第二話 愚かな生贄

 夜半、起床の鐘が鳴る。

 周囲の家々から聞こえていたざわめきは、すっかり夜の静寂しじまの底に沈んでいた。独房で目を覚まし、朝課マーティンズ賛課ラウドで立て続けに詩篇を読む頃には、気にしたことすら忘れていた。


「眠い……」


 みんなが日の出の祈りに備え仮眠する間、意味もなく押し付けられた仕事を淡々とこなす。

 薬草園の草取り、宿坊の玄関掃除、家畜小屋の掃除。今でなくてもいい、誰もやりたがらない仕事。それがぼくの仕事だった。

 眠い目をこすりながら、アイゼンたちが言うにはぼくと同じ匂いがする羊の毛を撫でる。


「ッ」


 うとうとしていると、何かがぼくの背中に当たった。ハッと周りを見渡せば、足元にさっきまで使っていた塵取りが落ちていた。せっかく拾い集めた糞も、無残に散らばっている。

 でも、まだましな起こし方だと、ぼくは自分を慰めた。


《そうか? いや、これも『愛』と言うのかもな。お前の周りの大人どもは》


 悪魔がまたしゃしゃり出てくる。でも無視した。羊の糞はころころしてるから、始末に悪いという程ではない。本当だ。

 続いて上がった栄養不足でひび割れた笑い声を聞きながら、ぼくは立ち上がって掃除を再開した。


「おいおい拾い集めてるぜ。さっすが乞食の子供だ」

「拾って何すんだー? まさか栄養の足しにとか?」


 ナーデルの揶揄に、ぎゃははっとザントが大口を開けて笑う。ぼくは無視を決め込む。

 そこに、他の三人を引き連れたアイゼンが通りかかった。何の臭いにか、刃のように鋭い双眸を不快げに細める。そのまま行き過ぎようとして、ふと、その足が止まった。


「そういや、お前ら聞いたか?」


 剃髪ていはつしていない長めの前髪の奥で、少年の瞳が嘲笑を灯して歪む。それを見て、狡猾な取り巻き達は新たな揶揄いのネタが出来たと喜ぶ。まるで餌を待つ雛烏のように。


「昨日、再入国の罪で乞食こじきが捕まったんだってよ。『赤子を喪った母親ドゥッツベッテリン』らしいぜ」


 流浪の乞食のことだ。

 奴らは色んな手管を使って定住民から日々の糧を搾り取ろうとする。特に悪質な輩は『強かな乞食シュタルカー・ベトラー』と呼ばれ、中には妊婦や母親を装って同情を誘おうとする者も多い。

 連中は本当にたちが悪いらしく、一度目なら追放だけで済まされるけれど、二度目以上の入国は悪意ありと見なされて、棘付きの鉄の鞭で散々に鞭打たれる処刑が通例だ。

 教会から出られないぼくは、見たことはないけれど。

 この小さな村でも、さらし台や斬首刑は何度か行われたと聞いたことがある。

 それを嫌っているぼくにわざわざ知らせるというのはつまり、お前もいずれそうなるという脅しでしかない。

 ぼくは、嫌われ者だから。


《そんなことはない。周りの奴らが悪いのだ》


 悪魔が憐れむように囁く。肯定しそうになって、ぼくはまた自分に言い聞かせた。


(流れ者だから、仕方ないよ)

《だから居場所どころか、二本の足を大地につけることすら許されないって?》

(……昔は、ここまで酷くなかったんだ)

《いいや。昔から連中は酷かった。誰もお前を愛してはくれなかったろう?》

(そう、かもね……)


 ぼくがそう感じるのは、単に幼少時には彼がぼくの事情を知らなかったか、完全には理解していなかったからだろう。今では彼がぼくを一番嫌っているだろうことは、嫌でも分かる。

