第九話 遠い光の射す
互いを抱きしめあう腕をなんとか緩めて、彼女はそろそろと顔を上げた。
弟妹たちを涙声のまま促し、ぎこちなく立ち上がって、玄関に置かれたままだった木棺に向かう。
それぞれが緩んだ涙腺をなんとか宥めて、天へと召される母へと最後の言葉をかけた。
祈りは拙く短いものだったが、言葉が絶えたあとも姉弟たちはなかなか離れられずにいた。それを神職者たちは視線と咳払いでなんとか立たせると、そそくさと木棺を持ち上げて行進を再開した。
めいめいが名残惜しげに見送る中、棺が完全にあばら家を出る。
いつしか茜から桔梗に変わった空色の中、外で待っていたシュヴァルムの前も完全に通り過ぎる――直前。
「!」
助祭と目が合った。
先頭にいたはずの助祭がシュヴァルムの前で立ち止まり、棺が通り過ぎたあとも、目の前で相対していた。
「……ぁ、あの……っ」
びくりと、本能的に体が強張る。シュヴァルムへと真っ直ぐに据えられた無機質な眼差しが、先程の要求を分不相応と詰っているようで冷や汗が滲んだ。謝罪をしなければならないと分かっているのに、口がまともに回らない。
遠ざかる足音と鼻を啜る声が、彼我に横たわる沈黙をより意識させる。早く謝罪をと焦り、けれど出来ずに唾を飲んだとき、
「彼らは」
不意に、助祭が先に口を開いた。
「間違えませんでした」
それは何の脈絡もない言葉だった。思わず聞き返す。
「……え?」
助祭はこれには応えず、一つ瞬きをすると屋内にいる姉弟へと視線を移した。そして初めて、ほんの僅かに口許を緩め、誰に向けるともなくこう言った。
「生きている者をこそ、守りました」
「!」
どきり、として思わずシュヴァルムも助祭の視線の先を追う。
弟妹に囲まれたままの彼女が、瞠目してこちらを見ていた。
聞こえたのだろうか、この距離と声量で。
「あの……」
助祭の意図が分からなくて、無意識に声が出ていた。
(……違う)
こうして何もかもが終わったあとに小さな違和を感じると、全ては一体何だったのかという疑問が
不信心だと頭では分かっているけれど、神職者らはまるで与えられた仕事をただ漫然とこなす作業員のようにしか見えなかった。
そんな中で何度も発せられた助祭の、あの居丈高な言動は、では一体どんな意味があったのか。
憤っていたのか、蔑んでいたのか、憐れんでいたのか。
(もしかして、待っていたのか……?)
全ては憶測の域を出ない。だがシュヴァルムには、今の抑揚を抑えた言葉の方が、この助祭の本質を表している気がした。
先程見せた一瞬の表情の変化が笑みだったのか、それとも全く別の意味を持つものなのかも、想像することしか出来ないのだけれど。
二の句を継ぐまでに、以前の自分からは想像も出来ないほど様々な問いが錯綜した。けれどどれも答えを求めるのは違う気がして、シュヴァルムは伝えたい言葉を選んだ。
「ありがとうございました」
ただ、深く
芽生えてしまった疑問はもう消せないけれど、今まで祈りを捧げてきた信仰まで否定する必要はない。
正しいことの出来なかった者が抱える魂を、正しく導くことが
「考える、ということをやめてはなりません」
厳かだった先程までとは違う穏やかな声が、子供にも分かりやすい言葉でシュヴァルムの頭上に降った。導かれるように
どこか朴直ともいえる瞳が、シュヴァルムを見詰めていた。
「道のりは果てしなく長いものですが、それは誰にでも出来る可能性の一粒です」
一日の限りある時間を、思索する、という非生産的な作業に費やすことは、この時代、貧しい者には簡単ではない選択だ。
けれど、誰にも邪魔のできないものでもある。
「少しずつ、歩んでください」
険しいとずっと思っていた双眸が、ふっと細められる。それはシュヴァルムを優しく見守るようでもあり、今しがた丘の向こうへと呑まれたばかりの残照を追うようでもあった。
「……はい」
いつも教会で聞いていた説教と、それは恐らく似たようなものだったろう。けれど今のシュヴァルムには、泣きたくなるほど胸を打つ言葉だった。
少しずつ。
本当に、シュヴァルムは蟻の歩みよりもゆっくりと、眩暈がするくらい少しずつしか進めていない。
けれど、進んでいる。
(悩むことが、進むことなんて……)
以前のシュヴァルムであれば、悩みなど時間の無駄だと思ったろう。それこそ止まっていると。
実際、作業は止まるし、視野は狭くなる。けれど次に見上げた時には、きっと少しずつでも、世界が広がっている。
今のように。
