第五話 悪魔の囁き
遠く、麦畑の向こうに我が家が見え出した頃、雨は降り出した。
この時にはツェーレにも先程の雫が何だったのか理解していたが、既に考えるのを放棄していた。代わりに服の下まで雨に濡れそぼち、傷と掠れた血の跡をごしごしとこすって消した。
それから、言い訳を考えた。
肉と豆は、紙袋こそ破れていたが、中身は無事だった。けれどどちらも砂に汚れてしまい、雨でも完全には綺麗にならなかった。食事を作ってくれるリートには、少なからず事情を話さなければならないだろう。
(帰りたく、ないな……)
家に帰るのが嫌だと思ったのは、二度目だった。一度目は、母が死んだ翌日。母の死を受け入れられなくて、弟妹の顔を見るのが怖くて、家に帰れなかった。
それまでは、家に帰ることが唯一の安らぎだったのに。
(隠し事を、しているから?)
あまりに自明で、自嘲の笑みがこぼれた。何時間かぶりに、顔の筋肉が動いた気がした。けれど今日ばかりは、魔法の言葉を言うことはできなかった。
◆
家族には、工場の支払いが遅れていることと、スリに遭って給金を少し奪われたと説明した。スリは追いかけて乱闘になったが、隙をついて逃げられたと話すと、双子のレーレとキュールは自由に話を広げていった。
結局スリは、
こういう時、どんな詰まらない出来事にも大きな空想の翼を与えて希望で満たしてしまう双子たちには、心底救われる。
久しぶりの栄養ある食事と、変化に富んだ話題。いまだに空想の空を飛び回る双子をハーゼがガミガミと叱り飛ばす声を聞きながら、みんな一緒に薄っぺらな布団にくるまって眠る。
何の過不足もない、一日の終わり。
けれど、涙が出そうだった。
(頬が痛い)
無理やり笑ったつもりはなかった。けれど、じんじんと痛い。
(心が、痛い……)
毎晩そうするように、ツェーレは弟妹たちが寝静まるのを待ってから、寝床を抜け出した。けれど今夜ばかりは母の寝室へ行く気にはなれず、戸外に出た。
雨はいつの間にか霧雨に変わっていた。少し肌寒い。見上げる空が黒い。
星を飲み込んだ雨雲は、どんよりと落ちてくるような錯覚さえツェーレに与えた。ずっと見上げていると、圧迫感に息が苦しくなってくる。
そう感じるのは、ツェーレが罪を抱え、いまだ隠しているからだろうか。
(……みんなに、言わなきゃ)
もう一週間以上経っている。臭いは、周りに放牧されている鶏や豚のおかげで家の外まで漏れても分からないだろうが、弟妹たちはさすがに訝しむだろう。
(神様は?)
今まで、神も悪魔も信じてなどいなかった。教会に入ることは村の人たちが嫌がったし、説教を聞いている時間も惜しかった。
けれど今は、疚しさからか、いつ何時でも見られているような気がしてならなかった。誰もがツェーレの罪を知っているように思えた。
「……汚い」
生前と同じように母の体を手拭いで清めているつもりなのに、今は気付けば手や腕を執拗なまでに擦る癖がついた。そんなことで染み付いた臭いは取れないと、分かっているのに。
「私、汚いな……」
ごしごしとむき出しの二の腕を擦りながら、呟く。今はまだ隠そうと決めたのは自分なのに、たった数日で押し潰されそうになっている。自分の弱さが心底嫌だった。
「……も、やだ……」
擦っても擦っても、臭いは取れない。瞳に涙の膜がある気がする。けれどもう泣きたくなくて、ツェーレは両手で視界を塞ぐ――寸前。
「…………月灯り?」
か細い光が一条、視界の端を掠めた。
今日は雨夜だ。月が見えるはずがない。
「どこから……」
見上げれば、頭上からは遥か遠い空の雲間から、たった一本の光芒が夜を切り裂くように降りていた。その薄明は、地上までは届かない。けれど庭に出しっぱなしの道具が、その薄明を受けて存在を浮き立たせていた。もっぱらハーゼしか使っていない、薪割り用の斧だ。
《――壊せばいい》
誰かの囁きが、聞こえた気がした。
◆
止んでいた雨が再び降り出した気がして、シュヴァルムは目を開けた。
(眠れない……)
布団をかぶっても目を閉じても、今日の出来事が繰り返し頭の中を巡って、興奮と後悔が落とせない血のようにこびりついていた。
親の手伝いを久しぶりに途中で放り出し、市場までそぞろ歩いたこと。無意識のうちに彼女の姿を探して、そして偶然見つけたこと。発作的に追いかけようとして、躊躇って、結局追いかけて、後悔したこと。
(あの時、追いかけていれば……!)
