1.夏休み

 少年は、車の助手席からの風景を呆然と眺めていた。


 車が走るのは、ある片田舎の農道。舗装状態が悪いせいか、道にできた小さなくぼみでタイヤが跳ねると、車は心地良く上下に小刻みに揺れる。車の助手席を少し倒した状態で乗っている少年には、心地の良い眠気が襲ってくる。


 車の窓ガラス越しに見えるのは、現れて過ぎ去っていく木々ばかりだ。


 気が遠くなるほど続く木々の姿を見せられたまま農道を暫く走っていると、風景は広々とした田園に変わる。


 田舎の風景、という言葉に相応しく、ビル群はおろか、家々さえどこにあるのかと探さなければ、その姿を認めることができない。眼前には、緑黄色の絨毯が縦横無尽に広がり、視界の殆どを埋め尽くしている。


(また退屈な景色……)


 少年は心の中で、深々と落胆のため息を吐く。


 目の前には、田園風景が広がっている。巨壁を成すかのように聳える連山が、四方を囲むように連なって形成された盆地。山脈の頂上付近は、雲が掛かっている。どうやら、頂上付近は天候不良らしい。こちらはそれとうって変わり、雲ひとつない紺碧の晴天に、燦々と輝く真夏の太陽が、我が物顔で居座り、容赦のない日差しを振りまいている。


「健二。そろそろ起きて、もうすぐでおじいちゃんの家よ」


 少年は母の言葉を聞き流す。どうやら、寝ていると思われていたようだ。


 外の風景は、少年にとっては退屈なものだった。学校が夏休みに入り、家に閉じこもって何もしていない少年を見かねた母が、郊外から少年を連れ出した。母曰く、田舎の暮らしを体験し、今後の生活に活かせということだ。だが、少年にとっては、ただの有難迷惑だった。家にいてもここにいても、何も変わらない。何より、こんな退屈で窮屈な片田舎で何をするというのだ。


 スマホの画面を見てみるが、電波は圏外になりかけている。この時代に、圏外になる場所があるのか、と思うと、少年は思わずため息が出るのを抑えきれなかった。それを見た母が呆れた顔をするが、少年にとってはどうでも良かった。


 母からこの話を持ち出されたとき、少年は田舎を行くことを拒否したが、父は夏休みだというのに県外への出張。母も実家に帰るのだという。そうなってしまっては、家に独りで留守番をすることになる。少年自身、それも嫌だったし、母がそんなことを許すはずがなかった。母に半ば強引に説得され、仕方なく付いてきただけのことだった。


 田園風景に沿って続く農道を暫く進むと、少しずつ田舎の家々が見えてきた。


 建物はどれも古い平屋ばかり。家々は間隔を開けて建っているが、隣同士が徒歩で五分以上は掛かるのでは、と思えるほど遠く、人々の姿がないせいか閑散としている。そんな景色を何の気なしに眺めていると、いつの間にか、車は祖父の家の敷地に入っていた。


 母が家へ向かって連なる轍に沿って車を進める。建物の脇に車が停まり、降りるように急かされる。


 ドアを開け放ち、両手を突き上げると力を込め背伸びをする。ここへ来るまでの長い時間、車に乗っていたせいで、強ばり悲鳴を上げる全身に血流を促す。


 祖父の家の敷地は、二百坪くらいはある大きな瓦屋根の家屋で、住んでいるのは祖父母のみだ。


 今思えば、ここへ来るのは八歳の時以来で約五年ぶりだ。その頃以来、ここへ来る機会に恵まれず、五年も経ってしまった。今では、祖父母の顔をはっきりと思い出せない。


 母の後ろから歩き、荷物を背負って玄関の前に立つ。母が呼び鈴を鳴らすと、室内から慌ただしい足音が聞こえた。古びたアルミの引き戸が、がらがらと音を立てて開くと、そこには老年の女が立っていた。


