第四話 見えない愛

 初め、それは男の指から放たれた何らかの攻撃かと思った。

 しかし、いくら待っても肉体に痛みはやってこなかった。

 代わりに脳裏に、幾つもの見たことがない映像が矢のように走った。

 ゴミと糞尿でくすんだ路地裏。体当たりして奪った財布。走って逃げる荒い息遣い。顔を見た途端投げ付けられる石礫いしつぶて


 これは、記憶?

 だが俺は、こんなものは知らない。

 映像はどんどん切り替わる。


『ハァ……ハァ……ハァ……ッ』


 その記憶の中で、俺は血みどろの傷だらけになりながら、鬱蒼とした山道を走っていた。下草に足をとらめて転ぶたびに、腕で腹を庇いながら、何度でも立ち上がって、ひたすらに人気のない山奥を目指す。


『助けてやろうか? その代わり、二度と離れられないがな』


 聞いたような声が、どこからともなく呼びかける。

 その声を、記憶の中の俺はずっと昔――子供の頃から知っているようだった。

 声が、耳元に直接囁く。


『そのままでは、早晩死んでしまうぞ?』

『死ぬもんか! あたしは、絶対死なない……!』


 俺の口が、俺のものではない声で勝手にそう叫ぶ。その声もまた、俺は知っている、と思った。

 誰の、と考えた時には、また映像が切り替わっていた。


『あぁぁあああぁぁぁっっ……!』


 耳をつんざくような絶叫と、感じるはずのない激痛、滝のように流れ続ける汗。汗と尿の臭いに、徐々に混ざり始める血の臭い。

 夢のようなもののはずなのに、俺は慄いた。

 何か、尋常でない恐ろしいことが起きている。

 そして次の瞬き一つ。

 俺の両手は小刻みに震え、その上には、血塗れの肉塊……生み落とされたばかりの赤子がいた。


『ぁ、ぁ……ぁあああぁぁ……』


 産湯うぶゆもおくるみも差し出す者のない、たった独りのお産。全身が裂けるかと思うような痛みが尾を引く中、産後の処置も全て一人で行った。喘鳴とともに口から零れ出たのは、それでも確かに歓喜の声だった。

 けれど俺は、その泉のように込み上げるよろこびをまるで理解できない。理解できないのに、この瞬間のためだけに生まれ、浅ましくも生き続けてきたのだと、記憶の中の俺は、確信していた。


 映像が、また切り替わる。

 その後の映像には、何故か全て黒い靄がかかっていた。

 廃墟のような山小屋、手作りのような机に椅子、見覚えのある食器、不気味な梢の音に紛れて聞こえる、赤子の泣き声……黒い靄が何なのかは分からなかったが、それ以外の全てに、心当たりがあった。

 家だ。母と暮らした、あの山の中のおんぼろ家。


 やっぱり、これは母親の記憶なのか?


 薄々気付き始めていたことが、確信に変わる。

 けれどならば、どうしてもせないことが一つあった。


『ふ……ふふ……』


 何故母は、ほとんど泣くか寝ているだけの赤子を見て、嬉しそうに笑っているのだろうか。まるで睫毛の数でも数えているのかと思う程何時間も眺め続けている。そのくせ、授乳の時以外には頑なに抱こうとしない。赤ん坊がぎゃあぎゃあ泣いていても、何度も手を伸ばしては引っ込めを繰り返し、最後に意を決したように抱き上げる。すると同時に、黒い靄が視界を埋める。

 そういうのを見ると、やはり母なのだと思う。嫌なら抱かなければいいのに。放っておけば、赤ん坊なんか勝手に死ぬのに。


『坊や。あたしの坊や』


 名前も付けず、ただ眺めるだけの赤ん坊なんか、産んでどうしたかったというのだ。何故そんなにも愛おしそうに呼ぶのだ。何故こんなにも苦しいのだ。何故いつも、名残惜しそうに手を放すのだ。

 抱いていたいのなら、ずっと抱いていてくれればいいのに。いつも邪魔するように現れる黒い靄なんか、無視して。


『もう、いや……』


 映像が切り替わるたびに、時間が進む。


『もう、これ以上は、我慢しなきゃ……』


 時間が進むたびに、子供が視界に現れる時間はどんどん短くなる。


『はやく……早く、全部教えなきゃ……』


 代わりに、急き立てられるような焦燥感が日増しに強くなった。


『手を繋ぐのが、夢だったのに……ッ』


 血を吐くように、独り泣いている。実際、産後の処置も肥立ちも悪かったのか、母は子供のいない所で度々倒れ、血を吐いた。けれども子供の前では、そんな様子は豪も見せなかった。


