第八話 本当の祈り

「…………さい……」


 虫の囁くような掠れた声がした。

 一瞬、世界が止まる。誰もが視線を奪われ、耳を澄ました。

 そこに再び、同じ涙声が上がった。


「ごめんなさい……ごめんなさい……」


 繰り返し、一つの言葉を吐き出す。まるでそれしか、言葉を知らないかのように。


(そんな……)


 それは、シュヴァルムにとって晴天の霹靂へきれきだった。

 いつも正論で他者を排してきた気の強い彼女が、謝っている。涙こそ零していないが、一度見た涙も悪餓鬼どもに暴行された後で、あの時はいかれる獣のようにたけり狂っていた。

 今は、近付けば吐息ででも崩れてしまいそうに脆く、ぼろぼろに見える。


「ごめんなさい……ごめんなさい……」


 切れ切れの言葉の間に、何度も涙を呑む音が混じる。誰も何も応えなかった。

 それは、その眼差しを正面から受ける者でさえも例外でないと思えたが。


「正しきことを知りながら、己をあざむき、罪を成していたことを認めるか」


 助祭はどこまでも無機質に無造作に、糾弾した。剥き出しの彼女の心を、路傍の雑草を踏みつけるような正論で。


「ッ」


 びくり、と彼女が震えたのがここからでも分かった。翠眼が再び惑い、落ち着きなく室内を動きまわる。

 そこでやっと、扉の前に倒れていた少年が、呪縛が解けたかのように身じろいだ。


「……姉ちゃ――」


 けれど呼びきる前に、再び助祭の手が前へと伸びる。

 今度は、彼女の喉元へと。


「ぃや――」


 彼女が、蒼褪めて半歩後ずさる。


「「「「やめろ!!」」」」


 幾つもの声が、異口同音に轟いた。

 そこに自分の声も含まれていたことに、シュヴァルムは後から気付いて驚いた。

 家に入ってからずっと神職者たちの存在に畏縮し、彼女を守ることも、颯爽と連れ出すことも出来ずにいたのに。


(今、俺……)


 けれど勢いで出来たのもそこまでだった。

 現実には、足は地面に縫い付けられたままのように動かなかった。その目の前で、三人の弟たちが彼女の元へと駆け寄る。守護者の少年は姉を守るように間に入り、双子も補佐官二人を押し倒して逃れ、助祭の背中へと飛びついた。


「やめなさい!」

「助祭様に手をかけるとは!」


 体勢を立て直した補佐官二人が、慌てて双子を引き剥がす。


「はなせ!」

「そっちがやめろ!」


 それに双子は、今にも本当に噛み付きそうな勢いで抵抗した。

 だが助祭は、その様をまた他人事のように静観し、言った。


「……まるで獣のようだ」


 と。

 それが引き金のように、シュヴァルムには見えた。


「……ぁ、ぁぁ――」


 四人のもつれ合う声に掻き消されながら、搾り出される嗚咽おえつ

 争う人々の向こうで少女の体が更に小さく、力なく、床にくずおれた。


「姉ちゃん!」


 すかさず少年が姉の体を支える。

 その、一拍後。


「――ぁぁああああぁあぁぁぁぁッッ!」


 ひび割れた蛮声が、部屋中にどよもした。

 一瞬、場違いにも山猿の雄叫びがここまで聞こえたのかと勘違いしたほどだ。けれど次には、耳よりも自分の目を疑った。

 助祭の言葉に全身の力を奪われたようだった少女が一転、跳ね起きて助祭向けてがむしゃらに走り出したのだ。

 どん、と鈍い体当たりの音がして助祭がよろめき、呆気に取られていた他の人間が慌てて動き出す。

 様々なことが一度に起こり、入り混じり、ぐちゃぐちゃになった。誰もが叫び、怒鳴り、拳を振り上げ、制止し、猛り、誰の声かも判然としない。唯一その場で直立を保つ助祭の冷眼だけが、シュヴァルムの背筋を薄ら寒くさせた。


 そこには、確かに獣がいた。


 全ての障害をなぎ払おうとするかのように渦中に飛び込み、神職者たちをこの家から追い出そうとその体をぶつけている。髪を振り乱し泥と煤で顔をぐちゃぐちゃにしたその様は、まるで追い詰められた猪のようでもあり、押さえ付けられながらも藻掻く姿は罠にかかった狐を思わせた。

 それはひどく混沌として、今まで目にしてきた彼女のどんな姿よりも憐れで見苦しくて、見ていられないだった。それなのに、以前のようには――顔をしかめ、見るのも汚らしいと目を背けたいとは――もう思えなかった。