 女は健二の顔を見ると、日焼けをして皺とシミが目立つ顔を大きく歪める。


「あら健二じゃない。いらっしゃい」


 そう言って、祖母は戸口に立つ二人を家へと招き入れる。


 健二はおずおずと家の中へ足を踏み入れる。


 家の中は、古い木の匂いと何かを煎たような煙たい匂いに混じって、カビ臭さも漂ってくる。慣れない匂いが鼻を突き、健二は思わず後退ってしまった。すると、不意に太い腕が健二の視界を遮る。瞬く間に身体を引き寄せられると、抵抗する間もなく強烈な圧迫感に包まれた。突然の祖母の抱擁に、健二は抗う術もなく、ただされるがままとなってしまった。


「あんたの髪、お母さんと同じで硬いわね。つんつん頭」


 祖母は高笑いをして健二の短髪の頭を撫でる。祖母の抱擁からようやく解放され、居間へ入ると、そこに老年の男の姿があった。健二は、それが祖父だとすぐに気付いた。


 祖父は、大きな背もたれ椅子に深々と座っていた。その正面には、テレビが据えられている。健二は、そのテレビの場違いな佇まいに顔を歪める。古いブラウン管のテレビを想像していたのだが、そこにあったのは、五十インチほどはあろうかという大画面の立派な液晶テレビだった。しかも、これ見よがしに、テレビは壁に取り付けられている。


 祖父はちょうど午後のニュースを見ているところだった。食い入るようにして睨んでいた鋭い目付きは、健二の姿を認めると、おおらかで優しい笑みに変わる。


「よく来たな健二。それにしても大きくなったな。いくつになったんだ」


 祖父はそう言いながら座っていた椅子から立ち上がると、健二に歩み寄る。健二の記憶では、いつも祖父を見上げていた覚えがあったが、今ではその目線は殆ど変わらない。


「そうかな。大したことないよ。俺、学校でも別に大きい方じゃないし」


 健二がそう言うと、祖父は微笑む。


「それでも、おじいちゃんからしたら十分大きくなったよ。何せ五年ぶりだからな」


 そう言って健二の頭を撫でる。そのとき、健二は何となく懐かしさ感じがした。今のように、小さい頃も、祖父によく頭を撫でられていたような記憶が蘇る。


 荷物を下ろし、祖父と居間でくつろいでいると、母が台所から顔を出す。


「健二もご飯の支度するの手伝いなさい。一番若いのが働かないでどうするのよ」


 母に促され、ふて腐れて立ち上がると、今度は祖母が台所から顔を出す。


「座ってて良いのよ。ここまで来るのに疲れたでしょ。健二は休んでてちょうだい」


 祖母がそう言うと、母は反論しようと何か言いたげな様子だったが、思いとどまったのか口を噤む。


 どうやら、この家の主は祖母らしい。祖父も祖母に忠実で、食事が運ばれてくると邪魔にならないように、そっとテレビと椅子との間に置かれている食卓から離れ、祖母に道を譲る。祖母が食器の準備をするように促すと、小言を並べることなく素直に従う。それを見ていて、健二は内心で面白がっていた。祖母と祖父の関係性が、郊外の家で見る母と父にまるでそっくりなのだ。家の外ではどんなに仕事ができて、同僚たちから信頼され慕われる父も、家の中では母の言葉には逆らえない。


 皆が席に着き、少し早めの昼食が始まった。五年ぶりに祖母が振舞った食事を口にする。五年ぶりの祖母の料理の味など覚えていないはずだというのに、口にしてみると何とも言えない温もりに満ちた懐かしさを感じる。いつもの、母が買ってくる手軽とも言い難いインスタント食品や店の惣菜とは違い、祖母の料理は手が込んでいる。


「そういえば、健二」


 突然、祖父が思い出したように口を開く。何事かと、健二は祖父に視線を向ける。今までは、優しく明るかった祖父の表情が、険しく深刻になっている。訳がわからず、圧倒される健二を目の前に、祖父がおもむろに口を開く。