 敵意をもってぼくを疎み、暴力を振るう。けれど他の連中のように、退屈凌ぎのいじめはしない。

 それでもこんな風に最も残虐な方法でぼくを突き落とすのは、やはりアイゼンだった。


「乞食で母親っつったら、もうコイツで決まりじゃねぇの」

「おい誰か売り飛ばしてこいよ。今度は馬鹿な子供の母親になれるぞって」

「やっと気色わりぃ糞まみれ野郎とオサラバ出来るぜ」


 取り巻きの五人が、好き勝手に笑い合う。掃除の手を休めず、それらを無言で聞き流す。でも内心では、昨夜の喧噪はそのためかと合点がいった。

 と、拳ほどもある石が無造作に顔に飛んできた。


「いたっ」


 反射的に手で庇った。当たった手の甲が鋭く痺れる。怯えてアイゼンを盗み見れば、射殺すような目と目が合った。


「再入国だしな。マジでてめぇの母親かもしれねぇぜ」


 既にポケットに両手を戻した姿で、アイゼンがそう吐き捨てる。それ以上はぼくを視界に入れるのも嫌そうに、聖拝堂へ踵を返した。

 続く五つの背も見送って、ぼくは羊と鶏にまみれて一緒に物思いに沈む。


《しかし、連中の言うこともあながち間違いとは断言できないな?》


 そんなことあるわけない、とは言い返せなかった。

 同類などではないと思っても、一切気にせずにいることはやはり難しかった。放浪者の噂を聞けば、いつも心が浮足立つような、ささくれ立つような気持ちになる。


「……どんなひとなんだろう」


 この修練教会は男ばかりで、見たことのある女といえば、周りの農家のおばさんかお婆さん、小さな子供くらいだ。

 やはり話に聞く通り、汚い襤褸ぼろをまとい、鼻が曲がるような悪臭を放ち、行き交う人みんなに醜く泣きながら手を差し出しては、一切れのパンと一口の飲み物をねだるのだろうか。その心は姿以上に真っ黒で、はらの内側では親切な人々を馬鹿にしているのだろうか。


《きっとお前を泣く泣く捨てたのじゃないか? 会いたがってるかもしれないぞ》

「……うん」


 ぼくを捨てたのは放浪者で、多分乞食だ。乞食が追い出されたという噂を聞くたびに、ぼくの母親じゃないか、母親に繋がるひとじゃないかと思った。


『それは悪魔の囁きです。惑わされてはなりません』


 もっと小さい頃、一度だけ修練士様に尋ねたことがあった。すると、怖い顔でそう諭された。

 神様の教えを厳粛に守らないから、そんな罪深いことを考えるのだと。不信心を正す為と言って、果樹園の木に縛り付けられて鞭も打たれた。

 その隣で、当の悪魔は嬉しそうに笑っていた。


 修練教会で養われている棄児は全て神様の子供だ。親や生まれは関係ない。いつ何時なんどきも神様のことだけを考え、無心で神様に仕えること。地上に降り立った双聖神ふたりを最初に迎え入れた三賢者みたりを理想とし、禁欲的に生きなければならないと諭される。

 だから、噂話なんかを教会内に持ち込むのも、本当は良くない。誰にも聞かれないように、みんなこっそり囁くだけだ。

 でもぼくがこんな風に知らされて悩んでいると、修練士様にはすぐに見抜かれてしまう。アイゼンのようには、上手く隠せないから。




       ◆




 だというのに、その夜、ぼくは何故か修練教会の外にいた。


《愉しみだなぁ?》


 珍しく悪魔がはしゃいでいる。お望みの展開らしい。

 夕方の終課コンプラインを終えれば、院長様からの祝福と聖水も受けて、あとは宿坊で寝るだけのはずだったのに。

 けれど今、ぼくはリネンの肌着だけを着て夜風に吹かれている。

 秋も終わりの今、薄い半袖一枚ではとても快適とは言い難い。

 それでも、引き返すことは出来なかった。

 正門は勿論閉まっている。今し方追い出された穴――果樹園の奥に隠された、教会を囲む赤レンガの壁にあいた穴は、フェルスとザントとクヴァルムが三人がかりで塞いでいる。


「ほら行けよ。感動のご対面だろ」

「お前を捨てたママがお待ちかねだぜ」

「ずぅーっと恋しくて、夢の中でおっぱい吸ってたんだろー?」


 指は早くもかじかんできたし、引っ張られた頭皮も蹴られた背中も痛い。それに、昼に修練士様から受けた鞭の痛みもまだある。岩のように体格の良いフェルスを押し退けて、修練士様たちに気付かれずに部屋まで戻れる自信なんて、あるわけがなかった。


