第三話 愛してるの価値

 男の言葉に、俺は耳を疑った。


「――――は?」


 まるで、異国の言葉を聞かされたような気分だ。

 だが男は、あくまでも本気のようだった。木彫りの面のように変化のない笑みで、機嫌よく畳みかける。


「お前、あの女を殺しに行くつもりだったのだろう? ならば簡単さ。一言そう言えばいいだけだ」

「はあっ? い、意味が分からない。そんなふざけた言葉、誰が言うものか」


 俺は怖気すら感じて拒絶した。


『愛してる』


 その単語は、この場からは最も遠いものの一つだった。愛など、母との間に一度たりとて存在したことはない。

 だが男は、どこにそこまでの確信があるのか不気味になるほどに、同じ形の顔で笑い続けた。


「信じていないのか? 気持ちなどこもっていなくていい。言ってみろ。これを逃せば、二度と機会はやってこないかもしれないぞ?」


 ほら、と男が執拗に促す。だが俺はというと、いまだに状況を呑み込めていなかった。

 母がここにいる理由もまだ納得できていないのに、何故空虚な言葉を口にしなければならないのか。その言葉を口にすれば、母がたちまち死ぬとでも?

 とても正気とは思えない。だがこれが全くの妄言であれば、母があそこまで色を失くして止める理由が分からない。

 気持ちのない言葉に、一体何が出来るというのか。


「そんな、言葉に……何の価値もない。そんな言葉、反吐が出るね」


 俺の心中を盗み見たように、母が息も絶え絶えにそう言った。道に蹲ったまま、穴だらけの外套の上から二の腕をさする。その様がまるで鳥肌を宥めるようで、あぁ、やはりか……と今更ながらに思い知った。

 こんな女に愛などと、あまりに乖離かいりし過ぎている。母の一挙手一投足に怯え、縮こまり、愛などないのだと何度も言い聞かせて。俺だけが、いつまでも拘って、振り回されている。

 下らない。実に、下らない。


「では言えるだろう」


 と、男が実に理に適ったことを言った。


「価値のない言葉など、口にするのは簡単なはずだ」


 その通りだった。

 先ほど俺が言えなかったのは、認めたくないながら無自覚にも期待していたからだ。そんな期待など、とっとと地獄の釜にでも放り込んで煮詰めて焦げつかしてしまえば良かったのに。

 後生大事に、夢にまで見てしまうような偶像などをしつこく握り締めていたから、こんな目に遭うのだ。


「言ってしまえ」


 男がなおも囁いた。

 それは母に向けた言葉であったが、同時に俺への投げかけでもあった。

 言ってしまえ。楽になるぞ、と。

 それでも、母はもう口を真一文字に引き結んで、それ以上どちらの言葉も発しはしなかった。

 その瞬間、俺の中で何かが消えた。

 だから代わりに、俺が母へと近付いた。腰の剣に手をかけながら。


「近寄るな」


 母が、唾を散らして叫んだ。だが構わず、蹲ったままの母の前に屹立きつりつする。初めて母を見下した。こんなにも近い距離で母の目を見るなど、家を出る前には恐ろしくて決して出来なかった。

 心を無にする。

 戦場で初めて人を殺してから、それはとても大事なことだと、身をもって知った。だから、俺はいつものように心を殺す。

 しかしやはり、いつものようには容易にはいかなかった。


 愛してほしかったと、子供の頃の自分が心の奥底でしつこく叫んでいる。

 まだ諦めきれないと。いつか、母が認めてくれる時が来ると。今までのは本心ではなくて、やむを得ない事情があったんだと。

 そう言ってくれる日がくるのではないかと、愚かな夢想を抱いている。

 あまりに、愚かだった。

 愚かで苦くて、棘のように痛むそれらを全部呑み込んで、ボロボロになった口を開きかけた時。


「……絶対に、言うもんか」


 今までで最もはっきりと、母が断言した。その目は今際いまわきわの人間がするにはあまりに激しく、怒りを滾らせていた。

 そう、そこにあったのは、明らかな怒りだった。

 誰に、とは、あまりに愚問で。

 何かが胸の奥底を静かに滑り降りていく錯覚が、剣の柄を強く握らせていた。それが諦めなのか哀しみなのか、あるいはまったく別の感情なのかは、分からなかったが。


「そうだ」


 と、母が言う。


「あたしに触れていいのは、その冷たい鋼だけだ。お前になんか……触れられたくもない」

「…………そこまで」


 そこまで嫌わなくてもいいじゃないか、と。

 薄暗い部屋の隅で泣きじゃくる子供に背を押されるように、曇った鋼を引き抜いていた。静かに、枯れ木のような胸に突き立てる。

 ぶつり、ず、ず、と。

 皮膚を裂き、肉の繊維を刺し貫く感覚が、生々しく右手を伝う。生死のかかった戦場とは比較にならないくらいゆっくりと、切っ先が肌の奥に沈み込む。

 その微振動と母の苦鳴を聞きながら考えていたのは、こんな無骨な剣さえ抱かれる胸に、ついぞ抱かれることはなかったなということだった。


「…………」


 もう何年も零していない涙が、溢れてくるかと思った。けれど両の目はずっと、痛いほどからからに乾いていた。

 だからきっと、それは見間違いではない。


「!」


 母が、初めて見せる程に穏やかに、微笑んだのだ。剣を引き抜かれる時にも、同じだけの激痛があったはずなのに。

 その笑みは、とても実の息子にたった今手にかけられた母の顔ではなかった。


「ガキに、殺されるなんて……あたしも、ヤキがまわった……もんだ……」


 地面に沈みこむようにゆっくりと頭を落としながら、母が末期まつごにさえ毒づいた。しかしその目に、言葉通りの絶望も憎悪もなかった。先ほど見せた燃えるような怒りさえも嘘のように消え失せ、そんなはずはないのに、俺にはどこか長年の枷から解放されて歓喜に打ち震えるようにさえ見えた。

 何故だ? 何故そんな顔をする?

