現在ご主人様は、京の北側──所謂いわゆる西陣の一角にある、小ぢんまりとしたお家に身を潜めていらっしゃいます。

 帰宅するなり自室に飛び込んだご主人様が再びわたしの前に姿を現したのは、翌日のことでございました。ご主人様は睡眠不足とはどうしても相容あいいれぬお方でいらっしゃいますから、夜中に帰ったとなればすぐに布団へ潜らねば気が済まない質なのです。ついでに寝起きもよろしくないため、起きてすぐに揶揄からかおうものなら、鬼のような形相で睨まれます。それもまた、わたしにとってはご褒美のようなものなのですけれど。


「おはようございます、ご主人様。朝餉あさげ、出来ておりますよ」


 とてつもなく眠たそうな顔で起きていらっしゃったご主人様に、わたしは朝餉をお出しします。朝といっても、もうお昼と見なして良い時間帯でございますが。

 ご主人様はん、と気だるげに相槌を打ってから、すとんといつもの位置に座りました。そして、至極不機嫌そうなお顔でわたしの顔を眺めます。……睨み付ける、と形容した方が正しいかもしれません。


「貴様も物好きだな」


 いそいそと朝餉を運び込んでいると、ご主人様は変なものでも見るかのような目をなさいました。軽蔑はありませんが、純粋な疑問はありありと感じられます。

 そりゃあ、ご主人様なら不思議に思われるかもしれません。何せ、わたしはご主人様のお世話を──しかも無償で行っているのですから。何が楽しくて自分に手間をかけるのだ、とでもおっしゃいたいのでしょう。

 ご主人様は凛として気高く、他人を寄せ付けない雰囲気の持ち主ではございますが、その実中身は結構後ろ向きでいらっしゃいます。端的に言いますと、自己評価が低いのです。ふとした瞬間に、私ごときが──と口になさられることが多いため、わたしにも何となく察しがついてしまいました。


「ええ、物好きで結構でございます。ご主人様のお世話も、協力も、みいんなわたしが好きでやっていることなのですから」


 わたしは所々跳ねたご主人様の髪の毛を直そうと手を伸ばしましたが、すぐに払いけられてしまいました。まあ、慣れたことなので特段傷付きは致しませんが。


「貴様のことだ、後で世話代だの何だのと請求してきそうで信用ならん」


 ご主人様は不愉快極まりないといった口振りで顔をしかめました。切れ長の瞳が細まり、だいぶ人相が悪く見えます。

 ご主人様はこの通り、協力関係にあるわたしに対しても心を開くことはございません。ご主人様にとって、わたしは上手く動くことのみを求めるべき存在。きっと、いつ裏切られても良いようにと、わたしに対して警戒心を抱くことを忘れぬようにしていらっしゃるのでしょう。

 お可哀想なご主人様。しかし、その在り方こそが美しくあらせられる。


「……どうした、じろじろと見て」


 ずず、とわたしの作ったお吸い物をすすりながら、ご主人様は怪訝そうにわたしをご覧になります。

 ご主人様は、御年二十一になられるのだとか。その割には幼げで、頑是がんぜなく見えるのはわたしだけではありますまい。

 表情のほとんどが無表情であらせられるご主人様ではございますが、時折其処に微細な感情が入り混じることもございます。わたしはそれを見るのが好きなのです。

 人間とは、感情を隠しながら生きるものだと、わたしはそう考えています。

 だって、その身の内にくすぶる激情を常に放出するだなんて、疲れるとか迷惑がかかるとか以前に、酷くみにくくていらっしゃるでしょう? どれだけ美しく優れた人間であれ、感情をき出しにしてはその本性も知れるというもの。化けの皮、なんて表現が正しいかもしれませんね。

 それを剥がすことこそが、わたしの楽しみ。人間の内なる、隠し立てたくなるような感情を、わたしは表に出して差し上げたいのです。相手がそれを望んでおらずとも、わたし個人が見てみたいと思ってやまないのです。

 その点、ご主人様はわたしの願望にうってつけでございました。わたしを拾ってくださったということもございますが、目的を一切口外することなく、ただ一人の人物を追い求める様が、あまりにも愉快──失敬、理想的だったのでございます。


「いいえ、何でもございません」


 しかし、話したところでご主人様が振り返ってくださることなどあまりにもまれ。基本的に彼女は、他人に個人的な興味を持たれることはないのです。

 一度わたしは己が願望をご主人様に伝えてみたのですが、そうか、の一言で切り捨てられました。それよりも情報収集の首尾はどうなっている、と半目で睨まれるなどもしました。


「ご主人様は、今日も美しくていらっしゃる。ですから、見とれていたのです。嗚呼、眼福がんぷく、眼福」


 不機嫌な顔を見るのも楽しいのですが、ご主人様から愛想を尽かされては元も子もありません。此処はひとつ、ご主人様に見とれていたことにでも致しましょう。

 ご主人様はといいますと、貴様頭は大丈夫か、と低い声で問いかけられました。非常に真面目な声色ですので、わたしも反応に困ります。なかなか冗談が通じないお方でいらっしゃる。