「いいか、これだけは良く聞いてくれ。家の裏側にある森には入っちゃいけないぞ」


 祖父が口にした言葉の意味がわからず、唖然としていると、今度は祖母が口を挟む。


「あそこは先祖代々『鎮守の森』って言われててね。神様の土地だからお許しがない者が入っちゃいけないんだよ」


「そういうことだ。決して入っちゃいけない。約束してくれ」


 健二は何かの冗談か、子供を怖がらせようとする怪談の類いなのでは、と思ったが、祖父母の表情は真剣そのものだった。そのとき、今まで口を噤み静観していた母が口を挟む。


「父さん、母さん、良い加減にしてよ。健二に変なこと吹き込まないで……まさか、身内以外にもそんなこと言いふらしてないでしょうね」


 呆れた様子で諫める母の言葉に、祖父母はそれ以降、森の話題を口にしなかった。話の続きが気になる健二は、悶々としたしこりのような違和感だけが残り、それは母への不満となる。


 母はいつもそうだ。あれは駄目、これは駄目と言っては、健二を叱りつけるが、その理由を尋ねても、それが決まりなのだからそうしなさい、としか言わない。その言葉を聞く度、自分が無能で非力な存在なのだと思い知らされる。




 蒸し暑さは、田舎へ来たからといって涼しくなるとは限らないようだ。昼間に照りつけた太陽の熱が収まり切っていないのか、夜になっても部屋の温度がやたらと高い気がする。


 快晴で雲一つ無い今夜の空には、闇の中でも銀白に輝く月だけが孤独に留まっている。


 健二は眩しいほどに輝く月とは対象的にも、弱々しく輝く星空を窓越しに見ながらここへ来たことを嬉しく思っていた。確かにこの家で住むことは少し辛い。エアコンはなく、扇風機で暑さを凌がなければならない。更に夜になると嫌気がさすほどの蚊の羽音が耳音に響くことはある。だが、それを差し置いても、祖父母の家に来て、今日で一週間になろうとしている。日々が新しい事の連続だ。ここへ来てからというもの、知らなかったことや初めてのことが次々と起こる。それらは、健二の好奇心を湧き立たてるものばかりだ。こんなことは、郊外で住む健二にとってはなかなか体験できないことばかりだった。


 昼間は特にすることがなかったので、家の軒先で郊外の実家から持ってきていた漫画を読んでいた。


 真夏だというのに、祖父母の家にはエアコンがない。蒸し暑さでいてもたってもいられなくなり、外の涼を求めて軒先に座っていた。祖父の家にあるのは、扇風機と団扇だけ。だが、家の中で扇風機を付けても大して涼しくなかった。ここへ来て、唯一後悔していることは、こんな生活を後数週間も続けなければならないということだ。それを考えると泣きたい気分になる。こんなことは、郊外の実家で経験することはなかった。今の時代、どこへ行っても建物の中に入ってしまえば、空調によって管理された空気がある。おかげで、汗をかき逆に凍えることもない。自分は恵まれている生活をしているのだな、とこの一週間を過ごして思い知らされている。


 軒先には、祖父が作った小さな畑がある。家庭菜園ができるほどの広さで、畑には何種類かの野菜が実を付けている。実際、祖父母は農家を営んでいる。今は親戚が後を継いでおり、隠居生活を送っているということだったが、ここでは、ほぼ自給自足の生活だ。それに、周りの家々と交流が深く、食べ物を手に家にやってくる人を何度か見掛けた。皆、祖父母と世間話をしては、食べ物を置いていく。祖父母もこれ見よがしに、訪れた人に自分たちが作った野菜などを持って帰らせる。そのことが、健二にとっては違和感でしかなかった。食べ物は、金を出して買うものだ。というより、世の中は全てのものは、代金で支払わなければならない。物々交換など、まるで大昔のようだ。


 そんな祖父母の生活を支えている畑の上を、何匹もの小さな蝶がひらひらと畑の周りを飛び回っている。そこへ、祖父が網を持ち出し追いかけ始めた。はじめは、虫取りでもしているのかと思っていたが、祖父は捕まえた蝶を無情にも足で踏み潰していく。祖父の恐ろしい行動に、健二は飛び上がる。


