鞆音

 室内を満たす鉄錆の臭いに、わたしは舌舐めずりせずにはいられませんでした。

 怪力を持つという隠密。化け物のまま生きていたのならこうも苦悩することはなかったでしょうに……生きづらい人生を選ぶ酔狂すいきょうな方もいらっしゃるのですね。その愚かしさ、嫌いではありません。むしろ好ましく思います。

 わたしは転がった乙葉様の首を拾い上げようと手を伸ばしましたが、横から伸びてきた白く小さな手にはばまれてしまいました。


いたずらに弄ぶものではない」


 硬く、それでいて感情の波を感じさせない声。もう少し語尾を弾ませようものなら、軽やかな鈴の音にも形容出来たでしょうに──彼女は、声はおろか、表情すらまともに変えることはなかなかございません。

 わたしが振り返った先には、一人の少女がいます。年齢は既に二十歳を過ぎていらっしゃると聞いているけれど、顔立ちは幼く、体つきは小柄です。わたしのことは、嫌でも見上げる形になるのでしょう。

 しかし、この少女を前にして──死体への興味は、すっかり失せてしまいました。わたしにとって、彼女程興味深い人物はいらっしゃらないのですから。


「ご主人様、ご覧になっておいでだったのですか?」


 ご主人様。今のわたしの雇い主。

 近付こうとすると、ご主人様は右手のてのひらをわたしの方へ突き付けました。制止の合図でしょうか。


「まずは着物を直せ。話はそれからだ」

「あら──もしかしてご主人様、わたしの裸体を前にして恥じらっていらっしゃいます? もしそうならば、何とお可愛らしいことでしょう。幾多の人を陥れ、闇の内に葬ってきたあなた様が、たかだか半月はにわりの肌ごときで心を揺さぶられるというのなら、わたしはそれだけでお腹いっぱいでございます」

「露出狂と語らう趣味はない。私を失望させるなよ、鞆音」


 その冷たく凍てついたお声で名前を呼ばれては、最早反論する気持ちも起こりません。

 ご主人様に名前を呼ばれる度、わたしの胸の内はこれまでに感じたことのない、快い感覚に包まれます。今までまともに名前を呼ばれることがなかったというのもあるでしょうけれど、ご主人様の声は格別です。どのような罵倒ばとうであろうとも、黙られてしまうよりは良いと思えてしまいます。

 胸元を直してから、わたしはご主人様に向き直ります。彼女はじっと、床に転がる乙葉様の遺骸を見下ろしていらっしゃいました。


「やはり、憎たらしいですか? あの化け物じみた隠密は」


 ひょこりと肩口から顔を出すと、ご主人様はちらりと一度だけ視線をくださいました。しかし、すぐに顔は背けられます。


「特に思うところはない。強いて言うのなら、あまり散らかさないで欲しかったな。買収したとはいえ、宿の者に文句をつけられては困る」

「まあ、まあ、人が死んでいらっしゃるのに、こうまで元気がないとは。何だか心配になってしまいますねエ。もっと大騒ぎしてもよろしいのですよ?」

「大騒ぎするのは貴様だけだ。さすがに不謹慎だろう、死体を前にして騒ぐなど」


 ご主人様はそうおっしゃいますが、顔色ひとつ変わりません。流石、場馴れしていらっしゃるというべきか。それとも、わたしのように感覚が狂ってしまったのか──まあ、それはご主人様からお話しいただくことですし、詮索は致しません。わたしとて、野暮なるものを存じ上げておりますから。

 しかし、妙です。


「ご主人様、本当に何もしなくてよろしいのですか? この隠密は、ご主人様の兄君を殺害することに荷担するのみならず、何とも残忍極まりない止めの刺し方をなさられたというではありませんか。ご主人様自身は女性ですから無理がありますけれど、わたしにお命じになられたのなら死姦くらいはこなしてみせますよ?」


 この隠密は、ご主人様にとって兄君の仇であるはず。憎らしいと思う気持ちがあるのならば、それを多少表に出したところで誰も咎めないでしょうに。

 ですが、ご主人様は蛆虫うじむしでも見るかのような目でわたしを見上げます。背丈のせいでちぐはぐになってしまう彼女の行動に、わたしは何とも言えぬ高揚感を覚えてなりません。


「貴様の性癖を私に押し付けるな。不愉快だ」

「あら、それは申し訳ございませんでした。しかし、適度に鬱憤うっぷんを晴らさねば、心もすっきり致しませんよ?」

「必要ない」

「またそのようにおっしゃって……。ご主人様ってば、心は既に死んでいるとでもおっしゃられたいので?」

御託ごたくは良い。まずは其処の牢人と──外に控えさせている者たちに部屋の片付けをさせろ。いくら買収していようとも、商品たる客室に血痕が残ろうものなら、宿から苦情が来てもはねけられん」