「どうして、ここまで……」


 いつも必死で堪えている疑問が、夜と惨めさのせいで喉元までせり上がりそうになった。慌てて呑み込む。

 けれど悪魔には、しっかり聞かれていた。


《そんなの決まっているだろう? 退屈だからさ》


 それはお前だろうと思ったけれど、あながち的外れでもないのかもしれない。

 教会は裕福ではなく、労働や手仕事は膨大にある。暇はく、比例して娯楽も少ない。だから結局、退屈が生まれる。

 彼らは、退屈が人を殺す世界で、退屈に殺されない為にぼくを殺すのだ。その凍えるような眼差し一つで。


《お前は、愚かな生贄にされているに過ぎないのさ》


 否定は、出来そうもなかった。まだ脳裏に、アイゼンのあの冷たい視線がこびりついている気がする。それを頭を振って追い払うと、両手に呼気を吐きかけながら、よく知りもしない道を歩き出した。

 曇天のせいで、足元を照らす月光もない夜道を行く。嘲笑も讒謗ざんぼうも既に遠く、麦畑が鳴らす風の音だけがぼくを囲む。

 道が続く丘の下に、暖かな民家の明かりが並んで見えた。


「……あったかそうだなぁ」


 宿坊や食堂から零れる明かりと同じはずなのに、ぼくにはそれが天上の星よりも遠い、決して手の届かない幻に見えた。

 道標にするには、あまりに儚く、頼りない。


《不公平だなよぁ。お前は毎日こんなに頑張っているのに、あの光の中には決して入れてもらえないのだから》


 悪魔が囁く。まるでぼくの本音を代弁するように。

 そしてぼくは、やはり否定できない。ただ、よたよたと歩くしかない。歩く度に肩や脇腹に刻まれた鞭による裂傷が響いて、その上に眠気が重なって、どこか非現実的な気分でさえあった。


「……変なの」


 修練教会の中で、修練士になれるわけもないのに延々と独房の中で神識典を読んできたぼくが、誰の許しも得ずに外に出て、ふらふらと歩き回っている。

 それがたとえ悪意ゆえだとしても、不思議な気分だった。目的すら忘れそうになる。


「こんなに、簡単なことだったのかな」

《そうだ。本当ならお前はどこまでも行けるのに、周りが全部邪魔しているんだ》

「……このまま、逃げてしまおうかな」

《それがいい。そうすればお前はすぐに自由の身だ。変われるぞ》


 悪魔は甘言を弄したつもりだろうけど、ぼくはその言葉で我に返った。

 脳裏に幻の鞭が閃いた。反射的に身を竦める。それは悪魔の囁きだ、祈りが足りないのだ。そう、修練士様の声がぼくを責める。

 そしてアイゼン。

 ぼくは懸命に逃げるのに、すぐに追いつかれて、最後には首を絞められる。


「っ」


 想像だけで体が強張った。

 こんなぼくが、変われるはずがない。


「……分かってる。どうせ、うまく行きっこない」

《何を言う。私が手伝ってやろう。復讐したいだろう?》

「したい、なんて……」


 思ったことは一度だってない。だって、ぼくは一等愚図で不器用なのだから。


《詰まらぬ餓鬼だ。あやつくらい覇気を持てぬか》


 黙ったままでいれば、悪魔はすぐに興を削がれたように沈黙した。

 とにかく今は歩いて、彼らが満足する時間に戻れば良い。

 彼らだって、きっともう部屋で布団にくるまってるはずだ。修練士様に見つかって説教や鞭を食らうのは避けたいし、何よりこの寒空で、ぼくを小馬鹿にするためだけに待ち続けるなんてこと、するはずがないのだから。