 今にも死にそうなのに。実の息子に、腹を刺されたばかりなのに。

 何故そんな、満足そうな顔をする。


「これで……これでやっと、思う存分――」


 当惑し、ついには柄から手を離した俺の背を、ドンッと押された。男だ。掠めた視界の端で、嫌味なほど清々しく笑っていた。

 いつもだったら、こんな程度で体の制御を失ったりなどしない。けれど足はもつれ、母にぶつかるように転んでいた。それほどに、今のこの状況に混乱していた。

 そんな俺を、死にかけの枯れ枝のような母が、思いのほか確かに抱き留めた。


「思う存分、抱きしめられる……」

「!?」


 骨ばかりのガサガサの汚い指を俺の頬にあてがいながら、母が涙を流して呟く。聞き間違いだと思った。涙も、苦痛による生理的なものだ。意味はない。

 そのはずなのに、幼子でも慈しむようなその手つきには、反射でない確かな意思があった。背筋が震えるほどの、強い意思。まるで、いつか幼心に希求した理想の母親そのもののように。


「……違う」


 そんなものが、この女の中にあるはずがない。あっていいはずがない。

 狼狽し過ぎて頭がおかしくなったのか、視界に見覚えのある黒い靄がかかる。一瞬、意識が揺らいだ。

 俺は正体の分からない恐怖に突き動かされるように、母の両手を叩き折る勢いで弾き落としていた。


「死の間際まで、虚言を弄して俺を苦しめるのか!」


 子供の頃に溜め続けた悔しさが、ついに嵐のように体の内外を吹き荒れた。怒りで全てが吹き飛ぶならば、俺の周りは一瞬で草木も生えぬ荒野と化しただろう。


「それほどに……そんなに俺が嫌いか。憎いかよ……?」


 俺は、母に何もしてないはずなのに。好かれるために、あんなにも努力したのに。

 産んだことそのものが、そんなにも悪か。存在することが、そんなにも邪魔だったか。何もしていなくても、俺はずっと、母を傷付け、苦しめ続けていたとでもいうのか?


「あぁ……」


 母が笑う。まるで教会でしか見たことのない慈母のように、優しく、穏やかに。


「待て待て。それじゃあ詰まらない!」


 男が、初めて慌てたように声を荒らげた。

 何故一瞬その存在を忘れていたのか首を捻るほどの甲高さに、本能的に鮮血滴る剣を構えて振り返る。母の血が刃をどろりと伝う向こうで、男がにやりと裂けそうなほどに口端を吊り上げた。


「なぁ、そうだろう? いま血を止めてやるぞ」


 同意を求めながらも、男に答えを待つ様子はなかった。外套の下に隠れていた腕を母に伸ばし、何事かぶつぶつと呟く。その指は人間離れして異様に長く、獣のように鋭い爪を持っていた。

 あれは何だ、と俺が疑問に思う間にも、母の腹を染めていた出血が明らかに止まった。


「な……?」


 俺は、今度は目を疑う羽目になった。触れてもいない者の出血を止めるなど、とても人のわざではない。そしてそれ以上に、フードの下に覗く男の面相が、いつの間にか人間離れしていた。

 青白い肌に、狼のように大きく裂けた口、尖った耳、ぎろつく瞳は赤く血走り、とても言葉が通じるようには思えない。

 しかし男だった何かは、こちらの驚きなどまるで意に介さず、喜色をもって俺に両腕を広げた。


「さあ! これでこの女はまだ死なない。この状態なら、まだ一度は機会チャンスがあるぞ」


 血は止まっても、たった今肉体を襲った痛みから回復する様子のない母を、しかし男はまるで気にかけることもなくそう言った。まるで、自慢の商品を見せびらかす露天商のように。

 さぁ言え、と。ただただ血走った目をぎょろりと大きく開いて、更に迫る。

 さぁ言え、愛していると。


「ば、馬鹿な……」


 さぁ言えと迫るごとに身の丈を伸ばす男から、俺は後ずさりながら剣を構えた。


「さぁ、言えよ」

「言うわけねぇだろ!」


 そのさまは、最早狂気だった。なおも近寄ろうとするソレに、がむしゃらに剣を振り回す。

 だがどんなに恐ろしげに脅迫されても、その一言は今や俺の中で一生涯の禁句と成り果てていた。


「絶対に、言ってたまるか……!」


 断固として拒絶し続ける俺に、ソレはついに要求を引っ込めた。やっと諦めたかと、俺は上がり始めた息を整えながら様子を窺った。

 裂けた口と光る両目が、昇り始めの三日月のように赤く色付いていた。


「では、こうしよう」


 母の血に濡れた胸を尖った爪の先で触れ、その指を今度は俺に向ける。その指を、警戒しながらも注視した刹那、


「――――!?」


 選り分けることも出来ない無数の映像が、頭蓋の中で怒涛のごとく暴れ回った。

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