 わぁぁわぁぁ、と色んな声と音が、飽和したように室内を満たす。耳を塞ぎたい衝動を訳も分からず耐えて、彼女を――助祭からも弟からも引き剥がされ、頭を押さえ付けられて床に引き倒される彼女だけを見ていた。

 彼女の背中に膝をつく補佐官の腕を引き剥がそうと、弟たちがその腕を殴っている。もう一人の補佐官が、双子たちを交互に抑え込む。

 そんな彼らを尻目に、おもむろに助祭が足を踏み出した。祭服についた埃を軽く払い、守護者も邪魔者もいなくなった扉を無言でくぐる。

 紫色の祭服の裾だけしか見えなくなった辺りで、動きが止まった。


「――天にします我らが双聖神ふたりよ」


 そして幾らかの空白ののち、朗々と神への言葉は響き渡った。


「願わくは御名みなの尊まれんことを。御旨みむねは天に行わるるが如く、地にも行われんことを。我らに罪をおかす者を我らがゆるす如く、我らの罪をもゆるしたまえ。悪より救いだしたまえ」


 それは、教会で最も多く聞き続けた基本の祈りだった。

 地上に生きる人々は誰もが罪を犯し、その償いのために折々に天上に許しを請い、日用にちようの糧を得ている。

 賛美と懺悔。奉神と贖罪。

 何の疑問も持たなかった言葉の数々が、今はびたきりのようにシュヴァルムの胸を抉っていた。


「天よりくだる安和と、我らが霊の救いのために祈らん」


 きりきりと、ぎりぎりと。


「この世を過ぎ去りし者の、罪のゆるしを得るがために祈らん」


 その言葉の一つひとつに、深く考えることを放棄してきたことの罪深さを突きつけられている気がした。


「彼らが自由と自由ならざる罪のゆるされんがために祈らん……」


 けれど生まれながらに負っている罪と、神が与えた赦しの、頼りないばかりの論拠のどこに縋ればいい?

 罪とはなんだ。

 赦しとはなんだ。

 生きるとはなんだ。

 救いとは、一体なんだ?


「…………やめて」


 彼女の声がした。

 シュヴァルムが重い頭を動かせば、部屋にいたはずの獣はいつの間にか消えていた。

 補佐官たちは本能的に目を閉じ、弟たちは最後通牒を聞くように眉根を寄せる。まるで響き出した祈りが、彼らの身の内を暴れ回っていた熱を、残らず吸い取るようだった。


「何もしてくれないのなら」


 足掻くように、あるいは救いを求めるように、彼女が手を伸ばす。


「最後まで、何もしないで……」


 シュヴァルムの目に、哀しみとは違う涙が滲んだ。

 直視するには辛すぎて、目を背けるにはあまりに他人事でなかった。


「天の御命みことよ、なんじの眠りししもべの幸いなる眠りに永遠の安息を与え、彼らに永遠の記憶をなしたまえ」


 そして終わりの祈りが紡がれる。

 いつの間に現れたのか、気付けば室内には大きな木箱――この家に入る前に見たあの木箱だ――とそれを運び込んだらしき二人の男がいた。

 がさごそと鳴る衣擦れの音で、やっとそれが仮の納棺だと知れた。

 儀式も手順も何もかもめちゃくちゃだ。

 通常であればまず遺族への弔慰から始め、遺体を清め聖油を塗り……と納棺の前だけでも色々とあるのに。


(臭い物は、一刻も早く蓋をするってか)


 何のために何を為しているのか。それを本当に分かっているのかと、相手は本職なのに、詰め寄って問い質してやりたいとすら考えた。


(これが、本当に正しいことなのかよ!?)


 形のない混乱と焦燥と哀苦と憤懣が、立ち竦むしかできないシュヴァルムを取り巻いていた。渦を巻くように、足首に絡みつくように。

 けれどシュヴァルムは動けなかった。

 死者を冒涜してはならない。神職者を阻んではならない。

 シュヴァルムが疑問にも思わず浸かりきっていた常識が、良識が、意志を怯ませる。


(どうして、言えないんだよ……)


 単調な祈りの声と作業する音だけが、鼓膜を揺らす。いつの間にか、外から聞こえていた幼子の泣き声も止んでいた。

 だから余計、彼女の押し殺した嗚咽が耳についた。


 そんな時間が、どれほど過ぎただろう。

 いつしか全ての音は止み、ゆっくりと助祭が扉の奥から姿を現した。その後に、木棺の前後を持った二人の男が続く。補佐官の二人も、子供たちを押さえていた体を退かすと、目もくれず跨ぎこしてその後を追った。

