蟻の想い

第一話 悪魔と蟻

 それは、決して望まれた再会ではなかった。

 けれど不幸な出会いでも、決してなかった。




       ◆




 独房は嫌いじゃない。

 あるのは硬い床と薄い毛布、そして神識典ヴィヴロスくらい。温かい布団も暖炉も娯楽もない。でも代わりに、食事を横取りされることもないし、空腹に目眩を起こして倒れた時、髪をつかんで引き起こす者もない。

 それに、すし詰めの宿坊には届かない陽光が入る。


《それは、陽が射す間だけ神識典を読ませるためだろう》


 悪状況の中でも良い点を探すことは、ぼくが常から心がけていることだ。

 けれどそんな時、いつもどこからともなくかかる声がある。


「別に、苦じゃない」


 誰にも正面から意見を言えないぼくが、唯一強く出られる相手。

 でも、ぼくはそいつの名前どころか、顔も知らない。ただ、声だけが聞こえる。

 だからぼくはそいつのことを、仮に悪魔と呼んでいた。


『信心が足りません。そのような考えでは、いずれ悪魔の仲間となり、全ての正義の敵となりますよ』


 修練士様がいつも言うことだ。そうならないために努力するぼくを引き留めようとする声は、だからきっと悪魔なのだ。 


「『鞭を控える者はその子を憎む者である。子を愛する者は、つとめてこれをらしめる』……」


 西日の中、神識典の中の一説をもう一度読み上げる。何度読んでも、この章の箴言しんげんは意味不明だった。

 この修道院にいる大人はみな一様に愛を語るし、愛の名のもと鞭を振るう。けれどそうなると、鞭の代わりに手や足を振るう連中も、ぼくを愛しているということになってしまう。悪口雑言を吐きながら。


《偽善だな。愛しているなら、抱きしめてやるだけで済む》


 声が嗤う。悪魔らしく、やはり神識典は嫌いのようだ。でも、別に詠唱して消えることもなければ、逃げ出すこともない。

 ぼくに信心が足りないだけかもしれないけれど。


「愛って、何だろう……」


 知らず声に出る。独り言が多くなるのは、多分悪魔のせいだ。


《愛とは甘美なるものだ》


 恍惚とした悪魔の言葉はいつも通り無視した。

 修練士様は忍耐だと言い、神識典の中の双聖神そうせいしんは貧しき者に施しを与えることだと仰った。でも馬鹿なぼくはそれだけじゃ理解できないから、「どうしてですか?」と聞いてしまう。そうするとまた鞭を食らう。

 ぼくみたいな不信心者には、どんなに祈っても神様は応えてくれないと言われて、また独房に入る。独りで風の音と、壁の向こうを行きかうみんなの足音と、日が沈む音を聞きながら、神識典の中に答えを探す。

 でも、答えはなかなか見つからない。だからまた繰り返してしまう。

 ぼくは、馬鹿だから。




「んだよ、もう出てきたのかよ」

「!」


 一日の読書や手仕事の終わりを知らせる鐘が厳かに鳴り響く頃、そっと独房を出た。何種類もの薬草や香草が生い茂る裏庭から、宿坊の横を通り食堂へ向かう。

 その途中で、ぼくは掴まった。


「……晩課ヴィスパーの鐘が、鳴ったから」


 先頭に立ち、十四歳にしては大柄な体で道を塞ぐ少年に、ぼくは明確な事実だけを小さく口にする。

 独房に入れられても、晩課の鐘が鳴れば聖拝堂に戻り、ともに夕べの祈りを捧げる。それはこの修練教会の幾つもあるうちの規則の一つだ。

 けれど献身者オブレイトの子供の中で最年長の少年が求める答えは、それではなかったようだ。


「ッ」


 ゴッ、と頬を殴られた。

 十一歳の体は軽く吹き飛んで、青臭い芝生の上に転がされる。目の奥がちかちかした。痛い。

 朝にパン一切れだったせい、だけじゃない。そもそも起き上がる気力がなかった。


《こいつらも懲りないなぁ》

(……うるさい)

《助けてやろうか? その代わり……》

(うるさい)


 事あるごとにぼくを唆そうとする悪魔の声を退けて、ちくちくする芝生の上で蹲る。と、今度は腹を蹴られた。げはっ、と唾と胃液が混じったものが土に染みる。


「マジ苛々するぜ。てめぇのその何もない答えがよ」


 遥か高みから声が降る。その声に許可を得たように、今度は何本もの足がぼくの体を洗濯物でも叩くように踏みつけた。


「気持ちわりぃの」

「やっちまえ」

「ほら頭も洗ってやるよ」

「もう二度と独房から出てくんな」

「流浪の乞食こじきはさっさと出ていけ」

「…………ッ」


 痛い、痛い、痛い。

 でも耐えるしかない。逃げたって、抗ったって、良い結果にはならない。

 この時間は、体を丸めて堪えるしかない。修練士様だって、そう言うんだから。

 土を蹴る音、骨に当たる硬質な音、ぼくの心臓の音。髪の毛がぶちぶちと何本も抜ける音もする。

 でも一番怖い音は、人の足の檻の向こうで顔を歪ませている最年長の少年の、息を吸う音。


《ほら、反撃しないと、そろそろ体が壊れてしまうぞ?》

(出来るなら、最初から苦労してない……)

《だから助けてやると言っている。大して時間はかからんぞ?》

(嫌だ……。悪魔なんかに……)

