「わたしたちのご主人様は、神母坂常若なるお方を捜していらっしゃるのです」


 開口一番に飛び出したのは、まごうことなき常若さんの名前だった。

 やっぱり、狙いは常若さんか。だとすれば、天花様の可能性は高くなる。

 私は唾を飲み込んでから、鞆音を見つめた。慣れてきた夜目でその顔立ちをじっくりと観察する。


──見知った顔ではない。少なくとも、私の知る人物ではなさそうだ。


 化粧が濃いから、もしかしたら初対面ではないのかもしれない。それでも、これほどまでに強烈な個性の人物がいたのなら、きっと忘れられない気がする。たとえ直接的に関わることはなくとも、噂が流れることはあるだろう。


「──乙葉様?」

「──っ」


 気付けば、鞆音の顔がすぐ傍にあった。私は驚いて、体をけ反らせてしまう。


「そう、じっと見つめないでくださいまし。わたしとて、羞恥しゅうちを忘れた訳ではございませぬ」

「そ……そうよね、ごめんなさい。ただ、足利のことを探っているというから、何処かで会ったことはないかと思って。過去の記憶と、照らし合わせていたの」

「まあ、まあ、それは……。それは、何とも無駄なことにございます。鞆音は、足利に仕えていた訳ではございません。ただ、ご主人様のご命令で、調査を仰せつかっているだけのこと。──あなた様と、同じですよ」


 す、と鞆音が目を細める。

 何処まで知っているのだろう、この麗人は。私は歯噛みしたい気持ちをどうにか抑えた。

 鞆音が足利の臣でないことは確かだ。隠密として足利の裏側にも通じていた私ですら、鞆音の顔を知らない。五郷という付き添いの牢人については知らないが、それでも彼らが足利の関係者でないことは確信出来た。

 ならば、足利と深い関わりがあるのは、鞆音の言う『ご主人様』なのだろう。


「それで、神母坂殿の何を知りたいの? あの方は、七年前に足利のもとから去った。だから、私も詳しいことはわからないわ。答えられる範囲であれば、教えられることもあるけど……でも、あまり期待はしないでね?」


 気を取り直してそう切り出すと、鞆音はそうですか、と言って暫しの間沈黙した。──が、十秒経つか経たないかの辺りで、勢い良く顔を上げる。


「何故、神母坂常若は燦なる白子を殺めたのでございましょう」


 ひゅ、と私の喉が鳴る。

 単刀直入、と形容するのがこれほど適当な切り口があるとは。さすがの私も恐れ入った。

 燦の死の真相。それを知りたがる人物。

 やはり──私がけじめを付けなければならないのか。


「……白子殿のことを、何処でお知りになられたのかしら? あのお方は、足利にとって秘匿すべき存在。余程の古株でなければ、認知すらしていないはずです。足利の秘密を漏らした者がいるというのなら、それは主家に対する謀叛むほんとも見なせる」


 声を低め、私は釘を刺すように告げる。

 燦──すなわち白子殿は、足利内部と今は亡き太閤様とその側近──それもごく限られた方々──のみにしかその存在を知らされていない。そして、当然のことだが口外することは禁じられている。

 豊臣側が有益な情報として売ったのなら、まだわからなくもない。徳川の世となった今、彼らはいつ引導いんどうを渡されるか戦々恐々としている。豊臣を存続させるためなら、藁にもすがる気持ちでいる──という臣下も皆無ではあるまい。

 しかし、鞆音たちは常若さんの情報を知りたがっているという。白子殿の話題は、あくまでも餌のような気がしてならない。

 ならば──彼らのご主人様は、個人的な理由で常若さんに近付こうとしている可能性が高い。


「何処で──ですか。これはまた、妙なことをお聞きになられるのですね」


 鞆音は臆することなく、ふふ、と笑んだ。やはり、此方を嘲るような色がある。


「わたしは、足利に関する情報の全てを、ご主人様から聞き及んでおります。その白子のことも同様に──です」

「……あなた方のご主人様は、一体何者なのかしら。内部からの情報漏洩となれば、ますます放ってはおけないわ」

「うふふ──残念ながら、ご主人様はあなたが裁けるような立場のお方ではございません。お言葉ですが、乙葉様。慎まれませ」

「なっ──」


 私にも、それなりの矜持きょうじというものがある。足利にお仕えする隠密という、矜持が。

 それを、鞆音は一言にして踏みにじった。たしかに、私を見下した。

 言い様もない怒りが、沸々ふつふつと湧き起こる。今すぐにでも、目の前の麗人を殴り殺してやりたい衝動に駆られる。


「……ええ、そうね。過ぎた真似をしたわ。悪かったわね」


──が、私はその破壊衝動をどうにか押さえ付けた。

 今の私は、刺客ではない。常若さんから、殺人の許可が下りていないのだ。余程の事態に陥りでもしない限り、私が人を殺すことはあの方の本意ではない。

 小さく深呼吸を繰り返す。無理矢理にでも、気分を落ち着かせなければ。でなければ──目の前の麗人の顔を、ただの肉塊にくかいに変えてしまいかねない。


「……私はあの方程聡明ではないから、細かいところまではわからないわ。でも、白子殿は無関係の──足利や豊臣にとって方々を、私情によって殺害した。放っておけば、足利が潰される可能性もあった。……だから、けじめとして白子殿を始末したのよ。そうしなければ、何の関係もない、足利に関わっているというだけの人々が、害されるかもしれなかったから」


