第三十五話 ほんの少々の回り道




「飛行機に乗るなんて聞いていません!」


「落ち着けキャス、もう騒いでも遅い。荷物だってもう積み込まれた後だ」


「ちょっと待ってったら、マテオ! ボードゥローに行くのにどうして私たち、空港にいるのよ! そもそもこんな近い距離を飛ぶ便なんてあったの? というかここって国際便の出発ロビーじゃない!」


 私は今パニック状態に陥っています。


「怪我の後でなければ君なんて軽々と担いで行くところなんだが……さあ良い子だから来い」


 マテオに無理矢理手を引かれ、手荷物検査の後、私はラウンジの特別待合室の豪華なソファーに座らせられています。


「お飲み物をお持ちいたしましょうか?」


「そうだな、コーヒーをブラックで」


「マダム?」


「……いえ、私は……」


「彼女には砂糖抜きのカフェラテを。豆乳があればそれで」


「もちろんでございます」


 ショックで飲み物どころではない私の代わりにマテオが勝手に注文しています。




 大学院を無事卒業し、私は就職活動を続けていました。私はどちらかと言うと病院よりも民間のクリニックで働きたかったのです。


 そして七月始め、やっと就職先が決まりました。あるクリニックで九月から産休と育休を取る職員の代わりを募集していたのです。一年契約という短期の職でしたが、新卒としてはまずまずの良い条件での職でした。


 ここで経験を積めば次の職に就くのもそう難しいことではないでしょう。しかもクリニックはマテオのマンションから地下鉄で二十分で行ける便利な場所にあるのです。




 そして今、ヴェルテュイユは短い夏の真っ盛りでした。マテオはほぼ杖無しで歩けるようになり、今朝、彼の運転で意気揚々と予定通り旅行に出発しました。


 したのは良いのですが、高速道路で車はボードゥロー方面ではなく反対側の西方面に向かったのです。運転をしない私でもそのくらいは分かります。


「マテオ、出発前にご実家に寄るの? 忘れ物?」


「いや、そうじゃない。ちょっと寄り道だ」


 運転席のマテオはニヤニヤしていました。そして今、私は何故かロリミエ国際空港に連れて来られていて、限られた乗客だけが入れる特別室に居るのです。


 怪我をしてからというもの、アルコールを飲む量がぐっと減ったマテオは私の向かい側でブラックコーヒーを優雅に飲んでいます。今日のような休暇の日なら彼は朝からワインかウィスキーでも飲むはずです。ということは今はどうでも良く、私は自分のカフェラテに手も付けずマテオを睨みつけています。


「ムッシュ マテオ・フォルリーニ、航空券を見せて下さいませんか?」


「ここまで来たら今更見てもしょうがないじゃないか。冷めないうちにラテを飲め、好きだろ?」


 したり顔のマテオでした。


「航空券!」


「分かったよ」


 彼が渋々と渡してくれた紙切れを見て私は顔が青ざめました。


「目的地ローマ、そして一週間後にナポリからボードゥロー国際空港……マテオ、イタリアまで行くのに私旅券なんて持ってきていないわよ!」


「それなら俺が持っている。大体いくらファーストクラスでもパスポート無しじゃ搭乗手続きもしてもらえないだろうなぁ」


 先程搭乗カウンターでマテオは私を座らせていた間に二人分の手続きを完了していたのでした。そう言えば数か月前、叔母からいざと言う時のために旅券を申請しておきなさい、としつこく勧められていました。


『キャス、卒業したら一緒にフランスかどこかへ旅行しましょうよ。ナンシーも誘わない? 貴女のパスポート、もう期限が切れているでしょう? 夏休み前は旅券受付も混むから早めに申請しておきなさい』


 そして私は初春に旅券を手に入れ、叔父の家の金庫に大事にしまっていたのです。ところで、これから一週間イタリアに滞在するということは、向こうでマテオの誕生日を迎えるということに気付きました。