 祖父は蝶を網で捕まえては、事務員が書類のハンコを押すが如く、躊躇した素振りなど微塵も見せず、次々と潰していく。


「何やってるのおじいちゃん。可哀想だよ」


 健二は慌てて祖父を止めに入る。祖父は健二の言葉に面食らった様子だったが、何かを悟ったのか、優しく微笑む。そして、意外な言葉を口にした。


「可哀想と思うのは、おじいちゃんだって一緒さ。だけどな、こうしなきゃいけないんだよ」


 祖父の言葉に、健二は困惑する。蝶を殺しているというのに、可哀想、とはどういうことなのか。すると、祖父は諭すように穏やかな口調で言う。


「蝶ってのは、見た目は綺麗だろ。けどな、蝶はおじいちゃんの畑の野菜に卵を産むんだよ。そうすると、どうなると思う」


 祖父の問いに、健二は首を傾げた。祖父が何を言おうとしているのか、意図を理解できない。首を傾げる健二に、祖父は微笑む。


「蝶が産んだ卵からは、蝶の子供が生まれるんだよ。それが幼虫だってことはわかるか」


 健二は祖父の言葉に、黙って頷く。


「幼虫ってのは、おじいちゃんの育ててる野菜を食べて大きくなるんだよ。幼虫は食いしん坊だからな。そっとしておくと、おじいちゃんの畑の野菜を全部食っちまうんだ。そうすると、おじいちゃんたちが食べる野菜がなくなるんだ。だから、蝶が卵を産む前に仕方なく蝶を殺さなきゃならない」


 祖父が優しく説明する。祖父の言いたいことはわかる。だが、その一方で蝶に悪気はないはずだ。幼虫は蝶になるために、野菜を食べているに過ぎないのだから。そっとしておくべきなのでは、と思ってしまう。


「罰が当たっても知らないよ」


 健二が冷ややかに言うと、祖父は笑って言う。


「そのときはそのときだ。これも生活の為だからな」


 そのあとも、祖父は畑で蝶たちと走り回っていた。そんな光景を健二は、複雑な気持ちで眺めていた。


 祖父が蝶との奮闘を終え、他の事を始めたあとも、健二は漫画を読み耽っていたが、遂に漫画も読み終わってしまい、することがなくなった。暇つぶしが終わってしまったと思ったとき、ゲーム機を持って来ていたことを思い出した。健二は自分のリュックサックからゲーム機を取り出す。これで、夕飯までは暇を持て余さなくて済む。


 だが、日が暮れる前に、ゲームにも飽きてしまい、健二は家の周りを散歩することにした。


 郊外から離れ、自分の肌にはまるで合わない田舎に来るのは滅多にないことだ。健二は物珍しいものがないかと祖父の家の周りを散策する。


 暫く歩くと、いつの間にか森を目の前にした道の入り口に来ていた。


 昼間の明るい雰囲気から隔たれ、まるで何者も寄せ付けまいと重苦しい空気を漂わせ、物静かに佇んでいる。

 

 森の奥へ伸びる道は、不気味なほど薄暗く、光や音の全てを吸い込んでしまうのでは思えてしまう。健二は、そんな森の暗い雰囲気に、言い知れぬ魅力を感じた。恐怖の直中にいても、その原因を突き止めたい、という抑えがたい好奇心。祖父には森が、『鎮守の森』と呼ばれ、神域に入ることは許されない、と言われているが、少しだけなら大丈夫なのでは、という根拠のない自信と好奇心を抑えることができず、すくみ足になりながらも、森の中へ足を踏み入れる。


 森の中へ足を踏み入れると、外から見るものとは違う別の景色があった。そこには柔らかな空気が漂っており、昼間の眩しい日差しは、立ち並ぶ木々の広葉によって遮られ、柔らく暖かな光陽となり地面に優しく注がれている。木々の合間を縫って涼しい風が吹き抜け、小鳥たちのさえずりが、どこからともなく聞こえる。冷たい空気によって水分を含んでいる湿った地面は、足つきが良く、意外と歩きやすい。湿った土の匂いと微かに香る広葉の匂いが、森の雰囲気を一層引き立てる。