「あ……」
少し視線をずらしただけで、今まで見えていなかった周囲が見えた。
来る時に丘の上にまばらに集まっていた野次馬が、倍近くになってこの家を遠巻きに眺めている。悪魔が出てくるとでも期待していたのか、その目には一様に妙な興奮と怯えが宿っていた。
けれど棺の行進が近付くにつれ、一部の大人たちは通常の葬列にするように
(あぁ、そうか……)
不意に得心がいった。
頭ごなしと思えたあの大人たちも、もしかしたらこうやって幾つかの力ある言葉に出逢ったのではないか。そして最初はただの作業でしかなかった空っぽの信仰に、自分の信じるものを少しずつ、少しずつ詰め込んでいったのではないだろうか。
今の自分や――そっと隣に並んだ彼女のように。
「……はい」
どこから聞いていたのだろう。彼女が少し声を掠れさせて応える。
喉が熱かった。
正体の分からない何かを一生懸命飲み込んで、シュヴァルムは彼女に倣って、もう一度深く頭を下げた。
◆
遅れて葬列に加わる助祭の後姿を、頭も下げずに見送っていたら、丘の上に集まった野次馬の中に見たくもない顔を見つけて、ツェーレは僅かに顔をしかめた。
(……見世物じゃないのよ)
その視線に含まれる非友好的な感情は、ここからでも嫌という程肌に染みる。けれど今ばかりは、いつものように攻撃的にやりこめる気力は湧いてこなかった。
晴れ晴れしいとも、投げ遣りとも違う。ただ、何もかもが頓着するほどではないように思えたのだ。
(抜け殻に、なっちゃったのかな)
そうかもしれない。
隠していたことが全て白日の下に晒されて、気を張る必要がなくなった。姉として弟妹を支えなければと思っていたのに、支えられていたのは自分の方だったと、ようやく気付けた。
間抜けだなと思う。独り相撲だったと。
でもやはり、嬉しいと思った。
(あと、気になるのは……)
傍らに立つ、この少年。
何度も接触したけれど、自分から近寄ったのはこれが初めてだった。
知りたい、と思った。
(少しだけ。少しだけよ)
弟妹のところに戻るのを少しだけ先延ばしにして、その横顔を注視する。
太陽に愛された小麦色の金髪とそばかすに、どこまでも高く広がる青空色の瞳。いつも警戒と羨望で睨みつけていた横顔が、ゆっくりとこちらを向く。
目が合った。
いつもなぜか現れては実のないことを喋るだけの不審人物。
そしてあの晩、ツェーレが辛苦の底にいた時に追い返して以来、現れなくなったひと。
今も、何か言いたげにしながらも何も言わないから、先にツェーレが疑問を口にした。
「どうして、あなたがここにいるの?」
「…………へっ?」
間の抜けた声がした。
(まさか、聞いていなかったの? こんなに見つめ……)
違う、と思考を止める。
(大体、さっきまでの大人びた強かさはどこにいったのよ)
それが、今は嘘のように子供っぽい。何だか化かされたような気さえする。かといって、以前のような無分別な様子とも違う。
つい、分からないものはとことん観察してしまう悪癖が出てしまった。その凝視に堪えあぐねたのか、少年がやっと正気に戻ったように口を開いた。
「そ、その、……悪かった」
「え?」
「余所者が勝手に家に入って、横から口を出して」
思いがけない謝罪に、ツェーレはぱちくり、と一つ瞬きをした。
責める気持ちは一つもなかったのだが、確かに赤の他人が家族の問題に首を突っ込むなど、今までのツェーレなら烈火のごとく怒っていたはずだ。
何故、と考える前に、少年が言葉を続けた。
「それに、あの晩のことも……ごめん」
「あ……」
少年が覚えていたことに、ツェーレは素直に驚いた。心のどこかで、あの晩のことは自分の弱い心が作り出した幻影のように思っていた所があった。
けれど、違った。
(居てくれたんだ。本当に、あの場に)
あの夜、彼が現れなければ、ツェーレは自分を抑えることができたか自信がない。驚いたし、悲しかったけれど、怒ってなどいない。感謝こそすれ、謝られるのは違うのだ。
「謝られる筋合いじゃない」
「……そ、そうか」
「え」
ばつの悪さに思わずぶっきらぼうに答えたが、途端に眼前の顔がしょげたように見えて、ツェーレは慌てて言い直した。
「えっと、そうじゃなくて!……あなたは悪くないから、謝る必要はない、の」
「え? でも……」
少年が迷うように視線を外し、それから気遣うようにツェーレを見た。
「泣きそう、だったろ?」
「!」
その言葉は、ツェーレの胸に深く突き立った。
(そんな……何で?)
