第六話 腐り落ちる
痛みは、大分遅れてやってきた。
(あれ……俺、何して……?)
はたき落とされた右手がじんじん痺れていると思いながら、シュヴァルムは目を
状況がよく呑み込めない。
何故彼女は、怯えるように自分の肩を抱いているのか。何故自分の手は、伸ばされていたのか。何を、触ろうとしていたのか。
(……彼女を?)
気付いた瞬間、シュヴァルムは全身の血が凍ったような気さえした。
(終わった……!)
決定的に嫌われた。こんな夜中に、無防備な女性に手を出すなんて、結局他の連中と同じように彼女を見ていたと思われても言い訳のしようもない。
謝っても許されることではない。けれど、そんな疚しい気持ちで近付いたと思われるのだけは、絶対に嫌だった。
「ちが、ごめ――!」
「汚いから、触らないで……!」
咄嗟に謝罪が口をついたシュヴァルムだったが、もう一度同じ言葉に遮えぎられた。けれどその語調は先程とは一転、痛々しい程に弱く掠れていた。
「な……」
その豹変振りへの困惑と自分の行動への罪悪感が入り混じって、シュヴァルムはただ狼狽した。
汚いなどと、なぜそんな言い方をするのか。
「何言ってんだ? こんなに――」
綺麗なのに。
という言葉は、寸前で遅れてきた理性が総動員された。
(バ……ッ、何を……!?)
己が辿った思考に、シュヴァルムは自分で驚いた。何故そんな風に思ったのかさえ、すぐには理解できなかった。
だが戸惑うシュヴァルムよりも遥かに彼女は怯え、微かに震えてさえいた。その姿があまりに儚げで頼りなげで、シュヴァルムは自分の体裁を取り戻すことも忘れて、口を開いていた。
「……――」
開いて、けれど言いたかった単語が自分の中のどこにもないことに気が付いて、愕然とした。
(名前を、知らない……)
慰めたくて、何とかしたくてまず最初に呼びかけるべき言葉を――名を、シュヴァルムはまだ知らなかった。何度も話しかけていたのに、まだ名前を聞くことすらできていなかった。
(そりゃ、そうだなよ)
名前も知らないような関係なのに、仲良くなれると思うほうがどうかしていた。
落穂を拾う彼女たち全員に、自分と同じようにたった一つの名前があったのに。
『お前なんかに』
いつかの時、動揺してそんな言葉を口走ったことが不意に蘇る。
あの時は勿論無意識だったが、それはとりもなおさず、目前の少女を下に見ているということの表れではないのか。
(最低、だ……)
恐ろしい程の気付きに、ぞぞ、と鳥肌が広がる。
そして次には、残る他方の事実にも否が応にも気付かざるをえなかった。
(彼女も、きっと俺の名前なんか知らない)
それは、なんて悲しいことだろう。
名前を知らなければ、話しかけることもできない。慰めることもできない。ましてや、彼女と笑い合うなど。
(あぁ、そうか。俺は、彼女に)
笑ってほしかっただけなのだ。彼女が家族に向けるであろう、あの屈託のない笑みを、自分にも見せてほしかった。
けれどそれを伝えても、きっと彼女は怪訝な顔をするだけだろう。ましてや、今にも零れ落ちそうな涙を拭い取ることなど、シュヴァルムに許すはずもない。
(遠い。あまりにも、何もかも)
立場も、認識も、関係も、見ているものも、求めるものも、どれもが遠い。
それも全て、名前を知らないからだろうか。
(そんなわけ、あるかよ)
知っても、きっと遠い。それでも、知らなければ近付きようもない。
今までのシュヴァルムなら、その道のりの果てしなさに、きっと諦めていただろう。頑張れない自分にも気付かないふりをして、まぁいいやと、大して興味はなかったと、自分を納得させる。
そしてきっと、彼女にとってもそれがいい。
だって、今言うべきは、きっとこんな言葉ではないのだから。
「……名前を、教えてくれないか?」
酷く緊張した。声は、情けなく震えていた。
そして案の通り、彼女は拒絶した。
「……なまえ?」
何を言いたいのか分からない。そんな瞳を一度だけ向けて、力尽きるように伏せられる。
「……帰って」
今までで一番弱々しく、胸を引き絞られるような拒絶だった。
結局シュヴァルムは、斧に手を伸ばそうとしていた彼女の真意を知ることも、手を差し伸べることさえ叶わず、踵を返すしかできなかった。
◆
指先の震えが止まらなかった。
(暗い)
気付けば天から射していた光はいつの間にか掻き消え、辺りは再び真暗に戻っていた。
近くに誰かがいたような気もしたけれど、それもいなくなっている。
あれはもしかしたら、双子たちが言ったような悪魔だったのかもしれない。
ツェーレに、壊せばいいと囁いた悪魔。
けれど今、天啓のように存在を主張していた斧は闇に消え、声は一つも聞こえない。