 健二の足取りは、次第に軽くなる。郊外では決して味わうことができない経験。自然の中で、ただ自由に歩き、五感を駆使し神秘的な空気を感じ取る。感覚の全てが、健二にとって新鮮であり、今まで経験したことのない幸福感となっている。


 道を暫く進むと、視界の隅にあるものが映った。一瞬、それが何かわからなかったが、目を凝らすことで何であるかはすぐにわかった。

道から少し外れ、拓けた場所には、今にも朽ちてしまいそうな年期の入った古い井戸があった。井戸というものを実際に目にしたことはなかったが、何となく自分がイメージしているものの通りだった。


 井戸からは、抑えがたい不可思議な雰囲気が漂っている。まるで、森に足を踏み入れたときのように、恐怖心を覚える一方で、その正体を探らずにはいられない渇望や欲求にも似た好奇心が、健二の心を擽り、井戸への足取りを誘う。


 健二はおずおずと井戸に近づいてみる。このような人気の無いところに井戸があることに、違和感を覚えた。誰が何の目的で掘ったのだろうか。祖父が口にしていた『鎮守の森』と何らかの関係があるのだろうか。すると、そこで不思議なものを目にした。


 井戸の傍らに、一匹の犬がいたのだ。この辺りの野良犬なのだろうか。見たことのない小型犬で、犬種はわからない。チワワやマルチーズとは、似ても似つかない大きな垂れた耳に潰れたような小さな鼻が印象的だ。全身を覆う伸び放題の薄汚れ乱れきった毛並みが、犬の不潔さを物語っている。不細工と言うにはあまりにも当てはまる外見に健二はふっ、と笑いが込み上げる。


 犬は地面に行儀良く座り、じっと健二を見つめている。暫くの間、互いに視線を交差させていたが、犬は決して健二から視線を逸らそうとはしない。健二はそれが、徐々に不気味に思えてきた。なぜ、人気のない森の中に犬がいるのだろうか。


 犬は微動だにせず、座ったままじっと健二を見つめていたが、突然立ち上がると薄ら笑いを浮かべた表情を見せる。そして、地面を這うように健二に近付いてきた。


 身の危険を感じ、健二は後ずさりをしようとするが、地面に這っていた木の根に足を取られ、尻餅をついてしまう。打ち付けた尻をさすりながら急いで立ち上がろうとするが。犬は既に、健二の鼻の先まで迫っていた。


 圧迫感と恐怖で怯える健二に、犬は不可思議な行動を取る。


「今夜、君は命を狙われることになる。迎えに来るまでは用心しておくんだ。迎えは今夜零時」


 突然、話し掛けられた健二は、混乱してあたりを見渡す。この場には自分しかいない。だが、確かに声が聞こえた。空耳などではないはずだ。ここで、再び何者かが健二に語りかける。


