第五話 言葉は心の糧

 ガチャン、という悲鳴のような鈍い音が、暗い廊下に細く響き渡った。


《ついに時間切れのようだな》


 悪魔が耳元で囁く。ぼくもまた、つられるように細長い暗闇の奥を凝視した。

 長居しすぎたというよりも、こんなにも長く話せたことが奇跡のようなものだ。

 散々怒鳴って騒いだせいだろうか。見回りに出ていた牢番が聞きつけたのかもしれない。石床を蹴る靴音が、酷く乱暴に反響している。


 どうしよう。見付かったら罰される。孤児と知られれば容赦なく乱暴されるだろう。

 でも、足はすぐには動かなかった。


《置いていくのか? ついに再会できた母親を》

(置いて……行きたくない、けど)

《では助けるか? 私が手を貸すぞ?》


 悪魔が優しく囁く。ぼくが辛い境遇に陥ると必ずそうするように、ぼくを悪魔の敷く道へと進ませようとする。

 でも実際、石塔には出入口は一つしかないはずだ。見付からずに一緒に逃げる名案など咄嗟に浮かぶはずもなく、ぼくができたのはおろおろすることだけだった。


「さぁ」


 と、母が言った。牢番の高らかな足音に簡単に掻き消されてしまう程の声量ながら、どこか興醒めた声だった。


「役立たずの臆病者は用無しだよ。弱虫らしく、横の暗がりで息を殺して縮こまってな」

「…………」


 乱雑で侮辱的な言葉だった。けれどぼくは「でも」の一声も口にできなかった。おたおたと木靴を脱いで手に持ちながら、松明の灯りが届かない左右の闇を見比べた。

 松明は、母の牢の前に一本あるだけだ。奥に行けば、もう逃げられない。怖かったけれど、入り口側の闇に蹲った。

 いつもアイゼンたちがぼくを愚図と馬鹿にするけど、その通りだ。これがアイゼンだったなら、きっと躊躇いなく母を救っただろうに。

 ぼくは発育不良の小さな背を更に縮こませて、息を殺した。寒さ以上に、恐怖で歯の根が噛み合わなくて、残る手で必死に顎を押さえた。

 その時――カッと目と鼻の先で靴が床を蹴った。心臓がびくっと跳ねて、そのまま止まる。そう錯覚するほど、目の前を過ぎる牢番の一歩は長かった。


「いま誰かと話してたか?」


 ひび割れた胴間声が石壁に反響する。牢番が三番目の檻に辿り着いたのだ。

 逃げるなら今のうちだ。息を殺し、足音を殺して歩くんだ。

 そう思うのに、腰が抜けたように動けなかった。

 母が答える。


「話してたよ」

「こいつ! やはり仲間を手引きしていたか!?」

「嫌な若造だねぇ。こんな薄幸の美人をそこらの蟻の仲間扱いする気かい」

「蟻……!?」


 短槍を構えた牢番を、母が引っかかったとばかりにせせら笑う。

 実際、この牢は螺旋状になった石塔の中心部にあるようで、天井近くに換気用の小窓があるだけだ。脱獄のために仲間を呼ぶことは、構造上不可能だ。そもそも母が放浪者の中で特別な地位を持つのでない限り、そんな心配は杞憂といえた。