 出来るだけ平坦な──無関係だと暗に示しながら、私は告げる。

 致し方のないことだったのだ。本来なら、白子殿を殺害するつもりなんてなかった。白子殿が、人を殺してさえいなければ。

 彼は天花様を守りたいようだったけど、それゆえの行動は結果的に天花様を破滅させた。白子殿が余計なことをしていなければ、今頃天花様も平穏に暮らせていたかもしれないのに。

 そう、言い聞かせた。私には、何のとがもない。私の胸の内を、眼前の麗人に気取られてはいけない。


「白子殿が抵抗していなければ、彼もまた切腹という形で死ねるはずだったわ。それなのに、白子殿はあろうことか足利に刃を向けた。だから、任務にあたった者たちも彼を殺害するしかなかったの。──これでもまだ、常若さんを責められる?」


 切腹は武家のほまれ。それを自ら投げ捨てたとあらば、私たちが引導を渡さなければならなかった。

 常若さんは被害者なのだ。白子殿の私利私欲にもてあそばれただけの被害者。彼は神母坂であったが故に、主家の人間を──その体面を、守らざるをえなかった。


「──ふ」


 次に響いたのは、鞆音の吐息。

──いや、嗤笑ししょう


「うふふ、うふふふふふふ、うふふふふふふふふあははははははははははははあはははははははははははははははは!!」


 それは、部屋ひとつを揺らすかのごとき、大笑。

 今までの密やかな笑いはなりを潜め、鞆音は大口を開けて高らかに大笑いしていた。目尻からは涙が溢れ、まなじりを縁取っていた化粧が溶けて色の付いた涙が流れ落ちた。

 異様だった。大笑いする鞆音も、それを前にしながらも微動だにしない五郷。そして、何の反応も示さないこの宿屋。

 全てが、異様にして奇怪。言い様のない不気味な空間に、私は顔をしかめずにはいられなかった。


「──いえ、失敬。あまりにも面白可笑しいことをおっしゃられるものですから──我慢していたものが、このように。表に飛び出してしまいました。申し訳ございません」


 申し訳なさなど欠片もなく、鞆音は目尻を拭った。化粧が掠れて伸び、僅かながらその崩れを浮かび上がらせる。

 今まで、と鞆音は言った。この麗人は、初めから──私の事情を知った上で、何ひとつ知らぬ顔をして聞いていたのだ。笑いを噛み殺しながら!


「……まあまあ、そのようにすぐいきどおるのはよろしくありませんよ、乙葉様。隠密らしからぬではございませんか」


 袖口で口元を隠しながら、鞆音は他人事のように言う。

 いや、鞆音にとっては他人事なのだろう。だって鞆音は足利の関係者ではない。ご主人様から頼まれたという理由で、首を突っ込んでいるだけに過ぎないのだ。

 唇を噛む。この麗人が、気に食わなくて仕方ない。天花様の時とは異なる嫌悪感が込み上げる。


「乙葉様、あなたは隠密。命令されたという理由のみで人を殺せる生き物。其処に私情があってはならぬはずです。だって、あなたは人を殺すのですから」


 鞆音は目をすがめた。

──試されているのか。それとも。


「……だから何? 私は、少なくとも仕事はしっかりこなしたつもりでいるわ。それが、私の生きる意味だから」


 真っ直ぐに、鞆音を見据える。

 鞆音にはわかるまい。隠密としての覚悟が。情を捨て、好いた相手に恋情を伝えることさえままならぬ苦痛が。私娼のあなたには、何もかも。

 鞆音はそっと目を伏せた。しかしそれも一瞬のことで、気が付けばすぐにもとの──邪悪で、ある種の獰猛どうもうさをはらんだ顔付きに戻っている。


「ならば神母坂常若は、白子の首をそのまま引き抜くという──あまりにもむごい殺し方をお命じになられるような、残虐な方でいらっしゃるのですね。ただのけじめのはずなのに──人を人とも思わぬ最期を迎えたというではありませんか、燦なる白子は」


 どくり。

 私の心臓が、跳ねる。


「違う、常若さんは」


 知らず、反論していた。常若さんをおとしめられることだけは許せなかった。

 けど──それは、鞆音の罠だったのだろう。


「では、何故あなたは白子の首を斬るのではなく、ぶちぶちと──力任せに、引き抜いたのでしょう? 神母坂常若の命令でなかったとするならば、あなたの独断なのですよね? あなたは何を思って、白子を殺したのですか?」