「大変! 私ちょっと電話しないといけないところが……」


 私は急いで待合室の外に出て、リサに電話を掛けました。


「リサ、仕事中にごめんなさい。でも急用で」


「構わないわよー、今移動中なのよねー、貴女たち」


 彼女の口調から、何だか嫌な予感がしました。


「ボードゥローのあのレストランの電話番号分からない? 私のメモは今手元にないの。でも急遽予約を取り消さないといけなくなって……」


「心配ご無用、私が既にキャンセルしたから」


 予想通りでした。ボードゥローでマテオの誕生日を祝うものだとばかり思っていた私はリサに相談して選んだ、ボードゥロー旧市街の洒落た仏料理のレストランを予約していたのです。


「リサ、共謀者は他に誰が居るの?」


「他って、貴女の家族友人皆グルに決まっているじゃないの。ほら、私と話している暇なんてないでしょ、愛しい彼とのヴァカンス楽しんできてね。ブオン ヴィアッジョ!」


 そこで電話は切れてしまいました。マテオへの贈り物は準備して荷物の中に大切に隠していました。それでも、言葉の通じない外国でどうやって彼の誕生日を祝ったら良いのか分かりません。


 気付くとマテオが私の側まで来ていました。彼は後ろから優しく抱き締めてきます。


「そろそろ機嫌を直してくれないか、キャス」


「だって、貴方はずっと前からボードゥローとサンダミエンの別荘へ行こうって言っていたから……」


「もちろん行く。先にイタリアに寄り道してからな」


 先程車の中で彼は確かちょっと寄り道と言いました。私はもう反論する気力もありません。そこで私は彼の方に向かされました。


「イタリアもきっと気に入るさ」


「ええ。ずっと貴方と一緒に行きたかったのは本当よ。取り乱してごめんなさい。旅費は出世払いでもいい?」


 就職早々の痛い出費になりそうでした。


「君がそう言い張るなら、前半一週間は俺で後半一週間はキャスが払うということで割り勘しよう」


「それは割り勘とは言わないわよ、マテオ!」


 予定変更後の後半一週間の旅費はほぼボードゥローのホテル代だけです。二年前とは違って今度は二部屋取る必要もありません。


「異議があるなら俺が全額払う」


「……」


 私は気を取り直し、マテオと初めての長期旅行を楽しむことにしました。


 初めて行くイタリアはとても美しい国でした。ローマやナポリのような街だけでなく、ガイドブックにも載っていないような小さな町や村まで全てが絵になる、素敵な所ばかりです。恋人同士で訪れるには最適で、ロマンティックな雰囲気に浸れる旅行先と言えます。


 ローマに着いて最初の二日、マテオはいわゆる観光名所を案内してくれました。マテオの足を労わって、残念ながら博物館や遺跡などの長距離を歩く場所は避けました。


「貴方が休んでいる間にホテルから近い場所なら私だって一人で行って帰って来られるわよ。観光客が多いから私の片言の英語と仏語でなんとかなるでしょうし」


 けれどイタリアに来てからのマテオは束縛大魔王度にさらに磨きが掛かっていました。観光地でも街中でも私が一人で歩くことは絶対に禁止だと言うのです。


「イタリアの観光地なんてナンパとスリのメッカだ。君なんて格好のカモだからな、俺は心配でおちおち休んでいられるわけがない」


「分かったわ。私だって貴方と一緒に出掛ける方が楽しいもの」


「今回行けなかった所はまた今度来ればいいさ。その時は俺の体調も万全だろうし」


 イタリアでなくてもどこでもマテオとまた旅行に行けることを切に願いました。


 確かにイタリアでは、マテオがちょっと席を外した際に男性から話し掛けられることが何度かありました。


「訛りからすると君、フランス人? 可愛いね」


 こんな感じなのです。その度に私はマテオが戻って来る前に何とか追い払おうとするものの、いつも彼に見つかってしまいました。そして気の毒なナンパ師さんはマテオに一睨みされてすごすごと去って行くのです。


「リサやアンソが一緒じゃなくて一人の時に男の人から声を掛けられるのって初めてだわ!」


「どうして喜んでいるんだ、キャス!」


 私の親友は二人とも美人で目立つため、彼女たち目当てでしょっちゅう男性たちが寄ってくるのです。リサに言わせると『モテ期到来』とでも言うのでしょう、何とも新鮮な気持ちでした。マテオがいじけるのでそれ以上はしゃぐのは控えておきました。




***今話の一言***

ブオン ヴィアッジョ

良い旅を!


周りからしっかりと固められ、カサンドラがイタリアに拉致されました!?

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