 ぴしゃりとそうおっしゃって、ご主人様はよどみない足取りで歩を進めます。後片付けは手伝わずに、そのまま帰るおつもりなのでしょう。

 五郷様に事の次第をお伝えし、念のため別室に控えていた者たち──金で雇った用心棒ですがわたしのお客様でもあるので逃げることはないでしょう──にも片付けを頼んでおきます。彼らならば、上手くやってくださるはずです。

 それよりも、ご主人様に置いていかれては一堪りもありません。あの方は氷のようなお人であらせられますが、それでも年若い娘であることに変わりはない。夜道で危ない目にでも遭われたら大変です。


「ご主人様、お待ちくださいまし」


 ご主人様は小柄なので、歩く速度もわたしより緩やかです。そのため、追い付くのは容易でございました。

 振り返られないことも多々あるご主人様ではございますが、今宵は朔の日ということもあって独り歩きは避けたいのでしょう。わたしの声を耳にしたご主人様は、立ち止まってわたしの方へ体をお向けになられました。


「そう急ぐこともあるまいに……。貴様の足であれば、追い付くことなど容易たやすかろう。忠臣ぶらずとも良い」

「忠臣ぶっているのではなく、忠臣なのでございますよ、わたしは。心の底からご主人様のことを案じておりますし、あなた様の境遇には涙をそそられます。だからこそ、こうして協力しているのではありませんか」

「……それは、忠義とは呼ばぬ」

「あら、そうでしたか。しかしこの鞆音、まともな忠義を知りませぬ故、どうかお許しくださいまし」


 うふふ、と笑ってみせても、ご主人様はつられて口角を上げることさえなさいません。普段から、滅多に──いいえ、無表情を張り付けているだけのお方なのです。

 その無表情でさえも、美しい部類に入るのでしょう。作り物めいた顔付きには、一種のなまめかしさすら感じられます。

 しかし、わたしとしてはあまり好きになれません。人間は、くるくると変わる表情にこそ醍醐味だいごみがあるものなのですから。

 その点、乙葉様は面白味がございました。少し肌を晒しただけで、ああも狼狽うろたえてくださるのですから。──まあ、隠密失格だとは思いますけれど。


「さ、参りましょう、ご主人様。早く帰らねば、あやかしに連れて行かれるかもしれません。わたしたちは血の臭いにまみれておりますから、きっと狙われやすいでしょう」

「……そのご主人様、というのはあまり好かない。どうにかならないのか」


 軽く飛ばした冗談は無視されてしまうかと思われましたが、予期せぬところに言及されました。何にせよ、構っていただけるのならそれだけで喜ばしい。


「お気に召しませんでしたか? あなたはわたしをお使いになられる。そういった存在は、ご主人様とお呼びするべきなのでは?」

「私は惣領そうりょうの器ではない」

「うふふ、ご主人様は真面目でいらっしゃいますねエ。あなたが主体となって事を動かしておられるのですから、ご主人様でも惣領でも良いではございませんか」


 それとも、とわたしはご主人様に顔を寄せます。ふんわりと、彼女そのものの匂いが香って、わたしは幸福感を覚えてしまいます。


「こうお呼びした方がよろしゅうございますか?──奈落ならく御前ごぜん


 じろり、と。

 ご主人様が、わたしを睨みます。其処には、僅かながら感情の揺れ──嫌悪感がにじみ、彼女が不満に思う様が表れていました。


「……やめよ。ご主人様で良い」

「ね、そうでしょう? 最初から、これで良いのですよ。何の弊害もありますまい?」

「夜道だ。あまり騒ぐな」

「うふふふっ、承知致しました。ご主人様っ」


 わたしのご主人様。初めて、わたしを引っ張ってくださった方。

 鉄面皮で、仏頂面で、無表情。放たれる言葉もぶっきらぼうで投げやりで、情の欠片も感じさせない。

 けれど、わたしは知っているのです。ご主人様が、類いまれなる烈女れつじょであることを。

 可憐で小さなご主人様は、どうしようもないくらいの激情を内に秘めておられる。それを他人に見せようとはしないけれど、わたしにはわかるのです。あなたがただ、損得勘定で足利の情報を集めているのではないのだと。

 彼女の行く先が、何処なのかはわかりません。ですが、わたしはご主人様に拾われた身。彼女のいぬと言っても過言ではない存在。

 ですから──ええ。何処までも付いて行きましょう。あなたが前に進む限り、その後塵こうじんを拝しましょう。


 それこそが、わたしの──両性具有なる不自由な生き物に、唯一許された自由なのですから。

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