『早く、一人で全て出来るように……』


 映像が切り替わる。水面に映る母の表情は、日に日に俺の知るものになっていった。


『もう少し、あと少し……』


 硬い表情で、そう呟く。火の起こし方、野菜の育て方、金の数え方、生きていくために必要な家事の一切。一刻も早く自立できるようにと、憎しみさえ込めて祈る。

 けれど泣き声が聞こえれば、一目散に駆け付けた。部屋の隅で縮こまる小さな背中を見付けて、すぐに部屋に入ろうとして、慌てて手作りの鞭を探す。

 手ではれない。もう、触らなくても、大抵のことは済ませられる。

 抱きしめること以外は。


『やられたらやり返せ』

『死にたくないなら反撃しろ』

『いつまでも泣いたまま飽きめるな』


 泣き寝入りするようでは、町に降りてはやっていけない。生きていけない。すぐに騙されて、襤褸雑巾のように打ち捨てられるだけだ。路地裏では、諦めた奴から死んでいく。

 自立するために必要なことは全て教えた。あとは、生きていく力だけだけあればいい。

 けれど、子供は一向に歯向かってこなかった。身を丸めて鞭をやり過ごし、やり過ぎれば泣きながら気絶する時さえあった。

 その時の後悔は、胸が潰れるようだった。


『ぁ、あぁ……』


 汚い床に倒れてなお小さい体を、泣きながら抱き上げる。何枚も何枚も毛布をかけても、やはり黒い靄は零れ続けた。一つ二つと雫が落ちれば、黒い靄は益々溢れた。


『どうして、あたしのだけじゃないの……。何で、この子まで……』


 その度に、どこにも見えないのに、常にそばにいる気配に向かって、暴れ狂った。その声に驚いて子供が泣き出せば慌ててあやし、また黒い靄が互いの体から溢れ始める。際限のない負の連鎖だった。

 憎い。憎い。けれど、諦めるしかない。諦めて、寝入るのを見届けて、頬を撫でることもできず、寝台を離れる。

 寝顔を遠くから眺めて、呪文のように繰り返す。


『もう少し、あと少しだけ……』


 この子が一人で立つまで。一人で歩くまで。今までも、何度もそう言い聞かせてきた。歩き出せば、今度は一人でご飯を食べられるまで、一人で寝起きできるまで……言い訳は、子供の新しい一面を発見する度に湧いて出た。

 そして堪えきれずに抱きしめる度に、あの黒い靄が互いの体から零れ出た。それを見る度にまた、言い知れぬ怒りが、どこかにいるはずの“何か”に向けられるのだ。


『別に構わないだろう。好きなだけ世話を焼いて、好きなだけ抱きしめてやれよ』


 影のように纏わりつくその“何か”が、伸ばした手を堪えて握りしめる度にそう囁く。慈愛に溢れるようなその言いようが苛立たしくて、また怒鳴り返す。


『お前の呪いのせいじゃないか!』

『私は契約者のお前にきちんと説明したぞ? 愛に触れる度に寿命が零れ落ちる、とな』

『あたしの寿命だけのはずだろう!』

『そんなことは言った覚えはないぞ?』


 裂けた口を更に広げて、“何か”が笑う。思惑通りだとでも言うように。


『子供の寿命も零れるのならば、それは子供もまた愛に触れているということだ。喜ばしいことではないか?』

『ふざけるな! あたしは愛なんて……! あの子に、愛してもらいたい、なんて……』

『あの晩、死にたくないと言ったのはお前だろう?』

『!』

『初めてお前を愛した男を救ってやろうと言った時も、愛した男を殺した貴族を殺してやろうと言った時も、処刑されそうになった時も、懲りずに私の手を拒んだくせに』

『あたしは、でも……』

『死にたくないのは、何故だ?』


 “何か”が、優しく問いかける。答えはもう、嫌になるほど思い知っていた。


『私は願いを叶えてやっただけだ。その代わりに私の望みを聞いてもらうことは、公平な取引には当たり前だと思うがな』


 また、怒りが沸き上がる。際限ない憎悪が、腸が煮えくり返る。そしてその憎悪を、俺は知っていた。


 同じだ。子供の頃、常に母から向けられていたものと。


 泣いた時に、失敗して手を切った時に、一人で震えている時に、寂しくて夜目が覚めてしまった時に。いつも母が俺を見る目に宿っていた怒り――俺に向けられていると思い込んでいた怒り、だった。


 ついに俺は、理解せざるを得なかった。

 母の身に起きたことまでは分からないが、母は瀕死の時に“何か”の提案を受け入れた。そして生き延びる代わりに、呪いを受けた。

 触れると、寿命を奪う呪い。

 何の目的かも、どんな意味があるかも分からない。けれどその呪いは、確実に母子の寿命を奪っていった。黒い靄となって、体の外へと。

 だから母は、俺に触らなかった。俺を殴る時でさえ。触らないために、何度でも言葉と暴力で遠ざけた。そうしなければ、子供なんてものは懲りもせず無邪気に駆け寄ってくるから。


『かっか』


 母の記憶の中で、しょっちゅうすっ転ぶ小さな俺が、舌足らずな声で呼ぶ。その時に込み上げた感情のあまりの強さに、目が眩んで胸が高鳴った。


 大好き。大好き。大好き。大好き。

 可愛いあたしの坊や。ずっとずっと大好き。

 抱きしめたいのに、ごめんね。ごめんね。

 ずっとずっと、あなたには長生きしてほしいの。

 親なんか、すぐいなくなるから。

 すぐに、もっと大好きな誰かに会えるから。

 あなたを真っ直ぐに愛してくれる、大切な誰かに。


『あぁ……』


 最後に。これが最後だからと、手を伸ばす。

 純粋な眼差しで、真っ直ぐに見つめてくれることも、すぐになくなる。だからこの時を、一瞬一瞬を、宝物のように大切に胸にしまおう。

 死ぬまで――死んでも、決して開けない宝箱。

 それさえあれば、どんな非道も悪業も、笑って背負えるわ――

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