知っているか……知らないだろ」


 スノウの言葉に健二は返答できず、たじろぎながら改めて辺りを見渡す。健二は混乱の渦の中で、自分の状況を把握しようと必死に落ち着きを取り戻そうとする。一度目を閉じ、深呼吸のあとに、ゆっくりと目を見開く。


「大丈夫か。気分が悪そうだが」


 スノウはそう言って、面白がるように低く笑う。そんなスノウの態度が苛立たしかったが、スノウの様子から、この場所に詳しいことはわかる。ここは大人しくスノウに従った方が良さそうだ。


「別にそんなんじゃないよ」


 スノウの言葉に、健二は素っ気なく返す。それを気に留める様子もなく、スノウは軽い足取りで街の通りを進む。


「今日はこの近くに宿を取って、明朝にはすばやく目的地に向かわなくてはならない。そうでないと追っ手に捕まってしまう」


 街の通りを歩いていくと、一軒の建物の前でスノウが立ち止まった。


「――ここは」


 建物は大きな通りから奥まった裏路地に建っている。どこからどう見ても、老朽化した建物の看板らしきものは、今にも落下してしまいそうなほど朽ちており、看板の文字も風化によって色あせていて文字が読み取れない。建物の外壁は、何度も塗り重ねられたペンキが、だらしなく剥がれ落ちている。建物は大きな門構えの入り口になっており、併設されている厩らしき建物には、数頭の馬が繋がれている。


「ここは宿だ」


「ここが……今にも倒壊しそうな感じだし、少し気味が悪いよ。本当にこんな場所に泊まるの」


 この宿の外観から、汚らしい内装だということは容易に予想できる。そんな健二の言葉などお構いなし、といった様子で、スノウは小さな前足で宿のドアを押し開けて中へ入っていく。


 中へ入ることに躊躇した健二だったが、仕方なくスノウを追いかける。


 宿のエントランスに足を一歩踏み入れた途端、健二の不満は一気に驚きへと変わる。


 はじめに感じたのは匂いだった。古くさい建物故、黴臭さや朽ちた木工材の湿気を含んだ匂いを想像していたが、厚手の木の両扉を抜けると、甘い香りが鼻を突いた。木香の優しい香りに包まれ、健二は思わず大きく息を吸い込む。はじめに視界に入ったのは内装だった。


 外から見た宿は、二階建ての低く奥行きや幅のないこぢんまりとした佇まいだった。だが、実際に内装を目にすると、驚愕のあまり言葉を失ってしまう。


 健二の様子に気付いたスノウが、得意げに言う。


「ここは魔法使いが営んでいる宿だからな。外より広く感じるんだ。まあ、実際に広いんだが」


 なぜか自分のことのように自慢するスノウの言葉を聞き流し、健二は目の前に広がる奇妙で不可解な光景に、ただ言葉を失っていた。ここが、あの外観を有する宿とはまるで想像が付かない。眼前には、豪華絢爛の内装。艶やかな光沢加工を施された木造様式の開放的な空間。上階へ誘うのは、左右から螺旋状に伸びる贅を尽くした彫刻を施された階段。


 天井にはシャンデリア。眩しい光を放っているのは、蝋燭だけの暖かな明かりだけではなく、クリスタルで模られたシャンデリアの支柱が、眩い明かりを反射しているからなのだろう。


 壁は真っ白な漆喰で塗装され、幾何学模様のような難解の規則的な図形が浮き出ている。


 宿の内装に圧倒されながら、健二はスノウと共にフロントへ向かう。


 手続きが終わり、ボーイに連れられ一室に案内される。


「今夜は外で出歩かないでくれ」


 スノウは、健二が部屋の中に入ると自分は部屋へは入ろうとせず、それだけを言い残すと健二が引き止める間もなくどこかへ行ってしまった。


 部屋に一人だけ取り残された健二は、どうしたものかと部屋を見渡す。


 部屋はエントランスと同様に、目を引く珍しいものが沢山あった。何に使うのかわからない水晶玉。壁に掛けられた大きな太刀。一番不可解だったのは、宙に浮いたふわふわとした柔らかそうな不可思議な物体だった。雲のようにも見えるが、一体何のためにこんなものが部屋にあるのか不可解だ。他にも見たことがないものがたくさんあるが、どれを見ても健二にとっては、理解不能な代物だった。