「お前のどこが美人だ! お前こそが醜女しこめというんだ。蟻と話すなぞ、とうとう気が触れたか」

「そりゃあ再入国で鞭打ちなんて言われた日にゃね、世を儚んで一番近くにいる命と最後の交流を深めたいと思って何がいけないんだい?」

「……ちっ、この強かな乞食シュタルカー・べトラーが」

「牢の前につっ立ってるだけの若造よりも、指揮官もなく、役人も支配者もいない蟻の方が、話す価値があるってもんだよ」

「ッ」


 からからと母が濁声で笑う。すっかり苛立った牢番が、言葉もなく眼前の鉄格子をがんがんっと蹴りつけた。

 おお痛い痛いとお道化る中、その目が一瞬だけぎらりと出入り口に向く。そこでやっと、母が仕向けた意図を知った。

 鉄格子が震える残響が消えきらぬうちに、ぼくは蟻よりも無様に真っ暗な通路を這い出した。




       ◆




 夜風が気持ちいい。

 そう感じるほどに汗を掻いていたことに、修練教会に帰り着いてから気が付いた。

 月を見上げれば、夜の謹行ヴィギルに起き出すにはまだ時間がありそうだ。けれど間に合ったことよりも、逃げ出したことへの疲労感がぼくの足を重くさせた。


《あぁあ、見捨ててしまったな?》


 悪魔が、嘆かわしいとばかりに唸る。罪悪感が、ついにぼくの足を止めさせた。

 睨んでやりたかったけれど、悪魔の姿はやはり見えない。

 ぼくは詰めていた息を吐き出すと、重い足を引きずって宿坊を目指した。

 案の通り、ぼくを追い出した連中はどこにもいなかった。誰かに気付かれたらという懸念はあったけれど、わざわざ起き出してまでぼくを𠮟る勤勉な者などいない。

 けれど、ぼくへの嫌がらせに手抜かりはなかった。


「昨夜、黙って教会を抜け出したそうですね?」


 翌朝、日の出の祈りが終わってすぐ、修練士様に掴まった。きっとフェルスたちが告げ口したのだろう。けれどぼくはずっと上の空で、《きっとアイゼンあいつらだ》《今度こそ仕返しが必要だ》と煩い悪魔にも生返事をしていた。

 食堂の説教壇のすぐ脇の柱に縛り付けられ、回数も分からなくなるくらい鞭を受けた。その間、ぼくはずっと修練士様の顔を注視していた。けれど鞭を振り上げても止めていても、その顔に表情も変化もなかった。


『子を愛する者は、つとめてこれを懲らしめる』


 またあの箴言しんげんを思い出す。そして今は、牢の中の母の言葉を。


『愚かな者よ、気付くがよい。無知な者よ、いつになったら目覚めるのか』


 鞭に打たれながらもなお神の言葉を浴びているのに、ぼくはいまだに無知で愚者だった。独房に入れられて神識典ヴィヴロスを読んでも、彼女の言葉以上に胸を打つものはどこにもなかった。

 愛とは何か。

 その答えをずっと探していたはずなのに、今は少しも役に立たない。


 独房に移ってからも、気もそぞろにただ小さな窓の外を眺めた。石塔の声が聞こえてこないか、母の噂を誰かがしていないかと。

 けれどそんなものが都合よく聞こえてくるはずもなかった。


「……処刑って、いつなのかな」


 大事なことなのに、確認することも思い至らなかった。けれど修練士様も、ましてやアイゼンたちだって、答えてくれるはずもない。


《さぁなぁ。明日かな? いや、明後日かな?》

「知ってるの?」

《知ろうと思えば知ることは容易だ。それがお前の望みか?》


 悪魔が揶揄するように喜色を浮かべる。超常の存在ならば知ることなど造作もないとも思ったが、それもまたぼくを堕とそうとする誘いのうちらしい。


「……母さんを助けてって言ったら、助けてくれるの?」

《勿論、お前が望むのならきっと叶えてやろう》

「そして、ぼくの魂を望むの……?」

《あぁ。面白い条件とともにな》


 悪魔は、死後の魂を得るのと引き換えに、契約者の望みを叶えるという。でもぼくは、死ぬのは怖いし、死後に永遠に苦しむのも怖い。今生きているこの世が辛いからこそ、余計に救いが欲しい。せめて、死んだ後くらいには。

 それもまた、贅沢な望みなのだろうか。

 それとも、ぼくがただ臆病者なだけだろうか。


「どうしよう……」


 母は、牢獄ここから逃がしてくれと言った。でもどうしたら良いのか、ぼくには一向に良い考えが浮かばなかった。牢番の目を盗んで檻の鍵を盗む。そう考えるだけで、身が竦む。そんな大それたこと、ぼくなんかにやりおおせるだろうか。