悪魔に打ち勝ったのだという気は、微塵もしなかった。ただ、今にも破裂しそうだった破壊衝動が
(家に、戻らなきゃ)
そう思うのに、頭が回らなくて、体にも力が入らなかった。情けなさに涙が出そうなのに、目も口も乾いて一声も上げられない。今にも
まるで首を切られてただ
(……もしかしたら)
この体に染み付いたと思った臭いは、自分から滲み出ていたのではないか。その臭いを誤魔化すために、毎夜母の枕辺に逃げていたのではないか、と。
(有り得ないことじゃ、ないな)
諦念気味の自嘲が零れた。
母の死に気付いた時、真っ先に脳裏を過ぎったのは確かに弟妹たちのことだった。
言わなければ。守らなければ。
けれどそれを追いかけるように思考を埋め尽くしたことが本心でないと、どうして言えるだろう。
(いやだ……怖い)
母がいなくなれば、次に全ての責任を負うのは誰だ。
家族を守り、時に糾弾され、石を投げられ、後ろ指を指されるその矢面に立って死ぬまで戦わなければならないのは、誰だ。
(私……私が……)
自分しかいない。弟妹はまだ幼い。やらなければならない。分かっている。
だがそうなればもう、僅かな失点も、甘えることも、許される隙さえもなくなる。
そう考えると、無性に恐ろしくなった。同時に同じ姉弟なのにと、嫉妬にも似た我が儘さえ湧き上がった。
(私だって、まだ子供なのに……!)
もっと、大人だと思っていた。もっと強くて、思慮深く、高潔な人間だとさえ思っていたのに。
(いやだ……もう、やだ……っ)
涙も出ない両目を、ぎゅっと強く瞑る。また無意識に二の腕を擦る。
(……?)
指先に違和を感じて、目を開けた。
薄雲に隔てられた月明かりに、薄汚れた肌が浮かぶ。
触れていた腕の皮膚が、どろりと黒く腐り落ちた。
「 ッ!」
違う、指の影だ。と気付いても、早鐘を打つ心臓は苛むように鳴り止まなかった。ついには草の上に膝をつき、浅い呼吸を繰り返す胸を無理やり押さえつける。
『名前を、教えてくれないか?』
不意に、声が脳裏に蘇った。
(あれも、悪魔の声だったのかな)
もしそうだったなら、答えなかったことは正解だ。
けれど、もしそうでなかったのなら。
(名前、呼んでほしかったな……)
父も母もいない今、誰も呼ぶことのなくなった、たった一つの名前。
この名前もまた、きっと遠からず腐り、消え果る。
◆
それから、一週間ほどが経った。
その間、シュヴァルムは彼女を見かけなかった。より正確に言えば、視界に入れないように努めた。
麦などはどこも刈り入れを終えている。市場と彼女の家に近付かなければ、会うことはなかった。
シュヴァルムは慣れない手伝いに没頭することで、何とか自身の思考を制御しようと努めた。成功の兆しは、まだない。
「…………」
ふと気が緩むと、シュヴァルムは空を眺めることが増えた。
他にも、忙しく立ち働く家族や小作人、その向こうの道を肩を落として歩く
(……また、何か理不尽な理由で仕事を追われでもしたのかな)
自然と、そんな懸念が生まれては心の片隅に降り積もっていく。
雲の行き先と同じように、そんなこと、今まで気にしたこともなかったのに。
(どんだけ、見えてなかったんだよ)
シュヴァルムは、今までと同じ場所にいる。周囲は何も変わっていない。
見えるものが変わったのは、彼女を
(今、何してるのかな)
小さな弟妹たちを食わせるために、今日も昼夜問わず、がむしゃらに働いているのだろうか。
(……あれ?)
ふと、小さな
あれは確か数日前、落ち穂を拾う彼女に麦の一束を突き出した時のこと。
『うちには空腹に泣くのを堪えて待っている幼い弟妹が、五人もいるのだもの』
彼女はそう言った。けれど、母親のことは一言も触れなかった。
噂好きのおばさん連中が言うには、確か父親が死んで以来ずっと臥せっていて、栄養不足が原因だろうとかなんとか。それが事実なら、彼女は母親にも栄養のあるものを食べさたいと言うのではないだろうか。
けれど、言わなかった。
(……どういう、ことだ?)
一つ先を考える。
彼女と出会ってから、そういうことが増えた。深く考えるということが苦手だったシュヴァルムには、それはとても頭を使うことだった。そして時折、ひやりと背筋が冷えることがある。
理由は分からない。ただ、更にその先を考えるのを、少し躊躇うのだ。きっと、良くない
(でも、これは……きっと考えなきゃいけないことだ)
そしてその答えは、最も残酷な方法で白日の下に晒されることとなった。
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