「私は──何も、考えてなんかいなかったわ。ただ、足利を顧みない白子殿が、許せなくて」

「許せなくても、あのような殺し方はなさらないでしょうに。……いいえ、あれはあなたにしか出来ないのでしょうね。怪力を持つ、人ならざるあなたにしか出来ない所業。──人として扱われぬ白子であれば、どれだけ惨い殺し方をなさっても良いとお考えになったのですか?」


 否定──出来なかった。

 否定すれば、私が常若さんを想っていることが明るみに出てしまう。隠密の分際で、主君にも等しい存在に横恋慕していることを、鞆音に──そして、その後ろにいる『ご主人様』に、知られてしまう。

 それだけは避けたかった。だから、私は白子を人と思わず、惨たらしく殺す最低な化け物になる他なかった。


「ふ──ふふふ。苦しそうですこと、乙葉様。自覚、あったのではありませんか」


 楽しげに、愉しげに、鞆音は笑う。

 悪趣味にも程がある。人の心を暴き立てて、煩悶する人を眺めて嗤っている。

 どのように育てば──こうも悪辣あくらつを極めることが出来るのだろう?



 にい、と鞆音は紅い唇を三日月のように歪めた。

 同じ? 鞆音と、私が?

 何が同じだというんだ。私は、あなたとは違う。私は、他人の不幸を前にして、喜ぶことなんて──。


「あなたがどう思おうと、いずれ社会から隔絶される立場であることは明白です。形は違えど──わたしたちは、。あなたは自覚を持ちながら、自分は違うのだと駄々をね、社会的弱者を甚振いたぶっていらっしゃったようですけれど……。一体彼らは、どのような気持ちだったでしょうねエ? 同族に異端扱いされて、人らしからぬ死に方を強要されるなんて」


 冷笑が、響く。

 ぐらぐらと、視界が歪んだ。動きたくても、動けない。

 鞆音が立ち上がった。細身ながらも六尺に届きそうな背丈は、精神的に不安定な状態にある私を威圧するにはうってつけだった。


「ですから──ええ、あなたにも教えて差し上げましょう。世の中に、あなたのような常人から外れた者などいくらでもいること。そして、悪行の報いは必ずや訪れることを、このわたしが証明してみせましょう」


 しゅるり、と衣擦きぬずれの音が私の耳をくすぐる。

 白子は人ではない。ずっと、そう思って生きてきた。

 だから──きっと、天花様への嫌悪の他にも、殿と思っていたのかもしれない。私の内にくすぶる破壊衝動をぶちまけて、尚且つ常若さんに褒められるかもしれないと、そう思ったから。

 ならば──私は。


「ご覧ください、乙葉様。わたしも、あなたと同じ──人の常識を裏切った、人ならざるモノにございます」


 微笑みながら、鞆音は着物の袷目あわせめを広げた。

 上半身。おびただしい傷跡の刻まれた、女性らしい──体つきだった。ふっくらと膨らんだ乳房に、引き締まってはいるが柔らかそうな腹部。くびれた腰つき。それは、私の持つそれともよく似ている。


──しかし。鞆音は、私と同じ体つきなどしてはいなかった。


 下半身。其処に曲線はない。上半身には存在したはずの丸みはあらず。おすの持ちうる陽なる生殖器が、影を落としている。

 上半身は女、下半身は男。このような人間を、私は見たことがない。

 男と女だけではないのか、この世界は。陰と陽に分かたれた中に、モノがあるというのか──。


「ええ、ありますとも。この世には、様々な生き物がいらっしゃいます。数こそ少ないですが──こうして相見あいまみえることが叶って、わたしは幸福でございますね」


 頭を押さえ付けられる。両手で、包み込むようにして。

 抵抗したくても、出来なかった。私の体はしびれて、自由を奪われていた。

 ふと、鞆音の後ろから気配を感じ、私は何とか視線を動かした。新たな来訪者がいるというのだろうか。だとしたら、それは一体──。


「あ」


 あなたは。

 そう言おうとしたが、出来なかった。唇は半開きのまま、声を放たぬまま息を吸うだけだった。

 長身の鞆音に隠れてしまいそうな程に小柄な女。きっちりと着付けられた着物を身に付け、いかにも武家の女といった佇まいをしているが、その髪の毛は肩口辺りまでにしか伸びていない。一言も発することはなく、ただじっと私を見つめていた。


 其処に、恨みがあったら。憎悪に満ちた視線であったならば、どれだけ良かっただろう。


 彼女は、無表情だった。喜怒哀楽、どの感情も浮かばぬ顔で、私のことを見ていた。

 恐ろしいと思った。本当に人だろうかと思った。彼女には、私を恨む権利があるのに。私に罵詈雑言を浴びせる権利があるのに、何故何もしないんだ。


「天花、様」


 彼女は私を、看取りに来たのだろうか。

 死の気配が、私の首筋を撫でる。私は背後に回った、虚ろな目をしていた牢人に──ついぞ、気付けなかった。

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