あの夜は、か細い月灯りしかなかった。しかも相手は、自分を同じ人間とも思っていないはずの村の子供だ。
最近は泣いてばかりだったが、それでも人前で泣くなんて滅多にないことだったのに。
(いやもう前にも見られてた!)
市場で、悪ガキどもに給金を取られて悔し涙を零した時にいたのも、彼だった。
今更守れる矜持ではなかったと気付いたが、それでもツェーレは何故か必要以上に強い口調で否定していた。
「……泣いていない」
事実だ。けれど、口に出せば余計に情けなくて、ツェーレの気分は塞いだ。
母が死んでから、意固地に独りよがりになっていたと自覚がある。酷い自己嫌悪はいまだ消えなくて、無意識に腕を擦る癖もきっとすぐには治らない。母の死が公になって、あの部屋から死と罪の臭いが薄らいでも、この肌に染み付いた臭いまでが記憶から消えてくれるとはまだとても思えないから。
「うん。でも、独りで泣きたい夜に邪魔者が現れるなんて、やっぱ、嫌だろ?」
ツェーレの拒絶に、けれど少年は嫌な顔をするでもなく、そう言った。
それから、逡巡するような間を置いて、そっとツェーレに触れた。ツェーレが無意識の内に強く擦っていた二の腕に。
「っ?」
「それに、やっぱり汚くなんてないよ」
それは、家族以外からは聞いたこともないような優しい声だった。まるで心の底からツェーレを案じるようで、肌のあちこちからその思いが沁み込むような気さえする。
(まさか……本当に?)
自分のことを心から心配しているとでも言うのだろうか。
彼のような人間が、市民権のないツェーレたちを対等な人間などと見てもいないことは、嫌というほど知っている。同じように感情があることも、虐げられれば嫌だと思うことも、考えもしない。
(そうじゃ、ないの?)
目の前の彼は、違うのだろうか。
何度声をかけられても粗雑に追い返し、給金を奪われた時には一緒くたにして責め、あの晩には猜疑心から差し出された手をはねのけたのに。
それでも。
(私を、見ているの? 私自身を――『ツェーレ』を)
そう考え出た途端、ツェーレは何故か少年を直視できなくなってしまった。
(え? 見てるって……うそ、見るってどういうこと!?)
別に彼自身が見ていると断言したわけではないのに、ツェーレは一人混乱した。
今まで無視していた事実の側面が、次々に頭の中で翻る。
(もしかして、今まで声をかけてきたのって……まさか! そんなこと有り得ない……っていうか、顔!)