厚い雨雲が太陽を遮りだした頃、ぼろきれのように路地裏に倒れていた彼女を見つけて、シュヴァルムは言いようのない恐怖に足を竦ませた。
そして目を覚ました彼女の慟哭を聞き、激しく後悔した。
何の罪悪感もなく痛めつけられた体。奪われたらしい財産。罵るというよりも呪うような絶叫。
(何で……俺はいつも間違うんだよ)
最初にシュヴァルムが声をかけていれば、彼女は物盗りになど遭わなかったかもしれない。だがきっと、シュヴァルムがいつものように追い払われた後、同じ目に遭っただろう。
シュヴァルムが彼女を見付けたのは、路地から見知った少年たちが出てくるのを見たからなのだ。
今までもよくつるんでいた近所の悪ガキたちが、何を目的に彼女に近付いたのか。その思考を読むことは、悲しいほどに容易だった。
(どうせ、憂さ晴らしだろ)
親に手伝えと怒られたか、上手くいかないことがあったか、きっとその程度だ。
(浮浪民が金を持ってるなんて)
どうせ盗んだ金だとか理不尽なことを言って、奪ったのだ。遊ぶ金が欲しいというだけで。
(彼女が、彼女だったから)
親の代にこの村に定住し、いまだ市民権を持たない彼女の一家は、どんなに勤勉に、懸命に働いても、蔑まれる。自分たちのおこぼれでしか生きていけない最下層の、何の権利も持たない者たちだと。
(知ってる……嫌になるほど、分かる)
どれもつい幾日か前の自分が、考えもせず体現していたことだから、手に取るように分かる。
彼女を意識する前のシュヴァルムが、あの状況に出くわしたらどうするか。
気分が良ければ、浮浪民のガキだから当然だと、何も感じず素通りする程度だろう。気分が悪ければ、混ざっていたかもしれない。彼女を痛めつける側に。
そんな自分を、反吐が出るほど簡単に想像できた。
『毎日私の近くに来てたのはそのためでしょ』
違う。そんなつもりじゃなかった。
けれど。
『みんな私たちの不幸を待ち望んでるのよ!』
数日前のシュヴァルムは、或いはそうだったのかもしれない。明確な理由など、一度も考えたことがなくとも。
だから、彼女の怒りは、決して的外れなどではないのだ。
(それでよく、彼女を……)
己の愚昧が恥ずかしかった。空恐ろしかった。
「…………ッ」
堪らず、シュヴァルムは飛び起きた。
(やめだヤメヤメ!)
寝られないのなら、じっとしているのは身体に悪いだけだ。
シュヴァルムは乱暴に上着を羽織ると、無心になることだけを考えてずんずんと部屋を後にした。
家の周りを一周して頭を冷やそうと思った。けれど霧雨の向こうに遠く月影が見えた気がして、シュヴァルムは少し足を伸ばすことにした。
そうは言っても、こんな時間にふらりと赴く場所など限られている。
気付けば、彼女の家がある場所まで歩いてきていた。
(……家を知っているのは、失敗だったかもな)
小屋のような家が見えて、やっと我に返った。冷静に今の自分を客観視する。
こんな深夜に、彼女の家の周りをうろついている姿を誰かに見られたら。
(……いや、その前に)
彼女本人に見つかりでもしたら。
(絶対誤解される!)
夕方に泣いていたのが心配だったから、と言っても、彼女は絶対に信じないだろう。殴り足りなかったのか、くらい言われるかもしれない。
今すぐ引き返した方がいい。
頭では分かっているのに、足は意に反して動かなかった。
自分で自分が分からない。
こんなことも、初めてだった。
(彼女を……俺は、どうしたいんだよ)
こんな時間にこんな場所まで来て、一体何がしたいのか。
見たいのか、触れたいのか、親しくなりたいのか。
それともただ、未知なるものへの好奇心か。
(友達って、どうやってなったっけ?)