 暫くの間、部屋にある物品を眺めたり手に取ったりしていた健二だったが、閉塞した空間に独りで過ごすことに窮屈を覚えた。スノウには、部屋の外には出るな、と言われていたが、保護者でもなく、ましてやスノウの言葉に従う義理はない。健二は、気にしまいと部屋を出る。


 建物の内部は三階建ての造りになっており、横長の広々とした内観は廃れた外観とはまるで違う。実施に外観の全貌を把握することはできず、内観を見て何となくそんな感じがしただけなので、本当のところはよくわからないが、部屋の数は六十ほどある。内装は映画で見るようなヨーロッパ風の白塗りに木目調の壁の廊下。廊下を挟むように向かい合わせで並ぶようにして二十程の部屋が並んでいる。


 何の気も無しに廊下を歩き回ると、突き当たりに階下への階段を見つけた。ふらふらと降りていくと、そこには酒場のような空間があった。そこで、健二は自分の目を疑う光景を目にした。あまりの違和感に一度は目を瞑り、数秒後にゆっくり目を開く。そうであってほしくない、という願望がいつまで経っても目を開かそうとしなかったが、何とかそれが現実であってほしくない、という懇願と淡い期待が健二の目を開かせた。


 健二が目にしたのは、人間離れした者達の賑やかな宴の場だった。一見するとただの人にも見えるその者たちは、注視すると異様な姿をしている。まるで、熊が仁王立ちをしているのかと思わせるほど、巨漢の男や初老であるが恐ろしく小柄な男や女。男や女たちの中には、恐ろしく毛深い者の姿も目に入った。


 健二は自分の目に映る光景の信じがたさに思わず後退る。ここにいるのは、明らかに常人ではない。自分の姿とは似ても似つかないその姿に、混乱でこころが掻き乱され落ち着かない。とりあえず、この場から離れて部屋に戻ろう、と踵を返して立ち去ろうとしたとき、何かに躓いて転びそうになる。だが、身体が宙を浮いた感覚のあとは地面に倒れることなく、何かに引っ張り挙げられたかと思うと、激しく揺さぶられる。気付いたときには、再び地面に立っていた。


「危ねぇぞ兄ちゃん」


 背後から声が掛かり振り向くと、そこには一人の男が立っていた。どうやらこの男とぶつかって躓いたところを抱え上げられたようだ。だが、男の姿を目にしたとき、驚きのあまり足が縺れ尻餅をついてしまった。


 そこに立っていたのは、背丈が優に三メートルを優に越える大男だった。男は背丈が天井より高いせいか、うつむき加減で立っている。肩幅は大人が三人並ぶほど広く、まるで壁が迫っているように感じる。見下ろすような男の体勢に、威圧感を覚えた。


「大丈夫か」


 全身が震えるほどの恐ろしく低く野太い声で、男が健二の顔色を窺うように言う。佇まいだけでなく、その声の低さにも威圧され、健二は身震いする。


「は……はい」


 男の言葉に、健二は力なく答える。




「よお、兄ちゃん楽しんでるか」


 男は楽しそうに、樽を両手に抱え満面の笑みを浮かべる。三升の酒が優に入るであろう樽を軽々と持ち上げると、呷るように樽を掲げて一気に飲み干す。そんな豪快な飲みっぷりに、健二は感嘆の声を上げて笑う。


「すっごく楽しい」


「そうか、それは良かった」


 そう言うと男は豪快な声で高笑いをする。そのとき、背後から声が掛かった。


「君はここで何をやってるんだ」


 振り返ると、一人の少年が呆れた表情で健二を睨み付けていた。


 身の丈は健二より少し高く、きりっとした目元にくっきりとした鼻筋。丸い輪郭の青白い顔が、こちらを怪訝そうに睨み付けている。だがその顔立ちが、どこか幼さを思わせてしまい、恐れや緊張を抱くことはなく、違和感だけが健二の感情を揺さぶる。