「私が言ったことをちゃんと理解しているのか」


 そう言ったのは犬だった。健二は目の前で起こったことが信じられず、自分の頭がおかしくなったのでは、と思い、落ち着きを取り戻そうと何度も深呼吸をする。


「大丈夫だ。そんなことをせずとも、これは現実だ」


 今度は確信が持てた。確かに犬が喋っている。


「今言ったことを覚えておくんだ。そうでなければ君がどうなっても知らないぞ」


 それだけ言うと、犬は煙を撒くようにして消えてしまった。気味が悪く不思議な瞬間だった。


 健二は困惑したまま、姿を消してしまった犬の姿を探す。だが、犬は完全に姿を消していた。


「何なんだ今の……犬が喋ってたような。気のせいかな……いや、確かに声を聞いたし……それに、あの犬が言ってたことって何だったんだ」


 腑に落ちないまま、健二は来た道を戻る。




 健二は、はっと目を見開く。どうやら、昼間の出来事を思い出しているうちに眠ってしまったらしい。


 目が冴えてしまい、重たい瞼を察すると、健二は寝床から抜け出し縁側へ出る。外は昼間に比べ、いくらか蒸し暑さはなくなったが、それでも依然として暑苦しい。


 ふと空を見上げると、完全に夜は更けてしまい、夜空に上がった月が、ちょうど真上に差し掛かった頃だった。月は、どこまでも広がる暗闇のほぼ中心に浮かんでいる。今までは、こんな風に穏やかな気持ちで夜空を見上げることなどなかった。都会の空に、見上げて観賞に浸るほどの価値はない。ここに来てから、毎日が経験したことのないことの連続だ。日々の新しい発見に、いつしか健二もこの場所での生活が楽しくなっていた。だが、今日の昼頃に森の中で目にした光景が、いつまで経っても健二の脳裏にこびり付き、それが気掛かりで仕方がなかった。


「――何だったんだあの犬」


 呆然と庭の畑を眺めていると、何者かの気配を察した。


「やあ、起きていたか」


 気配を探ろうと感覚を研ぎ澄ませていた健二に、語り掛けるように軒先から声がした。そこへ視線を向けると、昼間の野良犬が、行儀良い姿で座っていた。


「――昼間の野良犬」


 健二がそう言うと、犬は不満げに言う。


「野良犬じゃない。スノウだ」


「スノウ……それが名前なの」


 再びこの犬と話しをすることになるとは思っていなかった。


「ああ、そうだ」


「――それで、何の用なの」


 犬と話しをしているなど、滑稽にも程がある。自分がペットを飼っているのなら、一方的にしゃべり掛ける光景はごく自然なことだ。だが、向こうが言葉を発することなど、ペットにしゃべり掛けていても絶対にあり得ないことだ。


「君を迎えに来たんだよ。言ったはずだろう、今夜零時に君を迎えに行くと……おい、お前たちもいつまで隠れてるんだ」


 スノウが何かに向かって言葉を投げ掛ける。すると、茂みの奥から怪しげな二人の男が現れた。一人は長身で細身。もう一人は短身で丸々と太っている。どちらも、身嗜みなど気にしたことがない、とでも言いたげな装いだ。


「おいお前。さっさとスノウの言葉に従わねぇか」


 短身の男が、苛立たしげな様子で言う。そんな男の態度に、健二は唖然とする。突然姿を見せたと思えば頭ごなしに怒鳴るなど、自分はこの男が気に食わない言動でもしてしまったのか、と当惑する。


「コイツはこんな性格だからよ。いつもこうなんだ。気にすんな」


 怒鳴る短身の男を宥めながら、長身の男が申し訳なさそうに言う。


「お前は余計なこと言ってんじゃねぇよ」


 短身の男が長身の男に罵る。


「とにかく、何も言わずに付いて来てくれ」


 スノウは懇願するように言う。どうやら、何らかの都合があるらしく、時間に追われているようだ。一刻でも早くこの場から立ち去りたい、という焦りが、スノウの態度から滲み出ている。


「――まさか本当に来るとは思ってなかったけど……俺は行かないよ」


 健二の言葉に、いよいよ焦りと苛立ちを見せ始めたスノウが少し気の毒に思えた。


「行くってどこへ。何で俺が行かなきゃならないんだよ」


 話しを聞いてやるだけでも良いなら、と健二は言葉を継ぐ。


「先程から言っているだろう。君は狙われている」


 スノウの必死な態度に、どうするべきか、と考えあと、気に食わなければ引き返せば良い、と安易に考え、健二は軒先に出る。


 早足で先を急ぐスノウと二人の男を追いかけて、健二は祖父の家を抜け出す。どこへ向かっているかと不思議に思っていると、視線の先に森が見えた。祖父が言っていた『鎮守の森』だ。神の領域にして、許されざる者がそこへ足を踏み入れることが許されない土地。