「私なぞの顔を見てもご利益はないぞ」


 寺社にでももうでれば良い、とご主人様は割と本気な声でおっしゃいました。

 ご主人様はこう見えて信心深いところのあるお方で、名刹めいさつにも詳しくていらっしゃいます。此処西陣に仮の住まいを構えたのも、足利家にまつわる寺院が多いとのことでございました。現実的に見えるご主人様でも、ご先祖様の御霊に対する思いというものがあられるのでしょうか。祖霊だの何だのと、家絡みの事柄と無縁のわたしとしては、あまり共感出来るような話でもないのですが。

 わたしはご主人様に顔を近付けます。健康的ながらも白い肌に、日の光が当たって照り輝いていらっしゃいます。


「果たして神仏は、わたしのような半端者にご加護をくださるのでしょうか? 男でも女でもなく、半陰陽とさげすまれるわたしは、彼らの護るべき人に分類されるのでしょうか?」


──わたしは、中途半端な存在なのです。

 上半身は女、下半身は男。声も男女の区別がつくようなものではなく、わたしの性別は他人の目にゆだねられる。

 どちらかはっきりしないということは、そのどちらでもないことを示します。それを、大衆は許さない。どちらでもないわたしは、人として扱われないことも少なくはありません。

 神仏は衆生しゅじょうを救うものと伝え聞いていますが、果たしてそれは半陰陽にも通ずることなのか。わたしにはわかりません。わたしは神仏ではないのですから。

 ご主人様は神仏に救われるでしょう。わかりやすく女でいらっしゃいますから。

 それが少し──ええ、ほんの少し、羨ましいのです。わたしは。


「下らないことを問うのだな」


──しかし、ご主人様は持ち前の弁舌でわたしを一刀両断なさいました。

 なんという切れ味でしょう。ご主人様が刃そのものであったのなら、わたしの首は宙を舞い、血飛沫が畳や障子を彩っていたに違いありません。

 ご主人様の歯に衣着せぬ物言いが、わたしは好きで堪りません。遠慮も恥じらいも迎合げいごうもなく、思ったことを伝えられるご主人様の姿は、非常に小気味良いものでもあります。


「仏教の生まれた印度には、貴様と同じく、体の半分が男神、もう半分が女神の神もおわす。仏神ではないが、大黒天や烏摩妃うまひにも通ずる由来を持つ。名を、アルダナーリーシュヴァラというらしい。それに、この日ノ本を照らす天照大御神あまてらすおおみかみも、一説には両性具有だというではないか。貴様のみが加護や功徳くどくを得られぬはずがあるまい。己のみが蔑まれるなどと考えるのは傲慢ぞ」

「うふふ、ご主人様は神様に詳しくていらっしゃいますねエ。──でもわたし、ご主人様のように信心深くはありませんよ? だって、神仏から見放されたも同然の暮らしを強いられてきたのですもの。今更信じろと言われたところで、はいそうですか、と肯定することなど出来ません。ご存知の通り、わたしはひねくれていますから」

「そう言うとは思っていた。故に好きにすると良い。神仏をおとしめることは許さぬが、何を信じるかは貴様次第。私が口出し出来ることではない」


 変なところでご主人様は個人を尊重します。優しさなのか、それともの常識として染み込んだものなのか、あるいは何か覚悟のようなものなのか。ご主人様のようにさとくないわたしには、彼是あれこれと憶測を並べ立てる以外に出来ることはありません。

 わかりましたよ、と返事をして、わたしはご主人様から離れます。本音を言うとこの距離感のままご主人様を眺めているのもまた一興なのですが、ご主人様は近付かれることをあまり好まれません。一度だけ、たわむれにその薄い唇を吸おうとした時には、思いきり平手で叩かれました。それだけ距離感を気になさるお方なのです。


「大丈夫ですよウ、ご主人様。他の神様の悪口なんて言いませんし言えません。だって、わたしにとっての神様はご主人様お一人だけですもの」


 にっこり。微笑んでみましたが、ご主人様は返答をくださることもなく朝餉を頬張るだけでございました。完全に無視されていますね、これは。

 ご主人様も知っているはずです。この笑顔で、わたしがどれだけの人間を籠絡ろうらくしてきたか。わたしは性別に囚われませんから、男も女も、皆愛することが出来ます。それはご主人様とて例外ではありません。

 しかし、ご主人様はわたしを愛してはくれないようです。

 ご自身の側に置いてはくださいますが、それ以上を望むことはございません。お世話だって、わたしが個人的に好きでやっているだけ。ご主人様自身は、日常生活においてわたしを求めることはないのです。


 羨ましい、と思います。ご主人様から、感情の矢印を向けられる人を。


 ご主人様は、他人に興味などないのでしょう。その『他人』の中には、わたしも入っている。

 わたしは、ご主人様に振り返っていただきたいのです。わたしのような半端者さえ使ってくださるご主人様が、わたしの特別であるように。わたしもまた、ご主人様の特別になりたいのです。

 嗚呼、羨ましい。ご主人様に憎まれるお方が羨ましい。ご主人様に目を向けられるお方が羨ましい。

 足利。かつての将軍の血筋。ご主人様の生家。ご主人様の探す、神母坂いげさか常若とこわかなる人物。

 わたしはご主人様の手足という存在でありながら──傲慢にも、思ってしまうのです。ご主人様の目的が、目指すものが、彼女の手の届かないところにあれば良いのに──と。

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