第七話 求めるものと与えられるもの

 田舎の農村の日常は平坦だ。

 日の出と共に大人は働きだし、子供は青空の下で手伝いという名の遊びにふける。日が沈み始める頃には家々から温かげな煙が立ち上り、どの人も家路を急ぐ。

 毎日、その繰り返し。

 変化といえば村の中の冠婚葬祭と季節ごとの祭などだが、この小さな村は市街から少し離れていることもあり、よそ者が来るだけでも村の中はにわかによそよそしくなる。


 その日も、その気配はざわざわと村の中に入り込んだ。

 最初は、誰かの噂。朝市から帰ってきた大人が見たと言ったのだったか。

 その次は子供。村はずれで遊んでいた時に、立派な服を着た人を見かけたと親に話す。その親が……と、噂はすぐに村中を駆け巡る。

 シュヴァルムがその噂を聞いたのは、昼を少し過ぎた頃だった。


 心当たりは、誰もなかっただろう。

 立派な服といえばそれなりに身分ある者のことだが、そんな人間が用事のある所など村長くらいしか思いつかない。あとは冠婚葬祭には教会の人間が来たりもするが、そんな話があれば既に村中が知っている。


(何の用だ?)


 手伝いで体を動かしながら、シュヴァルムは彼女の顔が浮かんで振り払えなかった。嫌に胸が騒ぐ。


「…………」


 周りを見渡す。ここの畑からでは、彼女の家は臨めない。

 シュヴァルムは、何日かぶりに手伝いを抜け出した。





 見飽きた農村を横切る細いあぜ道を、シュヴァルムは嫌な汗をかきながら駆け抜けた。

 最初に行き会った知り合いには「またさぼりかー」と声をかけられた。

 庭では猫が鼠も獲らず昼寝をし、友人の母親が洗濯物をよせていた。

 声をかけてくるような知人がいるのは、この辺りまでだ。彼女の家が見え出す丘を越えれば、人気ひとけはぐんと少なくなる。はずなのに、いつもは近寄らない近所のおばさんたちが、ちらほら集まっていた。

 けれど、渦中に向かおうとする少年に声をかける者はいなかった。ひそひそと、何かを囁き合っている。


(何なんだ? 一体、何が……)


 火事か盗みか。そうも思ったけれど、見えはじめた彼女の家に異変は見られない。と見た時、玄関近くに大きな木箱があるのに気付いた。


(誰かいる)


 木箱の横で蹲るように、二つの人影があった。彼女より少し年下の女の子と、まだ幼児といえる子供。号泣する幼女を、姉らしき女の子がひっしと抱きしめてしきりに頭を撫でている。怒られて慰めている、という表現では、とても生温い。

 その二人めがけて、シュヴァルムは丘を駆け下りた。

 先夜のような躊躇はもうない。


「おい! おい!」


 声が届く範囲を見定めるのももどかしく、大声を張り上げる。

 平時であれば逃げ出してもおかしくない剣幕だったが、二人はしゃがみ込んだまま、少女の方が反応した。


「……っだ、だれ」


 泣きじゃくる子供を更に自分の胸に押し付けながら、女の子が凄まじい速さで近付いてくるシュヴァルムを怯えた顔で見返す。

 ここまで来れば、もう顔もよく見えた。彼女より優しそうな目元をしているが、雰囲気は似ている気がする。

 名乗りたかったが、畑からずっと全力疾走をしてきたせいで、息が上がってまともに口をきけなかった。ちょっと待ってと右手を押し出し、どうにか息を落ち着ける。


「俺、は」


 そう、やっと口を開いた時だった。


 ――ガシャン!