 それを目にした健二は不穏な空気を感じた。昼間の柔らかい雰囲気とは違い、深い冷たい暗闇が広がり、寸分先の視界を認めることもできない。だが、なぜかスノウの姿は、暗闇の中でもぼんやりと浮き出ている。何とかスノウの後を付いていくと、突然スノウが立ち止まる。危うく踏み潰しかけてしまい、健二は前のめりに地面に膝を突く。


「――近い。結界が破られたのか」


 何かを感じ取ったのか、スノウは呟いて辺りを見渡す。スノウの様子が気になり、スノウの視線の先を追いかける。だが、スノウが何を凝視していたのかはわからなかった。


 暫く進んでいると、拓けた場所に出た。辺りは闇夜にさんざめく銀白の月光に照らし出され、幻想的な空間を造り出している。そこには、昼間に見た古井戸があった。


 この場所には何もない、ただ、目の前に井戸があるだけだ。なぜ、こんな場所に連れてこられたのかわからない。もしかすると、悪戯の類いか。それか田舎で起きる誘拐なのか。


 健二が困惑しているのを横目に、スノウは井戸に近付くと謎の行動を始める。井戸の周りを一回りすると、井戸の縁に座り長々と謎の言葉を口ずさむ。


 スノウの謎な行動の数々に戸惑っていると、自分の背後に気配を感じ取った。振り返ってそこへ視線を向けるが、何かがあるわけもなく、そこには静まり返った闇が沈んでいるだけだった。徐々に募っていく恐怖心を必死に堪えていると、井戸の辺りで不可思議な現象が起こる。


 井戸の底から細い光が細い糸状に立ち上る。まるで、繁華街で見掛ける店の看板を彩るネオンが、井戸から立ち上り闇を薄く照らしているようだ。


 健二はその光景に目を奪われる。その正体が知りたいという欲求に抗えず、井戸の底を覗き込む。


「――何が起きてるんだ」


 好奇心を抑えられない健二の様子に、何やら作業を続けているスノウが、邪魔くさそうに低い声で言う。


「まだ魔方陣は完成していない。君は少し離れていてくれ」


 光は辺りを柔らかく照らし出し、夜空へ果てしなく伸びている。光は徐々にその太さを増していき、遂には井戸の口一杯に広がった。


「さあ、行くぞ」


 スノウはふうっ、と息を吐くと、井戸の縁に立つ。


「何なんだよこれ」


 健二は、目の前に現れた光の柱をただじっと見つめる。これが現実に起きていることなのか、そうでないのかを見分けられない。もしや、自分は未だに夢の中にいて、夢がこの幻想を創り出しているのではないか、と思いたかった。


「君はこの柱の中心に立つ。あとは流れに任せればなるようになる」


 スノウの言葉に従い井戸に足を掛けた時、背後で物音がした。


「――早いお出ましだな」


 その気配に気付いたスノウが、憎らしげに睨み付けた先には人影があった。そこには、一人の男が立っていた。だが、その出で立ちに健二は違和感を覚える。


 黒いシルクハットに漆黒の艶やかな生地で仕立てられた燕尾服。片手には、鷲の頭部を模った持ち手が印象的なステンレス製のステッキ。その装いは、まるで英国紳士のようだ。皺ひとつ、ましてや汚れさえ見当たらない燕尾服は、清潔感と言うより完璧潔癖主義を主張しているかのように思える。