《口先だけ悩むのは心地良いよなぁ?》

「ちが……っ」

《だが実際、お前は言うだけで何もしていない。抜け出したことを誤魔化すことも、餓鬼どもに無理やりやらされたのだと釈明することもしない》

「だって、それは……」

《独房に入れられては、一切れのパンを届けることも出来ぬというに》

「…………!」


 その指摘に、ぼくは鞭で打たれるよりも激しく目を覚まされた気分だった。

 そうだ。届けるって、約束したんだ。

 町を囲む稜線が、落陽を呑み込んで橙色に染まる。独房こんなところで呆けてる場合じゃない。早く出て、夕食のパンだけでも届けなくちゃ。

 ぼくは慌てて、放り出していた神識典の音読に取り掛かった。頭に入らないと思っていた箴言の数々はけれど、こんな時なのに不思議に染み入るようだった。


『神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練にあわせるようなことはなさいません』

『いつまでも残るものは信仰と希望と愛です』

『体を殺しても、魂を殺せない人たちなどを恐れてはなりません』

『愛がないなら、やかましい銅鑼やうるさいシンバルと同じです』

『喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい』

『信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです』

『あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します』


 今まで、ぼくは何を見てきたのだろう。

 そうだ。ぼくには弁明するための口と頭があったはずだ。けれどぼくは傷付くのを恐れてそれを使わなかった。使わないから、ぼくはいつまで経ってもこの試練に耐えられないと怯えるのだ。

 ぼくの中に信仰も希望も愛もないのは、ぼくがただの銅鑼でしかなかったからだ。信じず願わず、ただ風に吹かれて動揺するだけの大海の一滴でしかないからだ。

 傷つけられても、たとえ殺されても、ぼくの魂は誰にも殺せないのに。

 ぼくがぼくである限り。


「こんなことにも、気付かなかったなんて……」


 知や学が増えたわけではないのに、読み込むたびにぼくを作る何かが補強されていくようだった。何度も読み返した言葉を理解するまで読み込む行為が、飢えていた心をじわじわと満たしていく気がする。

 こんな心地よい疲労感は、初めてだった。


 気付けば、辺りは湿りを含んだ晩秋の気配に満たされていた。独房に満ちる水分を優しく震わせるように、晩課の鐘が鳴る。

 何の抵抗もなく扉を押し開いた。食堂に続く裏庭を行く。

 夕闇の中にたむろす一群を見つけた。けれど今日は、歩調を緩めなかった。

 そして、飛び出してきた足に引っかかってすんなり転んだ。


「っ」

「なに出てきてんだよ」


 足を伸ばしたフェルスの横で、アイゼンが地べたに転がるぼくを見下ろす。それは今まで見たどんな顔よりも憎悪に満ちていた。理由は分からなかったけど、何故だか理解できた。

 晩課の鐘が鳴ったから。

 いつかはそう答えた。あの時は、それ以外の答えがあるなんて思いもしなかった。だからアイゼンは苛立った。


「おら何か言えよ」

「怖くて口も開けれねぇってか」

「言うことねぇなら独房から出てくんな」

「ちびって泣くのだけは勘弁~」


 ぎゃははっと笑って、石と悪意が投げつけられる。痛かった。でも、それだけだった。

 周りの五人がにやにやと笑う中、ぼくとアイゼンだけが殺伐と向かい合っていた。


「やらなきゃいけないことがあるから」

「!」


 ただ真っ直ぐに見上げて、そう言った。不思議と声は震えなかった。

 言うだけ言って顔を下ろし、ゆっくりと立ち上がって服についたを払う。

 視線が外れる寸前、アイゼンが瞠目したような気がした。それを考えて、なんだか初めて実感した。

 彼はぼくを見ていたんだと。だから嫌いなんだ、と。


 一歩を踏み出したところで、弾けるような笑いが裏庭を震わせた。五人が五人、それぞれに笑っている。馬鹿にするような、憐れな者を蔑む色が一様に浮かんでいた。


「はぁ? 何言ってんの?」

「バッカじゃねぇの」

「オイノリにそんな真剣になっちゃって」

「お腹が空いたよう、てか?」


 それでも、ぼくは意に介さず歩き出した。その肩を、大きな手にぐい、と掴まれた。反動で振り返る。薄暮の中に、四つの赤い口が浮かび上がっていた。


「おいおい、なに勝手に逃げてんだよ」

「逃げていいなんて誰も許可してねぇだろ」

「もうおしっこ限界ってかあ?」


 フェルスの腕の向こうで、クヴァルムとナーデルが笑う。でもぼくは最奥のアイゼンだけを見ていた。瞠目は、跡形もない。


「――くだらねぇ」


 空虚な音吐が、合図になった。

 肩に置かれた手がそのままぼくの体を引き倒し、無防備な腹に何本もの足が落ちてくる。空っぽの胃袋が胃液を搾り出して、口中に酸と鉄の味が充満する。群がる足がぼくの視界を潰し、胸や背中、尻、足を面白おかしげに蹴りまわす。