「出ていけ!」


 何かが落ちたような激しい物音と、痛いくらいの怒声が、屋内から響き漏れた。眼前の二人が、反射的にぎゅっと身をかたくする。

 シュヴァルムは事情を訊くのももどかしく、半開きになったままの玄関に飛び込んだ。


「おい、なにが――」

「これは」


 だが一歩足を踏み入れたところで、先程とは正反対の重々しい声が行く手を押しとどめた。


双聖神そうせいしんへの冒涜である」


 それは、とても朗々と響いた。まるでここが教会かと錯覚するような、人を押さえつけるのに慣れた声調。


(神職者? 何で……)


 無意識に体が強張る。

 帯の色からすると、先頭の神職者は助祭だろうか。こんな田舎に、司祭が来ることはまずない。

 けれど最初の怒声の主は、少しも怯む様子がなかった。


「うるせえ! それ以上ちかづくな!」

「大姉からはなれろ!」


 紫色の祭服の背中の向こうに、二人の男の子がいた。

 シュヴァルムの八歳になる弟より、一つか二つ下くらいだろうか。二人とも同じ顔で、一人は涙をいっぱい溜めて、もう一人は狂った犬のように、三人いる神職者に向かって吠えている。

 足元に落ちている食器類が、先程の音の発生源らしい。


 見回す必要もないほど、小さな家だった。

 前室もなく、入ってすぐ右の壁に暖炉、左にテーブルとソファーがある。その間に三人もの大人が屹立すれば、圧迫感は教会の比ではない。

 双子はどうやら、神職者が奥へと進むのを阻んでいるらしい。双子の後ろには更に年嵩の少年が立ち、奥の部屋に続くであろう扉を守るように両手を広げている。


(何だって、こんなことに……)


 状況説明を求める必要は、最早なかった。

 紫色の祭服は、死者を悼む色だ。神職者がそれを纏って現れる時、その先には天上の双聖神の元へと正しく導くべき死者がいる。

 けれど今この場には、彼女が度々口にする『五人の弟妹』が揃っている。

 いないのは、二人だけ。


(彼女は……あいつはどこだ?)


 最悪の可能性に、整いきっていない動悸が益々加速する。気の強い翠眼と赤毛を探して、狭い家を何度も視線を彷徨わす。


「だれだお前! お前もじゃまする気か!?」


 狂犬じみた子供が、シュヴァルムに気付いて噛みついた。

 先頭に立つ助祭以外の全員が、眼差しにそれぞれの意味を含ませて振り返る。特に痩せっぽっちの三人の子供の目には、ぞっとするほどの敵意があった。


「い、いや、俺は……」

「もう一度言う」


 その何もかもが起きていないかのように、助祭が口を開いた。外から絶え間なく聞こえる幼子の泣き声さえも存在しないかのように、平板に。


「この家で行われている行為は双聖神への冒涜である。そこを退き給え」

「どかない。あんた達が帰れ」


 扉の前の守護者が、初めて口を開いた。双子のように激しくはないが、静かな怒気がその痩躯から立ち上るかのようだ。

 しかし助祭は、厳かに作った顔をごうも動かさず、まるで実のない科白を繰り返した。


「我らの職務はいかなる者にも止められるものではない。我らが双聖神ふたりの指し示す道は、何者も阻んではならない」

「かえれ!」

「出ていけ!」


 狂犬のような男の子が、堪えきれなくなったように助祭に飛び掛った。もう一人の男の子も、泣き顔を真っ赤にして祭服を押し戻す。

 明らかに栄養の足りていない双子を、補佐官のような大人二人は造作もなく押し返した。


(これは、何だ……?)


 毎週日曜に赴く教会では、神職者は誰もが朗らかな微笑を浮かべ、足を運んだことを讃えていた。疑問には優しく答え、泣く子には菓子を与えることさえあった。

 シュヴァルムも週ごとに教会に通った。説教は好きではなかったが、疑問を抱いたこともなかった。親がそうしろと言い、他の子供たちもまた同じようにしていたから。

 けれどそれら全ては、一歩教会の外に出れば全く与えられなくなるものだったのだろうか。

 それとも、彼らが市民権を持たない貧民だからだろうか。

 日々を懸命に生きる市民のため、貧しい人々のために説かれる救いの言葉。

 彼らは今、そんなものを求めているだろうか。


(何なんだ、このちぐはぐさは……!)