「おじさん……誰」


 健二が尋ねると、男は不適な笑みを浮かべる。


「さあ、それはあなたが一番わかっていることなのだと思うのですが」


 男は意味深な言葉を口にすると、大股で健二に歩み寄る。男の発言が理解できず、健二は困惑する。そして、この男が危険な存在なのだ、と本能的に理解した。


「おいおい、マジかよ」


 健二の後に立っていたトッドは、男の姿を認めると悪態をつく。どうやら、互いに面識があるらしい。


「なぜここにお前がいるんだ」


「いやいや、あなたが知る必要はありませんよ」


 今にも男に向かって飛び掛かりそうなトッドの言葉に、男は無邪気に笑う子供のような満面の笑みで答える。互いの言動で、両者が対立する関係であることは容易に理解できた。


「トッド、この人誰」


 男の正体が気になり、トッドに尋ねると、思いがけない答えが返ってきた。


「お前の命を狙ってる奴だ」


 自分が生きている世界において、普通に生活していて命が狙われることなどあり得ない。健二はその言葉を聞いても、自分の命が狙われていることに実感が持てず、他人事のような気がしていた。それでも、男から感じる何とも言い難い威圧感に底知れぬ恐怖を覚え、男から遠ざかる。


「ああ、待ってください。逃げないでくださいよ」


 男は満面の笑みを保ったまま、後退りをする健二に更に詰め寄ろうとする。男の手には、暗闇の中でも鋭い光を反射する金属が握られていた。それが剣だとわかった。男が鋭い目つきで健二を見据えると突然全身が緊張して動かなくなった。


 身体が硬直した健二を手に掛けようと男が剣を振りかざしたとき、何かが弾けたような音と共に、辺りが真っ白な発光に包まれる。光に目が眩んだ健二は、バランスを崩してよろめく。


「早くスノウのところへ向かえ」


 健二と男の間に割って入ったトッドが叫ぶ。視界が回復し、必死にトッドとドリスを姿を探した。二人の手にも剣が握られている。どこに隠し持っていたのだろうか。ふと、場違いな疑問が健二の脳裏を過ぎる。


「はいはい。雑魚はどいてなさいな」


「その口叩けるのも今の内だぞ」


 男の挑発にトッドは怒り任せに凄む。男が振り下ろした剣先を難なく躱すと、二人も反撃に出る。突然始まった死闘に、健二は脚の力が抜けてぃまいその場に座り込む。自分の目の前で起きている死闘がまるで現実とは思えなかった。


 健二は、訳がわからないまま、助けを求めるように地面を這ってスノウのもとへ向かう。


「やっと来たか」


 スノウは健二を待っていたとばかりに、ゆっくりと立ち上がると静かな口調で言う。


「ほら、早くしないとあの二人がやってることの意味がなくなる」


「――大丈夫なの、あの二人」


「大丈夫さ。見かけによらず強いからなあの二人……」


 スノウは井戸の縁に立つと健二を手招く仕草をする。健二もスノウ習って井戸の縁に立つ。すると、突然スノウに背中を押されバランスを崩した健二は、柱に呑み込まれるように井戸の底へ落下する。井戸の縁に手を掛けようと必死に腕を伸ばすが、僅かに届かず、両掌は空を切る。急降下する身体が、地面に衝突する衝撃を少しでも和らげようと身構えるが、そうはならず、全身がふわりとした不思議な感覚に包まれただけだった。ゆっくりと目を開くと、自分の身体が宙に浮いているのがわかった。何とか体勢を立て直す。まるで、そこに地面があるかのように、足にはしっかりとした地面のような感触があった。足下を見下ろすと、井戸の底に何やら丸い図形が目に入った。


 図形には、見たことの無い形の文字が円に沿って刻まれている。錬金術、あるいは魔方陣なのだろうか。それを認めるや否や、空間が歪み始めた。目の前の視界が陽炎のように大きく揺れ動く。急激に視界が歪んだことで船酔いのような感覚に陥り吐き気をもよおす。


 健二の心境などまるでお構いなしが如く、歪んだ空間が回転を始めると徐々に速度を増していく。空間は水中の渦を巻くように健二に迫る。巻き込まれないようにと必死に抗うが、姿勢を維持することができなかった。次の瞬間には、周りの空間が弾けるように消え去ると、突如として様々な光景が視界を覆う。海、山、川、谷、街、平原、雪景色、山小屋、群衆、赤い夕焼けの空。光景は現れては渦を成して消えていく。健二はその渦の中へ呑み込まれていく感覚と共に、自分の意識が薄らいでいくのを感じた。

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