第三話 醜い女

 何度も周囲を確認してから、恐る恐る塔の前に立った。

 でもすぐに心細くなって、篝火が作る影の中に身を寄せた。それでもやはり、見張りは見当たらない。見回りなのか交代なのか、人員を惜しんでいるのか、とにかく誰もいなかった。


《これは、神の思し召しというやつだな》


 悪魔が背後から急き立てる。ぼくは恐怖心と好奇心に左右から揺すられながら、入り口まで進み出た。

 震えながらも伸ばした手の影が取っ手に落ち、まるで手招きするようにゆらゆらと揺れている。


『それは悪魔の囁きです』

「ッ」


 修練士様の声が聞こえた気がして、ビクッと背後を振り向く。誰もいないと分かると、また足はふらふらと歩き出していた。

 この道行きが破滅に繋がるなんて、この時は考えもしなかった。




 がちゃん。

 慎重に慎重に重たい扉を閉めたつもりだったのに、塔の中の空洞にびっくりするくらい大きく反響した。

 入った途端に、空気の匂いも変わった。どこかかび臭くて、鉄錆の臭いもする。

 石の隙間を抜ける風が、ぼくをからかうように細く長く体の脇をすり抜けていく。

 でも何より恐ろしいのは、この風が運ぶ死者の国の怨嗟のような声だった。四方の壁に反響してどこから聞こえるのか分からなくて、余計に恐ろしさを掻き立てる。


《お前を呼んでいるようだな》

(よ、呼んでる? この声が、そうなの?)


 思えば、この小さな村に石牢に閉じ込めなければならないほどの悪人が常に蔓延っているとも思えない。そしてこの声がただの虎落笛もがりぶえでないのなら、それを発している者がいるということ。

 もしそれが今から会う人物だとすれば、益々身が竦んだ。


《なんだ、その顔は。母親に会いにきたつもりが、実は魔王の口の中にでも迷い込んだように蒼褪めているぞ》


 悪魔が愉快そうに笑う。でもぼくは、何も答えられなかった。実際、腹の底がそわそわして、酷く落ち着かなかった。何故入ってみようなどと思ったのか、すぐに後悔が押し寄せた。

 それでも、ぼくは進んだ。引き返せば今度こそ見張りに見つかると、悪魔に脅されたからでもあるけれど。

 こつ、こつと、遅いほどに木靴の音が響く。

 廊下はすぐに右に折れ、更に左に曲がった。外から見てもさほど巨大な建物ではなかったはずなのに、左右に迫る壁が延々と続くように思われた。

 迷路みたいだ、と思った矢先、視界が開けた。右は石壁のまま、右側が鉄格子に変わる。と同時に壁に松明が一本挿してあるのにも気付いた。

 今更になって足が竦む。押し殺した苦鳴は、徐々に大きくなっていた。近い。怖い。

 恐々と、一つ目の鉄格子の前を覗く。空っぽ。二つ目の檻の前も通り過ぎる。暗闇が濃い。三つ目の空洞に差し掛かる。


「――牢番、じゃあないねぇ」

「!」


 出し抜けに声がして、ヒュッと声にならない悲鳴が漏れた。必死に両手で口を押さえる。心臓が大暴れして、そのまま口から零れてきそうだった。

 ついに本物の悪魔が現れたと思った。でもあの悪魔は吟遊詩人のような声をしているが、今のはがらがらにしゃがれた、不快で耳障りな濁声だみごえだった。


「だ、だれ……?」


 考えるよりも先に、そんな声が出た。

 今の声が、決して悪魔ではなく人間のものだと確かめたいと思ったのかもしれない。けれど鉄格子の前に出るのは怖くて、でも後ろの闇も怖くて、背中を守るように石壁にべたりと張りついた。

 呻き声が止んで、ぼくの心臓の音が外まで響いているかのような沈黙が続いた。そして、くくっ、と変な音が上がった。


「誰だってえ? 間抜けなことを聞く餓鬼もいたもんだ。馬鹿に捕まった馬鹿な乞食を見に、度胸試しにでも放り出されて来たんじゃないのかい」


 小馬鹿にするような声に、所々女らしい甲高さが混じる。さっきのは笑い声だったのかと思い至ったことで、少しだけ冷静さが戻ってきた。

 心臓はまだ煩いし足も震えているけど、そっと三番目の鉄格子の中を覗き込む。一本ばかりの松明では中なんかちっとも照らせていなかったけれど、僅かに身じろぐ人影のような塊を捉える。


「!」


 目が、合った。

 そんなわけないのに、ぼくは恐ろしくてまた身を引いていた。


《何故逃げる? 念願の母親だろう?》


 悪魔が言葉で背を押す。けれどぼくの全身には、明らかに喜びではない震えが広がっていた。助けを求めるように、一度も姿を見たことのない悪魔を虚空に探す。


(本当に、あれがぼくの母さん?)