 白銀の装束を身に纏い、腰まで届きそうな程な赤みがかったブロンドの長髪。だが、手入れを怠っているらしく枝毛が目立ち、僅かにカールの掛かったかさついたくせっ毛が、服装の清潔さとは反して不潔さを感じさせる。華奢で細身な身体は、距離を隔てると実際より背丈が高く見えてしまうほどの錯覚を覚えるが、健二と同じ年頃の少年にしては細すぎる体格は、強風が吹けば煽られそうだ。健二には、そんな少年の顔立ちや出で立ちよりも目を引かれたものがあった。それは、少年の瞳だ。その瞳が何よりも印象的でそこから視線を逸らすことができなかった。大きな両の眼から覗く大きな瞳は、黄金のような煌めきを放つ金色の左の瞳。そして、透き通るように澄んだ銀色の右の瞳。


「――誰」


 つい見とれてしまっていた健二だったが、ふと我に返り少年に尋ねる。このような場所で見ず知らずの者に声を掛けられる覚えなどなかった。この場にいる自分が、場違いなのだろうか。悪目立ちでもしていたのだろうか、と思ったが、少年は呆れた表情を更に滲ませる。 


「ここで何をしているんだ。部屋から出るなと言ったはずだ」


 そう言った少年の言葉の真意を理解できず、健二は戸惑う。図々しく、ぶしつけな態度に苛立ちと不安が募る。この少年は一体何者なのか。そして、なぜか少年の外見に既視感を覚えた。


「――スノウ」


 健二の口から思わずその名がこぼれ落ちると、少年は眉を吊り上げる。まるで、難問を出題したものの、なかなか解答が出ないことに苛立ち呆れてた反面、やっと解答がでたことでどこかで安堵している、といった様子だ。


「そうだ……ここで何をしているんだ」


 健二の言葉に、スノウは軽く頷くと先程の言葉を繰り返す。スノウの表情は不満そうだった。健二が無断で部屋を抜け出したことを快く思っていないようだ。


「見たらわかるだろ。楽しんでるんだよ……ていうか、犬じゃないんだ」


 スノウの不満を呷るように健二が言うと、スノウは呆れた表情で頭を振る。


「犬のわけがないだろう。普通の犬が口を利くと思うのか。これが私の本当の姿だ。それより、部屋から出るなと言っただろう。部屋に戻るぞ」


 そう言うと、スノウは健二に有無を言わさず強引に部屋まで引きずっていく。


「何で駄目なんだよ」


 無理矢理に腕を引っ張られ、痛みに耐えきれず健二はスノウの腕を振り払う。


「何度も言っているだろう。君は追われてる身なんだ。自覚してくれ」


 スノウが苛立ちを隠しきれない様子で言う。人の姿で健二の前に立っていることで、犬の姿でいるときより表情が読み取りやすいだけに、その苛立ちがより明確だ。


「何言ってるんだよ、勝手に俺を連れてきておいて……ていうか。俺、そろそろ家に帰りたいんだけど。母さんも心配してるだろうし」


 健二はそう言ってスノウに詰め寄るが、スノウは落ち着いた口調で言葉を返す。


「何を言っている。私が君をここへ連れて来なければ、君は既に死んでいたんだぞ」


「それってどういうことなんだよ。何で俺が命を狙われることになるんだよ」


 健二はスノウの言っていることの意味が理解できずに尋ねるが、スノウは、言及しようとはせず、健二を諭すように言う。


「その説明は今できない。それより、ここでは何があっても私の言うことに従ってくれ」


 スノウはそれ以上、何も語ろうとはしなかった。健二はそんなスノウの態度が不満だったが、ここは自分が知らない土地だ。この地に詳しいスノウに逆らっては、無事に戻れようにも戻れない。ここは大人しく従うしかないのだ、と自分に言い聞かせる。


「はいはい、わかったよ。ちゃんと言うことを聞いとけば良いんだろ」


「……本当ににわかっているのか」


「わかってるって」


 疑わしげに健二の表情を窺うノウに、健二は素っ気ない態度で言う。

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