 言葉は、何もなかった。


 暴れたために部屋中に物が散乱した中を、小規模の行列が無言で進む。シュヴァルムの横も通り過ぎ、開け放たれたままの玄関から差し込む光の中に、しずしずと踏み込んでいく。

 放り出された姉弟たちが、立ち上がることもできずそれを見上げる。仄かな一縷いちるの希みもその手から滑り落ち、気力すら奪われたように動かない。

 その中で、彼女だけがその手を――何度も叩き落されたその手を、もう一度前へと伸ばした。


「……うばわないで」


 一歩、また一歩と遠ざかる木棺の端に縋るように、うわ言のように繰り返す。


「救いなんか、求めない。だから、おねがい……うばわないで」


 いつの間にこんなにも日が傾いたのか、部屋が薄暗い分、扉の外は景色も見えないほど光に塗り潰されていた。棺を照らす陽は濃く、宙に舞う埃に反射する光はまるで黄金を振りまいたようだ。

 それに向かって、彼女の煤だらけの手が光を裂くように伸びる。

 その光景があまりに現実離れしていて、一瞬、今にも潰れてしまいそうなこのぼろ家が、街の大神殿にも匹敵するほどに神々しく見えて、肌が粟立った。


(神様がいる……)


 骨の浮いた手が弱々しくもがく度に、黄金の光が揺れ、千切れ、棺が遠ざかる。

 それでもあと一歩、もう一歩と、力の入らない足を引きずり、手を伸ばす。

 それを、最後尾の補佐官が小うるさい羽虫を追い払うように叩き落す――直前、シュヴァルムがその手を掴んでいた。


「なっ……」

「…………?」


 シュヴァルムの掴んだ手首を、補佐官本人と、暗然とへたり込んだままの少女が見上げる。他にも怪訝な視線が前後から集まるのをひしひしと感じた。一呼吸するたびに冷静な思考が戻ってくる。体が熱くなるような後悔が頭を席巻する。

 意を決するような時間も覚悟もない。

 それでも、許せなかった。


(やっと、ここに本当の神の祈りが満ちたのに)


 やっと訪れた正しい祈りを、補佐官が再びただの作業に堕そうとしているように思えて、許せなかった。

 恐怖は、やはり根強くある。物心つく前から刷り込まれていた象徴に異を唱えるのは、想像以上に心身への抵抗があった。

 それでも、衝動的とはいえ行動できたことに、シュヴァルムは内心言いようのない情動を感じてもいた。


(動けた……)


 彼女を守るためには動けなかった。

 けれど、彼女の心を守るために動けた。

 だから、刺すような批難の視線にも耐えられた。

 湧き上がるままに、口を開く。


「……死者に祈りを」


 ハッ、と誰かが息を飲む音が聞こえた。棺の行進が完全に止まる。


「…………」


 少女が、初めてシュヴァルムを見た。

 半ば呆然としていた翠眼を大きく見開き、その唇を小刻みに震わせる。まるで、失くした宝物を不意に目の前に差し出され戸惑う、子供のような顔だった。


(……そうだ。子供、なんだ。俺たちは、どっちも)


 きっと、宥めるように微笑めれば良かった。けれどそんな器用なことはできないから、代わりに玄関の外に顔を向けた。

 眩いほどの西日の中に立つ助祭が、静かにシュヴァルムを振り返っていた。その顔は濃い影に沈み、表情は窺えない。

 けれど、言葉は紡がれた。


「死者に、祈りを」


 朗々とした迷いのない声が、確かにそう応じた。

 沈黙は、数拍。

 ごとん、と重い物を置く鈍い音が、息を潜めた屋内に響き渡る。

 それが許しとなったように、三人の弟たちがぞろりと立ち上がった。恐る恐る棺に駆け寄る――そう思われた足はけれど、その手前、最後に立ち上がろうとしていた少女の元に集まった。