 痩せ細った彼らに必要なのは、満腹になれる食事だ。救いの言葉でも、人生を善く生きるための説教でもない。

 真に施しを与えるべきは、ここにいるのに。


「……だったら、おれ達のことだってあんた達に止められる理由はないはずだ」


 扉の前から微動だにせず、少年が搾り出すように反駁はんばくする。補佐官たちが目を剥いた。


「お前! 至聖なる助祭様と自分たちとを同列に語るか!」

「うるさい! 来てほしい時には全然来てくれなかったくせに、こんな時ばっかり来やがって……!」

「双聖神は全てをご存知である」


 吠え返す少年に、助祭が補佐官を抑えて淡々と答える。だがその言葉に、少年は彼女よりも濃い翠眼に昏い火を灯して更に激昂した。


「父ちゃんの時には、何度頼んだって何日も来なかったじゃないか!」

「双聖神はついであるが故に全能であるが、我ら人は個であるが故に無智である」

「……っ」


 助祭の反論に、少年は血の涙を流すのではないかと思う程、歯を食いしばった。


(そんな言い方、卑怯だろ)


 よく聞く説教の一つだが、彼らにそんな言い訳は何の慰めにもならない。


「だから、嫌いなんだ……!」

「退き給え」


 助祭が繰り返す。その足は、最早猶予が終わったことを示すように同じ歩幅で少年に――扉に向かう。


「来るな!」


 少年が叫ぶ。補佐官に押さえられたままの双子もまた暴れたが、何にもならない。

 助祭の手が少年の肩へ伸びる。その手の動きを、シュヴァルムは見たことがあった。教会で質問した子供に『疑問は己を成長させる』と褒めた手と同じだ。ぽん、と穏やかに子供を褒めた。

 同じ手付きで、無感動に痩躯を押し退ける。


「っ」

「「兄ちゃん!」」


 実に呆気なかった。

 少年の体が簡単にかしぎ、その背に隠していた扉が無情にもあらわになる。助祭の力が強い、というよりも、少年の体が細すぎたのだ。

 白手袋をした助祭の手が把手とってに伸びる。

 その瞬間シュヴァルムは、開けないでくれとも、開けてくれ、とも願ったような気がした。けれど無意識が表面に浮上するよりも早く――白手袋が届くよりも早く、その扉は開かれた。

 ぎぃぃ……と、古びた蝶番が寂然と啼く。

 室内にいる誰もが口を閉ざした。幼子のすすり泣く声だけが止まない。

 果たして、薄暗い部屋の奥、現れた更に暗い四角い闇の中に、最後の一人はいた。


「姉ちゃん……」

「「大姉!」」


 三人の弟たちが、口々に呼ぶ。それは、シュヴァルムの求める彼女の名前ではなかった。けれど呼びかけられなかったのは、その為だけでは決してなかった。

 暗闇から現れた彼女の面差しは、陽が届かないというだけでなく、深く影が射していた。半開きになった扉口に蕭然しょうぜんと佇み、視線ばかりが寄る辺なくさまよう。

 最初に熾き火すら消えた暖炉、乱れた掛け布だけのソファーと移り、室内にある幾つもを、見るともなく辿っていく。

 それは無気力なようでいて、どこか酷く怯えているようにも見えた。その様子は、扉を開けようとしていた助祭ですら、一拍動きを止めた程だ。


 室内に広がり始めた戸惑いを誰よりも感じたのは、当の少女だった。助祭も、すぐに目的を遂げようと動きを再開する。これに、少女はまるで手負いの獣のように敏感に反応した。

 何者にも踏み荒らされることを許さない、深い森の奥に隠された底深い湖面のような翠眼が、力なく前を見る。三人の弟、神職者を順に。

 その中に、シュヴァルムは入らない。


(なんて、危うい目をするんだ)


 最後に彼女の視線を得た助祭が、おもむろに口を開く――その、寸前。

 彼女のひび割れた唇が、小さくちいさく、押し開かれた。


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