自分の周りにいる連中のことを思い返してみる。
始まりは、農作業の手伝いだったか、ただ放っておかれたのだったか。とにかく、畑の中だった覚えはある。そしてそれは、少なからず似た環境にいたからこそだと、十四歳の頭でも漠然と推察できた。
つまるところ自分から垣根を越えて動いたことは一度もなく、彼女に対して手をこまねいて不器用なことばかりするのも、そのせいなのではないか。
(俺って、こんなに何にも出来ない奴なんだっけ……?)
気付きたくないことにまた気付いてしまった気がして、溜息が出た。
その時、ふと視界が明るくなった気がして、俯いていた顔を上げた。
彼女の家が近付いたから、世界までほんのり輝き出したのか。
一瞬、本気でそんな思考が頭を過ぎった。
(……月灯り?)
その勘違いは、世界の境目を黒く塗り潰すように広がっていた雲から零れる、一条の光を見つけることで正された。けれどその光が薄れつつ降り注ぐ先を見た時、シュヴァルムはじりり、と焦げるような確信をもって思ったのだ。
まるで彼女のもとへと導くかのようだ、と。
光の先――家とも呼べない小さな、あちこち剥落した建物の外に、人の姿が……彼女がいたから。
「あ……」
声が零れ、三歩、四歩と足が動いた。けれどその先が声にならなかったのは、理性ゆえか、臆病ゆえか。
しかしその人影が目元を拭うような仕草をした気がして、僅かな躊躇いはすぐに吹き飛んだ。
逸る鼓動を抑えて、歩く。
人影の
その前に、シュヴァルムは少し焦って声をかけた。
「なぁ」
「!」
光に触れた途端彼女が消えてしまうような気がしたのだが、そもそも何を話すかを考えていなかった。
彼女が驚いたようにシュヴァルムを振り返ったが、闇夜でも美しい翠眼に見詰められて、ますます言葉は出てこなくなった。
だが、悩む必要はなかった。先に奇声が上がったからだ。
「な、なな何でここにいるの!?」
「どうし……あ?」
一瞬、誰の声か判らなかった。それ程に、その反応は普段の彼女からは想像も出来ない動揺ぶりだった。
(まさか……顔、赤い?)
翠眼の下の、僅かな月光に照る頬が、ほんのり赤いように見える。
(俺が突然声をかけたから?)
月すら寝静まった深夜に闇の中から声をかけられたら、誰だって驚く。教会でも、夜は悪魔の声が大きくなるから注意しろと言われたことがある。
いつもはそこら辺の大人よりも達観したような彼女が、そんな迷信を信じているとも思えないけれど。
(何でもいいけど、貴重なの見た……)
滅多に拝めない表情を見た特別感を存分に噛みしめる。その間も、シュヴァルムの頬にはずっと不審者を詰るような視線が突き刺さっていた。
「だから、何で、ここにいるの」
今度は、しっかりと言葉を区切って詰問された。そういえば先程も同じことを聞かれた気がすると、やっと思い出す。
が、そもそも理由があって来たわけではない。結局、いつもと変わらない歯切れの悪い回答になった。
「いや、別に……何も」
「何も!?」
甲高い声で繰り返された。益々怒らせた気がする。
今までだったら、その勢いに気圧されたことを誤魔化すため、どんどん語尾が荒くなるのだが。
(よく見えない、からかな)
細い月明かりが、シュヴァルムの不体裁を代わりに隠してくれているような気がして、何となく力みがなかった。
睨む彼女を見返したまま、気負わず事実をそのまま口にする。
「うん。色々考えてたら、眠れなくて」
お前のことを、とまでは、さすがに言えなかったけれど。
ただ、そっと寄り添うように彼女に降る月光が、陽光の下では何故か素直になれないシュヴァルムを
(……かわいい)
その年相応な肩の細さや、形の良い耳や、頼りなげな眉を、ずっと眺めることが出来た。
だから、次に起きたことは、誓って悪意や下心あってのことではないと主張したい。
例えば、自滅すると分かっているくせに光りに
「ッ触らないで!」
悲鳴のような拒絶が、いつの間にか彼女に触れようとしていたシュヴァルムの右手を弾き返した。
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