《まぁ、お前がそうして耐えながら、はらの底に憎悪と苦悶を飼うのもまた、いものだがな》


 もう、心の中で煩いと言うのも辛かった。

 あぁ、鳥が鳴いている。薄暗い空を渡る。

 陽が沈み、底なしの穴に落ちるような道行きを、鳥はどうして迷いもなく進めるのだろう。

 ぼくなら、怖くて進めない。聖拝堂から響く祈りの声に縋って、きっと引き返してしまう。


《始まったな。耳障りな祈りの声が》


 祈りの声が終わるまでに聖拝堂に入らなければ、また怒られてしまう。三日続けて独房に入るのは、さすがに空腹で倒れてしまう。


「フェルス。ザント。クヴァルム。オルカーン。ナーデル。もうやめろ」


 冷たい声とともに、足の向こうの背中が翻った。つま先が、晩課が始まった聖拝堂へ向かう。


「お前たちの足が汚れる。穢れが移るぞ」

「待ってくれよ、アイゼン」


 最も小柄なナーデルが、声を上げて彼を追う。最も無愛想なオルカーンは、最後にボロボロになったぼくに一瞥を向けて、しんがりを行く。

 彼らは何食わぬ顔で聖歌隊席の最後列に並び、美しい詩篇を読みながら、彼らの神を崇めるだろう。

 最も強いアイゼン。修練教会に捧げられた少年たち――献身者を束ね、信望を得る神の具現。

 そしてぼくは、見たこともない神のために独り祈るだろう。ぼくを助けてくれない神のために。


《孤独よなぁ。神のためになど祈ってはならんぞ。ろくなことにならん》


 悪魔が囁く。ぼくを慰めるように、優しく。


「晩課、行かなきゃ……」


 晩課に出なければ、夕食は得られない。そうなればまた独房に逆戻りだ。

 夜に蝋燭を使って神識典を読むことを許されているのは修練士様たちだけだから、ぼくは月明かりの中で暗記している詩篇だけを繰り返し読むしかない。

 でも、それも多分、嫌いじゃない。

 独房の夜は、夜そのものの匂いがする。




       ◆




 その時代、人の命の間には冷然と階級が横たわっていた。

 最底辺の人間は、蟻よりも価値がなかった。

 その最底辺にさえ居場所を失った者は、流浪の民に紛れ、身を寄せ、犯罪紛いに手を染めながら爪に火を点すように日々を生きた。だがそのせいで、放浪者そのものが犯罪者予備軍とみなされ、定住者たちに嫌われるようになった。

 そんな中で子供が生まれても、まともに育てようと考える者と育てる資金がある者がそもそも少ないのだから、結果は火を見るよりも明らかだった。

 放浪者が田畑を食い荒らし通り過ぎた後には、一人か、酷いときには二人、乳飲み子が捨てられているとさえ言われた。

 そして捨てられた赤子の末路も、よほどの強運の持ち主でない限り憐れなものだった。心根の正しい人間に拾われないのは普通の話で、そのまま打ち捨てられることすら、珍しくない。

 ただそう生まれついたから。

 そう生きるしかなかった。

 理由など、さしてない。


「ぼくも、そうだったら良かったのかな」


 けれどぼくは、珍しい方だった。

 捨てられていた場所が、今の修練教会の前だったのだ。

 一般的に、棄児養育の責任を負うのは、高級裁判権を持つ町の貴族階級オプリヒカイトだ。実質は、その代理人たる守護職フォークトが養育を請け負う。

 だがそれが修練教会前となると、どちらが育てるかでしばしば争いが起こった。

 そうした争いに負けた修練教会は、嫌々ながら養育しなければならなくなる。稀なことではあるけれど、全くないことではない。でも残念なことに、この修練教会においてはそんな存在はぼくだけだった。


 教会にいる他の六人の子供は、みんな地方の有力地主からの神へのささげ者だ。

 兄弟の中でも後を継ぐものがなく、見習いになる当てもない子供を差し出し、神への献身者として一族の罪科つみとがあがなう役を与える。それと同時にある程度の土地あるいは財産を寄進し、生活や教育の全てを任せる。

 彼らは、大人になる前に修練士になるかどうかを選べる。けれど、全ての私財と相続権の放棄を義務付けられている彼らに、実質帰る場所などなかった。

 だから、何も捧げていないぼくは彼らに疎まれる。

 彼らとぼくは決定的に違うのに、与えられるものも得られるものも、さして変わりがないから。


 裏庭で千切った血止めの薬草を塗りつけながら、ぼくは独房の壁にもたれかかった。

 晩課を終え、食堂に向かう途中でぼくを見つけた修練士様の視線よりは、まだ冷たくない。


『……怠け者よ、いつまで横になっているのか。いつ、眠りから起き上がるのか。蟻のところに行け。その道を見て、知恵を得よ』


 独房に入れられる前、修練士様はそう言った。それもまた、神識典の言葉の一つだ。

 大人から見ると、どうやらぼくは蟻未満の怠け者らしい。


「月が傾く。……早く寝なきゃ」


 拾われた時からの習慣で、そう考えるだけで睡魔がぼくをいざなった。

 悪魔は黙っている。もしかしたら、暇な時は別の誰かを誑かしに行っているのかもしれない。


「今夜は、なんだか少し騒がしいな……」


 遠く、教会の周りに広がる村の家々から、普段とは違うざわめきが蠢いているような気がする。それもまた、宿坊にいては気付けないことだ。

 けれどそれがどんな理由か、ぼくは考えなかった。外の喧噪など、ぼくには別世界のように遠いことだから。

 ましてや、それがぼくの人生を一変させてしまうことになるなんて、夢にも思わなかった。


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