《そうだ。きっとお前の母親だ。ここでずっとお前を待っていたのではないか?》

(ぼくを、ずっと待ってた……)


 そこには明らかな誤謬ごびゅうがあったのに、動揺するぼくはそのことにまるで気が付かなかった。

 眼前の石壁に映った人影が、怯えるぼくを見透かしたように面白がって揺れる。


「ほら、何を持って帰るんだい。証拠が要るだろう。そこの壁でも削るかい」


 証拠。

 笑う声に、ぼくはやっと自分が何故ここにいるのかを思い出した。

 そうだ。ぼくは魔王に食べられに来たわけじゃない。


「し、質問を」


 大きく息を吸ったつもりだった。けれど飛び出した声はいかにも小さく、その先の「しに、来た」という言葉は尻すぼみに消えてしまった。

 はん、と女が笑う。


「ぬくぬくと育ってきたお子様が、卑しい乞食ごときに何を聞こうってんだい」


 何を聞くのか。何と聞くのか。

 そう問われて、ぼくはまた何も考えていなかったことに気付かされた。


《何を迷うことがある? 『お前は私の母親か』聞きたいのはそれだけであろう?》


 そうだ。

 あなたはぼくの母親ですか。

 知りたいことはそれだけなんだ。

 でも面と向かって聞くのは、やはり怖かった。

 そうして躊躇いながら絞り出したのは、ある意味最も失礼な問いとなった。


「……子供、てたことある、の」


 顔を出せばたちまち怪物に食べられてしまうとでも言うように、ぼくは鉄格子の向こうを覗き込んだ。四角い闇の中に穿たれた三日月形の赤い空洞が、ぴたりと閉じられる。投げ遣りだった空気は一変し、松明の火を弾く二つの光がぼくを睨んだ。


「……嫌な餓鬼だねえ。わざわざこんな所まで乞食をいびりに来て、今から守護職にでもなる練習かい? 見上げた性根だね」


「ちが……そうじゃなくて」


 ひゅう、と抜ける風よりも冷たい敵意に、肌が粟立った。本能的に壁に縋りつく。


「再入国、て聞いたから……だから、その」


 言葉はけれど、それ以上続かなかった。

 上手い言葉が見付からなかったのもある。けれど、かしゃり、と響いた音に気を取られたのが大きかった。

 鎖の音だ。罪人を檻に繋ぎ留める鎖が、石床に擦れる音。

 かしゃり、かしゃり。


「あんた、まさか、捨て子かい?」


 さっきよりも声が近い。でもそれより、まさか、という言葉の方が可笑しかった。まるで、捨て子が珍しいみたいな言い方だ。

 ぼくのいる修練教会こそぼくだけだけど、貴族階級が棄児養育を押し付けられた子供の数はいつだって両手に余る。大きな修練教会や、雀の涙程度の養育費とともに農家に預けられた子供も数えれば、この町だけでも十は下らないだろう。


「まさか、良いところの坊ちゃんに見える?」


 一瞬恐ろしさも遠のいて、普段なら決して使わないような言葉が転がり出ていた。

 自分のみすぼらしさなら、嫌と言うほど知っている。たとえ松明の光が弱くとも、牢獄の中からぼくの汚い肌着くらいは見えるはずだ。

 それを、女も見たのだろう。


「くくっ……は、はは……あははははは!」


 気違いとしか思えない笑い声が、甲高く牢内に反響した。あはは、くはは、と不気味に何度も尾を引く。とても、愛しい我が子に再会できた喜びの声とは思えない。

 それと同時に、鈍い悪臭もした。女が身動ぎしたことで、何日も洗濯していない、体も洗ってない体臭が空気に乗って漂ってきたのだ。


「傷だらけの顔に、腕に、擦り切れた手に、汚らしい同族の匂い……あぁ、そうだね。あんた、あたしと大差ないよ。そこにいたって、檻の中さ」


 鎖をがちゃがちゃと鳴らして、女がひとしきりぼくを舐め回す。それから、ふっと問うた。


「あんた、今年で幾つにおなりだい」

「っ……」


 答えてはいけない。本能的にそう思った。

 悪魔に弱味を与えてはいけない。付け入る隙を見せてはいけない。悪魔は容易に弱い心に入り込むから。

 相手は悪魔じゃなくて、母親かもしれなくて、でもやっぱりまだ怖くて。

 だというのに、体はぼくのものじゃないみたいに勝手に動いていた。


「十一歳、に」


 途端、がしゃん! と大きな音が響いた。

 ぼくはぎゅっと身を縮こませた。どこかにいる牢番に気付かれる、という懸念じゃない。それよりももっと恐ろしい何か――たとえば、ガッと目の前の鉄格子を握り込んだ、棒切れのような二つの手とか。


「おぉ……おおぉ……」


 歓喜にも慨嘆にも似た声が闇を震わせる。それまで届かなかった松明の光が、それを如実に浮かび上がらせた。


「十一年前だ」

「……え?」

「名前をつけるいとますらなく追放され、離ればなれになった愛しい我が子。こんな所に隠れていたとは……!」

「!?」


 鉄格子にしがみついたせいで松明の光が届くようになったその顔は、この世のものとは思えないほど恐ろしい形相だった。

 落ち窪んだ眼窩がんかに、骨の形が分かるほどにこけた頬。肌は染みと痣で綺麗なところは一つもなく、髪は麻縄よりも酷くごわごわに縮れ、魔女のような鉤鼻は奇妙に左に曲がっている。

 針金のような体と、悪魔でさえもっとましな格好をしていると思えるような醜貌しゅうぼうが、ぼくを凝視してこう言った。


「あたしの、坊や」

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