第四話 傷む心

 意味が分からなかった。

 何故あの少年は毎日自分の前に現れるのか。何が目的なのか。無駄に沈黙を長引かせて食い下がる時もあれば、聞き取れない捨て台詞を吐いて逃げていく時もある。

 何がしたいのか、さっぱり分からない。

 でも今日ばかりは、そこまで嫌だとも思わなかった。

 何故なら。


(明日は週末! 給料日!)


 日雇いの仕事とは別に、ツェーレは毛織物業の下働きにも出ていた。

 先週は家賃と買い物の支払いのツケと、風邪を拾ってきたブルーメの為に蜜たっぷりの薬酒を買ったことで、手元には少ししか残らなかった。

 今週は、帰りに市場で新鮮な肉と栄養たっぷりの豆を買おう。それでリートに具沢山の粥を作ってもらうのだ。それでも半分は残るから、もうすぐやってくるレーレとキュールの誕生日のお祝いのために貯めておくのだ。

 父が、姉弟の誕生日のたびにそうしてくれたように。


(早く明日になれ)


 いつもは憂鬱な夕焼けが、今日ばかりは待ち遠しかった。


(お金があるって素晴らしい。具のあるスープって、なんて魅力的な響きなの)


 表情はいつも通り険しかったけど、それでも心は浮かれていた。だから、目的も分からない少年の問答に、今日くらいはまともに答えてもいいかという気分になった。

 もしかしたら、この少年は他の連中と違うかもしれない。

 そんな期待を、抱いたわけではないけれど。

 けれど結局返されたのは嫌味なのか文句なのか分からないものだったし、反射的に返した言葉もまた皮肉と侮蔑を混ぜた汚いものだった。


(……別に、後悔なんてしないわ)


 向こうがこちらを疎んじるのなら、同じように返して悪いはずがない。

 そう、自分を納得させる。


(やっぱり、相手をするんじゃなかった)


 けれど後悔は、翌日に更に大きなものとなってツェーレを打ちのめした。




「……ふふっ」

 じゃらり、と鳴る小さな麻袋を両手で大事に抱き隠しながら、ツェーレは無意識のうちに笑みを零した。

 今日は無事給料も貰え、煩い悪餓鬼たちにも絡まれなかった。空は曇天だったけど、雨が降り出す前に狙い通り美味しそうな肉と豆も買えた。

 何もかもが順調だった。

 そこに、背後から人の近付く気配があった。


(またあいつ? まったく、しつこいんだから)


 ツェーレは嘆息した。でも、あの少年が最近手を出してきたことはないなとも思う。今日も何もしないのなら、少しくらい話し相手になってもいい。

 でもやっぱり、早く弟妹のもとに帰りたいなと微笑んだ。


「っ!?」


 その背に、息が詰まるような重い衝撃が走った。




「――…い。おいっ、しっかりしろ!」


 強く肩を揺さぶられる振動で、ツェーレは正気付いた。


「……ぁ、…」


 ぼんやりと薄目を開けると、声ともいえない掠れた空気が口から漏れた。

 その後も何度か景色が揺れ、徐々に意識がはっきりしだした。

 目の前に、二つの青空があった。


(……違う。奇麗な、碧眼)


 いつもの少年だ。名前も知らない、地主の息子。互いの鼻が触れ合うくらい、ツェーレの顔を覗き込んでいる。

 何故、と考えた時、左頬と背中に鋭い痛みが走った。


「ッ」

「大丈夫か?」


 顔をしかめると、少年が分かりやすく動揺した。

 それを無視して、ツェーレはまだ痛む頭でどうにか周囲を見渡した。すぐ傍に、薄汚れた壁がある。狭い路地だ。ツェーレが浮かれて歩いていた大通りは、路地の途切れた向こう、十数歩向こうにある。


(やられた……)


 ツェーレは、何もかも思い出した。

 帰路についていたツェーレの背中を、誰かに蹴られたのだ。それで転んだところを、別の誰かに引きずられて路地に連れ込まれた。

 顔を上げれば、覚えのある顔が三つあった。年はツェーレよりも上だろうが、知能は絶対にブルーメ以下の、いつもの馬鹿たちだった。

 いつも自分たちの安全な領域からは出ずに、憂さ晴らしのためだけに自分よりも下の者たちに石を投げ、低劣な言葉で攻撃するくらいが関の山の、小物だったのに。

 どうやら、虫の居所でも悪かったらしい。あるいは、今日ツェーレが金を持っていることを知っていたのかもしれない。

 そう考えて、最悪の結果に気付いた。


「……!」


 バッと、僅かに痺れる右手を左腹に当てる。――ない。

 給料が、麻袋ごとなくなっている。双子たちの、誕生日の祝いを買うためのお金が。


(殺してやれば良かった……!)