「姉ちゃん」

「「大姉ッ」」

「……え?」


 触れていいものか迷うような少年を飛び越して、双子の一人は二度と離さないとばかりに激しく、もう一人は縋るように、少女の膝に掴まる。

 棺の中の母に別れの言葉を伝えるとばかり思っていた神職者たちは、その様子に少なからず当惑していた。

 だが最も困惑の色を浮かべていたのは、彼女本人だった。


「どう、したの……?」


 しがみつくような弟三人の顔を、困り果てた眼差しで見下ろしている。きっと、何故自分の所に集まったのか、心底分からないのだろう。


「お母さん、に……さよなら、しなきゃ」


 神職者が許した時間は、きっと多くない。戸惑いながらも、姉としての役割を果たそうと促す。

 だが言ってすぐ、少女が再び表情を歪めた。何かに気付いたように、サッと怯えが広がる。それから、弟たちの肩に触れていた手を、痛みでも走ったかのように引っ込めた。


「もしかして…………お、怒っている? お母さんのこと、ずっと隠していたから……」


 それはまるで、子供の告解だった。

 親に失敗を隠し、隠したことに怯え、見付かって泣き出す、小さな子供。

 嘘が暴かれることが怖くて、けれど真実を抱え込むのが痛くて、早く気付いて欲しいと願っている。そして気付かれると慌てて、怒られることに怯え、けれど胸の奥のほうでは、もう隠さなくて良いことに安堵するのだ。

 シュヴァルムにも嫌と言うほど覚えがある。


(今の彼女は、どっちだろう)


 彼女は母親の死を、村どころか家族にもひた隠していたのに違いない。だから明るみになった今、それを責められると思ったのだろう。

 けれど、違うのだ。


「はあ?」

「なに、言ってるんだよ……」

「……大姉ぇ」


 それはこの場をちゃんと見ていれば分かる、とても見当違いな思いで。


「レーレ? ねぇ、どう……ハーゼ、違うの?」


 まるで分かっていない姉の姿に余計に気が抜けたらしく、一番小柄な少年がぼろぼろと泣きながらへたり込む。

 その肩に触れていいかどうか悩む姉と目が合った少年は、泣き笑いのような顔で首を横に振った。まるで、自分で考えなさいと見守り促す母親のように。


(どっちが年上か分からないな)


 こんな場合だというのに、シュヴァルムは微笑ましくて口許が緩んでいた。


(これが、彼女の守りたかった家族なんだ)


 他とは少し違ういびつな、けれど彼らだけで築き上げた、何にも変え難い家族の形。


(……そうだ)


 家族と考えて、シュヴァルムはずっと忘れていたことに気が付いた。慌てて玄関を塞ぐような神職者たちの隙間を縫って、外に出る。

 すぐ、代わりの者が屋内に入ってきた。

 邪魔な神職者たちの足をむんずと押しのけ、とたたたっと迷いなく駆け寄る。


「おおねえ」


 ひしっ、と音がしそうな程の必死さで、幼い女の子が彼女に抱きついた。

 ぎゅぎゅっ、と腰と膝にしがみついている双子を全身で押しのけ――「ちょっ……ブルーメッ」「ひどいよぉ」――定員約一名の懐に入り込む。

 その後から追いかけてきた少女もまた、姉と弟と妹を一緒くたに抱きしめた。


「リート……?」

「お姉ちゃんが無事で良かったぁ……っ」


 長く大きく安堵の息を吐く。

 それはシュヴァルムがこの家に着いた時、外で泣いて震えていた二人の妹たちだった。

 いつしか止んだ泣き声は、不安に押し潰されそうになりながらも、リートと呼ばれた少女が必死で妹を宥めたからだろう。それからはずっと、気を揉みながら中の様子を窺っていたはずだ。

 二人だって、出来るなら大好きな姉のそばにいて、何としても守りたかっただろうから。


(これで、六人姉弟が揃ったんだよな)


 今の妹の言葉で、彼女は分かっただろうか。彼らが亡き母ではなく、彼女のもとに集まってきた理由を。


「無事、て……リートまで……」


 何を言っているのかと言うように名を呼ぶ声は、尻すぼみに消えていく。消えた声は指先に宿り、彼女にそっと妹たちを抱きしめ返す力を与える。助祭の冷眼にも侮辱の如き拘束にも零れなかった涙が、ぽろり、その頬を転がった。ぽろり、ぽろぽろ。


「…………ッ」


 堪えても堪えきれない涙に溺れてしまわないように、妹の肩口に額を預ける。

 先程までの痛々しい嗚咽とは違ういとけない涙が、彼女が弟妹たちの想いを正しく受け止めたのだと教えていた。


(そうだよ)


 彼らは母の遺体を奪われないように守っていたのじゃない。

 最後の支えとしていた母の遺体を奪われれば、壊れてしまいかねないほど危うかった姉を――姉の心を、守りたかったのだ。

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