先程まで獣のように床をのたうち回って泣きじゃくっていたせいで、顔は黒いし髪はぼさぼさだし、目は真っ赤だ。
鏡が欲しい。でも家にそんなものはない。
逃げたい、とツェーレは思った。
「か、帰って」
やっと搾り出した返事は、震えて掠れた上に最悪に失礼なものだった。
少年が、明らかに傷付いた顔で肩を落とした。
「…………うん。じゃあ」
「ち、違うのっ」
「?」
慌てて否定すれば、瞠目した碧眼と目が合って、また慌てて明後日の方を向く。きっと最大に顔が汚いのに、頬まで赤くなって、それ以上の弁解も出来なかった。
今度は、少年が沈黙を破る番だった。
「なぁ」
と、ツェーレと同じ方向――丘の上を眺めながら、言う。
「今度、取られたものを取り返しに行くよ」
「!?」
思わず振り仰ぐ。何のことかと思ったが、視線の先にあの時ツェーレから給金を奪った悪童がいることに気付き、意図を悟った。
(そんなこと、あなたにしてもらう義理はない)
今までのツェーレなら、そう即答しただろう。けれど今は違う、と心が告げていた。
本当の心を確かめるようにゆっくりと思考する。変わりたいと望んだ未来に近付くための言葉を探す。
「……私も、一緒に行く、よ」
たどたどしく、それでも真っ直ぐに少年を見上げた。
少年が、ゆっくりとツェーレを見返す。
「あぁ」
にこり、と。少年が破顔した。
それはツェーレが初めて見た、そして胸がざわざわするほどに優しい笑顔だった。
◆
よく日に焼けた頬が、ついた煤でも隠せないほど美しいばら色に染まる。
あの月下に見たのとはまた違う可愛らしさで、シュヴァルムは知らず吐息を零していた。
「もう、ドアを開ける前の魔法の言葉は要らないんだな」
少しだけ壁もなくなったような気がして、そんな言葉も一緒に漏れていた。
それは最初の頃に偶然見かけた、彼女が自分自身を鼓舞するために発していた言葉。
『私は優しいお姉ちゃん』
家族を何よりも慈しんでいる彼女が、その家族に自身を偽っているということが酷く気がかりになっていたのだと、悶々と過ごす日々の中で気が付いたのだ。
(そんなことわざわざ言わなくったって、十分優しいのに)
だが。
「それ、どうして……」
「あ」
乱れた赤毛の向こうで、驚くほど玲瓏とした翠眼がシュヴァルムを見ていた。真偽を確かめるように、或いはまだ秘めている心の内を見透かすように。
その美しさは、誰も立ち入ることの出来ない深い森に隠された、底深い碧瑠璃の湖を思わせて。言おうと思った言葉が、全て吸い込まれて湖底に沈む。
そうして露わになるのは、シュヴァルムの剥き出しの心。
「……なぁ」
だから、誤魔化すことも自分を飾り付けることもやめて、口を開く。
少女を目で追うようになってから、ずっと知りたかったこと。
「名前、教えてくれないか」
「……名前?」
彼女が、可愛らしく小首を傾げた。何故そんなことを改まって、という顔が、数拍後、ハッと何かに気付いた顔になる。
(そう、まだ知らないんだ)
こんなにも傍にいるのに。
(君が泣くなら、今度こそ)
傍にいて、その名を呼んで、涙の一粒目を掬いとりたい。
そしていつか、君にも笑ってこの名を呼んでもらいたいから。
「そう。俺の名前は――」
◆
その世界は美しかった。
深い黄昏が迫る中を、他人ばかりが蟻のように集まって、役目を終えたものに深く
けれどその中で、まるで知ってはならない真実に気付いてしまったように顔を上げる者がいた。二人の少年と少女だ。
届きもしない仄昏い夕空を、一心に眺めている。まるで、誰にも触れられない
愚かなことだ。
答えなどどこにもない。
生きても、死んでも、答えには出会えない。縋っても神は応えず、何のために生まれたのかさえ教えはしない。満足など程遠く、あまねく後悔に溺れて死ぬ。
足掻くことは醜くて、嘆くことは憐れを催し、死に縋ることは絶望の始まりだ。
だがだからこそ、命は美しく輝く。
けれどどうやら、狙い定めた美味しそうな子羊は、停滞していた繰り返しの日々を自らの力のみで変えてみせた。私の出番は、どうやらまだ先のようだ。
けれどその小さな積み重ねは、また少し、私を退屈から救うだろう。
だから私は、飽きもせず眺め続ける。
その命が、甘く眩く輝き続けるまで。
《了》
無償の愛 仕黒 頓(緋目 稔) @ryozyo_kunshi
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