第四話 愚かな者よ

 その姿は、心の片隅で密かに焦がれていた母とはあまりにかけ離れていた。

 醜い。

 そう思ったことを、気付かれたのだろう。女が、憐みを誘うように眉尻を下げてぼくの胸中を見透かしてきた。



「あぁ……醜いねぇ、おぞましいねぇ。こんな母親は嫌だろう。分かるよ、哀れなあたしの子。それでも、あんたを忘れたことなんて一度もなかったんだよぅ」


 信じておくれと、奇妙に黒ずんだ手を格子の隙間から伸ばして、乞食が言う。

 その声が媚びるようで、ぶわりと鳥肌が立った。開いた毛穴から後悔とか嫌悪とか不快感とかが染み込むようで、知らず自分の腕を何度もごしごしと擦っていた。


《ほら、血を分けた子供なら、その手をとって応えてやるのではないか?》

(で、でも……)


 悪魔が喜々として唆す。ぼくだってそう思う。憐れなこの女の手を取るのが、善いことなのだと。

 でもぼくは躊躇うばかりで、何も出来なかった。それを刹那に冷めた目で見ながら、女が更に問いを重ねる。


「ねぇ、今はどこに世話になってんだい。裁判官かい、教会かい?」

「修練教会に……」

「そおかい、そおかい」


 蚊の鳴くような声で答えると、実に満足そうな相槌を返された。

 よく分からないけど、何かがこの女の満足を得たのかと思ったぼくは、本当に愚かだった。


「で、当然、食べ物は持ってきたんだろうね」

「た、たべもの?」


 耳を疑った。

 あの貧しい修練教会で、ただでさえしょっちゅう独房に入れられては食事抜きにされているぼくに、持ち出せる食料なんてあるわけない。

 今日だって夕食の半分をフェルスたちにひったくられて、宿坊への帰りには「泥饅頭でも腹の足しにしろよ」と石や土をぶつけられたくらいだ。

 持ち出せる食べ物なんて、ぼくが知りたいくらいだ。


「そんなの、ないよ……今日の夕食だって、黒パンと豆のスープが少しだったし」

「その少しを母親に差し出すのが愛情ってもんだろうが!」


 言い終わるよりも早く、ガンッと鉄格子が鳴った。怒声が闇を貫く。

 ヒッと悲鳴が漏れ、また壁に背をびたりとくっつけた。だがそんなもので、鼻が曲がりそうな口臭からは少しも逃げられない。


《成る程、先程聞こえたのはこやつの腹の音か》


 帰りたい。もう限界だと思ったのに、すぐ隣で得心した声が聞こえて、ぼくは当然の事実にやっと気付かされた。

 この狭い通路を歩き始めた時に響いていた怨嗟のような音。あれがこの乞食の腹の虫だというのなら。


「お腹、空いてるの……?」

「当たり前のこと聞くんじゃないよ。何日こんな陰気な場所に閉じ込められてると思ってんだい」


 それは、本当に当たり前のことだった。

 大陸のあちこちで戦が起きている今の時代、農家や教会でさえ、その日の食事を確保するのに必死なのだ。処刑、追放が決まっている乞食に出す食事など、あるはずもない。

 それに比べれば、ぼくは少しとはいえご飯を食べた。質の悪いライ麦でも、具のないスープでも、飢えてはいない。


「あ、明日は……持ってくる、よ」


 考えるよりも先に、そう答えていた。それがちっとも簡単じゃないことは、ぼく自身がよぅく知っているくせに。


《その場凌ぎか? 嘘は善くないぞ?》


 悪魔が、ぼくの心底を暴こうとするように諭す。

 そうかもしれないとも思ったけれど、ぼくはそれを押し隠して否定した。


(違うよ)

《では修練士の言う『善人』にでもなるつもりか? なおたちが悪い》

(……違う)

《ほお。ではついに、母への愛に目覚めたのか? 良いなぁ。良いぞぅ?》


 悪魔が嗤う。ぼくは、やはり否定できなかった。

 この乞食が本当にぼくの母親かどうかは、やはり分からない。証明する術もない。

 乞食は生きるために、他人を騙す。そこに良心の呵責はないという。

 ぼくも騙されているのかもしれない。

 それでも、この女を見捨てたくないと思った。

 憐れに思っただけかもしれない。胸の奥で膨らみ始めた母親という幻想に、目が眩んだのかもしれない。

 でもなぜか、明日なら上手くやれるのではないか、と根拠もなく思った。独房にも入らないで、アイゼンたちを上手くかわして、自分の食事を持ち出してまた石塔ここに来る。

 言葉にすれば弱虫なぼくには到底できそうにない難題に思えたけれど、やり遂げたいと思ったんだ。

 でもその情動も、続いた囁き声に瞬時に冷やされた。


「なら――ここから逃がしてくれんだろ?」

「――――」


 耳を、疑った。

 そして、同時に自分の馬鹿さ加減に心底嫌気がさした。


「逃、がす……?」


 本当に、ぼくは本当に何も考えていなかった。

 母親かもしれないと期待して見に来て、その後ぼくは何をする気だったのだろうか。

 ぼくには鍵を手に入れる手段もなければ、牢番を倒せる力もない。逃げ出しても行く先もなければ、生き延びる術も当てもない。

 ぼくに出来るのは、顔を見て、ぼくを捨てたことを責めて、見捨てることだけだったのだ。そしてこのもやもやを持て余したまま修練教会に戻り、何日後かに処刑が執行されたことをアイゼンたちに聞かされるのだ。