 意識が途切れる寸前の光景がまざまざと思い出され、ツェーレは血の味がするほど歯噛みした。

 連中の顔を見た時、またかと思った。少し殴らせておけば、すぐ飽きるだろうと思った。ここで歯向かって、こいつらの畑に入れなくなる方が問題だ。

 耐えることには、慣れるしかないと知っている。

 耐えていれば終わる。慣れれば平気になる。

 けれど、死ぬまで耐えるしか選択肢がないというなら、その生に果たして意味はあると言えるだろうか。

 けれどそんな疑問は、思索する、という贅沢ぜいたくを許された者にしか訪れない。よしんば気付いてしまったとしても、答えを得るまでの長い道のりを歩く権利を許されることはまずない。

 神への祈りはただの作業で、そこに哲学的な沈潜ちんせんなどあるはずもない。己が迷える子羊だと知らされても、救いはない。

 ツェーレの羊飼いは、こんな連中なのだから。


 けれど、気を失ったのはまずかった。

 少し殴らせておけばすぐに飽きるだろうと、されるままにしていた間、無意識に懐を庇ってしまった。それに気付かれてから、事態は悪化した。

 伸びてきた手を振り払い、奪われてからは死に際の獣が喰らい付くように抗った。連中は、口汚くツェーレを罵りながら、遂に気絶するまで殴りつけた。

 それでもなお躊躇があった自分をこそ、ツェーレは殴りつけたいと思った。


(なんで、殴り返さなかったのよ! なんで、あんな奴ら……!)


 どちらが悪かなど、分かりきったことだった。目撃していたはずの大人が誰も止めにも、助けにも入らなくとも、絶対に連中の方が悪だった。

 あんな思い上がった連中は顔が変わるまで殴りつけて、汚らしく命乞いをするまで追い込んでやれば良かったのだ。そうすれば金も盗られず、溜飲も下げることができたのに。

 一瞬。ほんの一瞬、こいつらを殺して金を取り返して、何事もなかった顔をして帰って、弟妹たちと変わらず笑って過ごしていけばいいと、本気で思った。


「……ッ」

「おっ、おい!? なんで泣……っ?」


 でも、出来なかった。

 そんなことをすれば、次の夜明けを待たずツェーレは教会に引き立てられるだろう。罪人として、二度とあの家に――家族の元に帰れなくなる。

 それに、これ以上家族に隠し事を作りたくなかった。偽物の笑顔は、もう沢山だ。

 何よりこれ以上自分を貶めれば、もう二度と母の膝元で泣くなんてことは出来なくなる。それを赦せば、また一つ、自分が傷んでしまう。それこそ、下り坂を転がり落ちるように。


「――これで、満足なの……」


 ぽとり、ぽとり、と。いつの間にか降り出した雨が、ツェーレの傷だらけの膝を濡らす。


(雨……ちょうどいい)


 今の自分は、とても平静ではいられない。全てを押し流すような土砂降りが、頭も身体も冷やしきってくれればいいと思った。

 けれど雨脚は、一向に強くならなかった。ただゆっくりと、ツェーレの頬と膝ばかりを静かに濡らし続けた。

 だから、抑えられなかった。


「良かったわね。お望みの惨めな姿が見られて」


 いまだしつこくツェーレの隣で膝をついていた少年に、掠れた声で低く呟く。

 あの三人の中にこの男はいなかったけれど、一緒に行動していたところは何度か見ている。


「は、ぁ? おま、なに」

「毎日私の近くに来てたのはそのためでしょ」

「ちがっ、俺は」

「違わない!」


 戸惑い、それでも口を挟もうとする相手を遮って、ツェーレは叫んだ。


「みんな……みんな私たちの不幸を待ち望んでるのよ! それで自分たちはまだマシな方なんだって慰めてる。落ち穂を拾わせてくれるのだって、本当はそういう風に見てるからだって、知ってるんだから!」


 叩きつけるように叫べば、体中が痛んだ。

 肌はひりひりと、骨はめきめきと。心は、わぁわぁと。

 叫ぶことが自らをさいなんでいると分かっていたけれど、止められなかった。小さな子供のように目を閉じて耳を塞いで、癇癪のように叫んだ。


(聞きたくない。見たくない。知りたくない……!)


 最悪に惨めな気分だった。

 今まで、父や母がささやかながら欠かさず祝ってくれていた弟妹たちの誕生日を、単純に喜んでいた。当たり前だと思っていたそんなことさえ、ツェーレには同じようにできない。その事実こそがツェーレを打ちのめした。

 両親が苦労しているのは知っていた。けれど本当の大変さなど、子供のツェーレは少しも理解してはいなかったのだ。


(消えろ)


 止みも強くもならない大粒の雫を感じながら、ツェーレは呪った。何度も、何度も。

 効果があったのか、隣にあった邪魔をする声はいつの間にか聞こえなくなっていた。それでいい。

 その言葉が本当は誰に向けられたものなのか、ツェーレ自身、よく理解しながら。

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