 そう考えていたはずなのに、気付けば一つの建物に辿り着いていた。

 村の端に建つ、罪人が閉じ込められている石造りの塔だ。見張りも兼ねているから、遠くからでもすぐに分かった。森というより林という程度の木々を背後に背負って、濃い闇の中に立っている。


「ど、どうしよう……」


 慣れた夜目に建物を見付けた時、何も考えずに歩いてきてしまった。けれど本当に見付けたとしても、その先をどうするかなど考えてもいなかった。

 塔の入り口と上のやぐらに掲げられた篝火が目に迫るにつれ、足が竦んだ。今まで意識したこともない心臓が、胸の薄皮の下でどくどくと暴れ出す。


「……あ、会えるわけ、ないよ」

《そうとは限らんぞ? 運命ならば、会うのが必然よ》


 ぼくの震えを感知したように、また悪魔が嘴を出してきた。

 寒さに凍えていたはずの体が、急激に熱くなる。そのくせ手はかじかむように痛いままで、震えが止まらなかった。

 ぎゅっ、とすっかり冷たくなった肌着の端を握り込む。


「……ひ、引き返そう」

《待て待て。ここまで来て引き返すだと? それでは詰まらん》

「でも、だって、会ってどうするの?」

《では逆に、会わずに戻って、それでどうとする》

「それは……」


 アイゼンたちからは、まず間違いなく嘲罵される。会わなければ臆病者と、会えば違反者だと修練士様に報告するはずだ。

 分かってて出てきたのだから、それは諦めてる。


《他人ではない。お前がだ》

「……ぼく?」


 ぼくは……ぼくが分からない。

 周りのことなら、分かる。アイゼンの次の言葉も、修練士様が選ぶ罰も、よく見ていなければ面倒なことになるから。

 でも自分のこととなると、不思議に分からなかった。

 ここで引き返したら、ぼく自身はどうなるのだろう。

 進んだなら、どうなるのだろう。

 それに。


《本当は分かっているんだろう? 期待しているんだろう?》


 悪魔の声が、ちらちらと羽虫みたいにぼくを惑わす。或いは悪魔なんかいなくて、その声は全てぼくの本心が作り出す幻聴なのかもしれない。

 頭では、馬鹿みたいな考えだって分かってる。でも希望と夢想の違いが、馬鹿なぼくには分からない。


「だって、そんなこと……」

《あの塔の中にいるのが、もし本当にお前を産んだ女だったならどうする?》

「どうって……」


 あの小さく冷たい石の世界で、母が待っているとでもいうのだろうか。断腸の思いで手放さなければならなかった我が子が助けに来るその時を、明日にも潰えてしまう命を抱えて。


《その救い手がもしお前だったら、一体どうする?》

「違う……」


 ぼくは耳を塞いだ。それでも、悪魔の声は鼓膜の内側に朗々と響く。


《母が最期の最後まで胸の底に残したその希望を、無残にも打ち砕くのは……誰だろうな?》


 ぼくのはずがない、とは、言えなかった。

 だってそれは、それはとても怖い考えだった。

 希望を持たず、無心に努め、誰の心にも触れないようにして自分を守ってきたのに。

 今ここで怯えて何もしないことで傷付けるものがあるという事実は、ぼくの心臓に言い知れぬ恐怖を植え付けた。

 怖い。

 真実を知るのも、誰かを見殺しにするのも、何かをするのもしないのも、怖い。


「……きっと、だめだよ」

《そんなことはない。お前ならきっとできるさ》

「でも、見張り櫓を兼ねた塔だもの。上にも下にも門番がいるよ。きっと入れない」

《本物の母なら、神とやらが幸運を授けてくれるんじゃないか?》

「……そ、そうだよね。本物なら」


 逆に本物でなければ、きっと近付けもしない。見付かれば、きっとひどくぶたれて追い返される。顔に青あざを作って帰れば、満足するよ。


 …………誰が?


 その答えはけれど、予期しない事態に押しやられた。


「見張り、いない?」


 限界まで近づいて見えてきた塔の入り口に、人影はいなかった。


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