 なんて――なんて残酷な仕打ちだろう。


《ふはは! やはり気付いていなかったのか。お前の行いがどれほど残酷か》


 悪魔が弾けるように嗤う。馬鹿なぼくが、可笑しくて堪らないというように。


《好奇心は猫を殺すというものな。だが今殺されるのは、お前ではなく目の前の女だ。お前の安っぽい好奇心のせいでな》

(ぼくが、知りたがったから……)

《諦めて処刑を受け入れるだけだったところに希望をちらつかせ、それを目の前で打ち砕くとは……。中々に悪魔のような所業よなぁ》


 もう、否定はできなかった。

 取り上げられる希望の残酷さを、嫌という程味わってきたのはぼく自身なのに。それを今度は、ぼくが目の前の女に味わわせている。やっと会えた母親かもしれないのに。


《逃がしてやるのか? そうしなければ、次の処刑で死んでしまうかもしれないぞ?》

(でも、そんなの……)


 できるわけない。

 でもそんなことは言ってはならない。それはまた彼女を傷付けることになる。

 そう頭では分かっているのに、臆病な口はまったくぼくらしい言葉を吐き出していた。


「……そ、そんなことしたら、また折檻されて、何日も独房に」

「それが何だってんだい!」

「ッ」

「母親を助けたいって思わないのかい。薄情な餓鬼だね」


 尻すぼみに消える声を言下に切り捨てて、鉄格子が再び震える。松明が、まるでぼくの恐れを代弁するかのようにうねる。

 ぎらり、と音がしそうな眼光に、斬りつけるような侮蔑が浮かんだ、気がした。

 こんな眼差しを向けられるために、ここに来たわけではなかったのに。


《いや、まだ遅くないぞ》


 悪魔がぼくの弱い心を宥める。


《今こそやっと再会した母に手を差し伸べる時だ。愛していると伝え、その手を取るのだ。さすれば、お前にだって愛を返してもらえるぞ?》

(……あ、い?)

《そうだ。愛が欲しいのでないか? だからこそ、ここまで来たのだろう?》


 そう、なのだろうか。

 愛など、誰もくれない。今まで、それは揺るがない現実だった。修練士様は毎日愛について語るけれど、決してぼくの求める愛をくれることはない。

 でもぼくを産んだ存在ならば。

 そんな浅ましい期待が、なかったはずない。

 愛があれば、こんなぼくでも少しだけ、ましな人間になれるのではないか。

 真っ直ぐな人には、闇の中にあっても情け深く正しい光が昇るという。ぼくはいつだって、その光を遠くから眺めるしかなかった。今まではそれでも良かった。

 でも、愛があれば。


「……そうだ」


 不意に、小さな声がぼくの思考を遮った。


「あんたが逃がしてくれるなら、あたしと一緒に逃げようじゃないか。やっと親子水入らずになれるんだ。そうだそれでいいだろう?」


 おいでと誘うように、鉄格子の間から細い手が伸びる。まるで墓の下の死者が蘇ったような、骨と皮だけの手。

 反射的に首を振っていた。


「む、無理だよ、そんな」

「一緒に逃げちまえば折檻されることもないじゃないか。他に何が不満なんだい」

「不満、とかじゃなくて……、だって、どうやったら逃がしてあげられるかなんて、分からないよ。ぼく、馬鹿だから」

「そんなの少し考えりゃあいっくらでも出てくるだろ。鍵を盗んでくるとか、金槌かのこぎり持ってくるとか、領主を口八丁で騙して釈放させるとか」

「そ、そんなの! 出来るわけないよ……。ぼくは、アイゼンみたいに度胸もないし知恵も回らないし」


 恥ずかしかった。

 こんなことを一生懸命言わなきゃいけないことも、それが保身のための言い訳だということも。


「本当に、嫌になるくらい馬鹿で……」


 返る言葉は、いつまで待ってもなかった。ぼくは顔を上げられなくて、松明に踊る自分の濃い影を見つめながら、風と心臓の音だけを聞いていた。

 逃げ出してしまいたい、と弱々しく思った時だ。


「『愚かな者よ、気付くがよい。無知な者よ、いつになったら目覚めるのか』」


 凜と澄んだ声が、牢獄の闇に響き渡った。ハッ、と弾かれたように顔を上げていた。

 何がそうさせたのかなんて、考えるまでもなかった。

 無知。

 その言葉が、悪魔を殺す杭のような鋭さでぼくの胸を刺したのだ。

 チッと悪魔の舌打ちが聞こえた気がした。

 見開いた視界の中で、ぎらつく二つの眼光が音もなくぼくを見据えている。まるで懺悔を待つかのような沈黙。

 ぼくは耐え切れなくなって、だって、と口を開こうとした時、


「無知や無学を自分への言い訳にするんじゃないよ」


 まるで別人のような聡明さを滲ませた声が、ぼくを𠮟った。それは修練士様の説教に似ているようなのに、無言で鞭を振るう仕置きより何倍もぼくの心を奮い立たせた。


「学は自分の手で掴みとるもんだ。どんな環境でも、学ぶことが出来ないなんてことはない」

「……はい」

「けどその最初を与えてやるのは、大人の役目だろうてねぇ」


 一度頷けば、口調は嘘のように戻ってしまった。それが惜しいのか安心するのか、自分でも判然としなかった。ただ、その目にもう侮蔑の色はない。

 この時、ぼくは𠮟られるということの意味を、初めて知った気がした。


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