 聞こえるのは聖拝堂の回廊で聞くのと変わらない笑声に、内臓がねじれる音、土を踏む音に、飛び交う冗談。


「おいおい、それやっちゃう?」

「事故だよ事故。だってここの花壇の石、いつもぐらぐらしてんじゃん?」

「よたよた歩いてるこいつが悪いんだよ。なー」


 くすくす、と抑えた期待の声に、おらよ、という掛け声がかかる。

 飛び散った土に目をやられ視界の利かないぼくには、何が起こるのか推測するしかなかった。でも推測しても、両手は踏みつけられてるし、どうにもならない。


「やりすぎだ、馬鹿」


 アイゼンの呟き声が聞こえた気がしたけど、次の瞬間、左足にごん、と激痛が走って何も考えられなくなった。


「っうあああ――!」

「うるせぇよ」


 叫んだ口に、泥まみれの靴が突っ込まれた。ナイスフォロー、と誰かが言った。もう、意識が保てない。

 パンを持って行くって、約束したのに。


《こうまでされて、まだ反撃しないつもりか?》


 しないんじゃなくて、出来ないんだ。


《出来ないんじゃなくて、益々手酷く虐められるのが怖くてしないだけだろ? だが何もしなくても結局手酷く虐められているのだから、同じなのじゃないか?》


 煩い。だって今ここで反撃したら、また独房に逆戻りだ。そうすれば今度こそ、母にパンを持っていくことは出来なくなる。

 踏まれることも空腹も惨めだけど、何よりそのことが、ぼくの心を打ちのめした。

 もしかしたら、喜んでもらえたかもしれないのに。褒めてもらえたかも、しれないのに。




 腫れて重くなった瞼をどうにか開けても、世界は黒だった。剝きだしの石床が大地の放つ冷気を吸い込んで、ぞっとするほど冷たい。何時間そうしていたのか、下になっていた右腕が痺れて凍っている。

 そこまで思考して、やっと自分の居場所に見当が付いた。


「どく、ぼう?」


 そう言ったつもりだけど、口の中に溜まっていた血と唾でけほっ、とむせた。

 どうやら気絶したあと、再び独房に放り込まれたらしい。でも両隣の独房からは人の気配がしないから、アイゼンたちは上手く言い逃れて罰を免れたのだろう。


「パン、もらえなかったな……」


 食べ物も持たず会いに行ったら、鬱陶しがられるだけだろうか。

 でも……会いたいな、と思った。無性に、会いたい。

 母の喜ぶものなど一つもない。けれど、ぼくは行こうと決めた。冷えた床に腕を突っ張って、上体を起こす。足を引いて座位をとろうとした瞬間、


「ッ!?」


 激痛が、両足を駆け抜けた。脳天を貫く痛みにもんどりうって足を両手で抱え込む。するとまた痺れるような痛みが走って、それ以上何も出来ずに藻掻いた。それからなるべく振動を抑えて壁際まで行き、足を晒す。

 独房の小窓から、やっと薄い月明かりが射す。雲が退いたようだ。けれど、あまり嬉しくはなかった。

 左足が、真っ赤だった。


「『花壇の石』……」


 クヴァルムの言葉を思い出す。どうやら、それでぼくの足を殴ったらしい。修練士様には、ぼくがふざけて花壇を荒らしていたとでも言ったのかもしれない。


「折れて……は、ないのかな」


 ズボンを上げてみたが、足は曲がってはいないようだった。でもふくらはぎから溢れた血と内出血とで、傷口がどこかすぐには見つけられなかった。それでも貧血だけで吐き気がないあたり、横になって床で冷やされたのが少しは効いたようだ。


 そして右足。

 記憶にないけど、擦過傷がひどかった。石と砂利の上を無造作に引きずったような、猫が引っかいたような縦長の赤い線が無数にあった。


「これじゃ、歩けないな……」


 慣れたこととはいえ、考えると気が滅入るので、それ以上の思考は放棄した。

 ただ、会えないと思うと、いつもは平気な傷がいつまでもじくじくと痛んで、どうにも堪らなかった。

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