第三十六話 千里の道も




 折角休暇でイタリアに来たのにマテオはワインも他のお酒も全然飲んでいませんでした。食事もデザートの量もいつもより少なめでした。不思議に思って私が聞いたら、事故をしてから運動量が減ったから食べる量も減らしたと言います。


 それでもマテオは怪我をした後でもすぐにトレーニングに復帰し、運動量は以前からそう減っていないように私には見えました。


 さて、マテオの三十歳の誕生日を翌日に控えたその日、私たちはイタリア南部に移動しました。マテオは今晩何処に泊まるのかも、何も教えてくれません。


「着いてからのお楽しみだ」

 

 ナポリからレンタカーを借りて、私たちは険しい山の中を車で進んでいきます。ヴェルテュイユは平地が多い国です。山地もありますが、概ね緩やかな山ばかりなのです。蛇行して登って行かないといけないような山にはまず道路が走っていませんし、人も住んでいません。


「ヴェルテュイユでオートバイに乗っていても峠を攻められないからつまらないだけだ。こういう道を走ってこそ楽しいのに」


「ねえマテオ、もう少しゆっくり走ってもらえる? 私、少し車に酔ったみたい」


 私は今までこのようなくねくねと曲がった道を車で走ったことはまずありません。慣れないせいか気持ちが悪くなってきました。


「悪かった、キャス。久しぶりの山道で調子に乗って飛ばし過ぎた。少し休憩しよう」


 そして午後には小さな山あいの町に到着しました。地名を聞いても私たちが今実際どの辺りなのか全く見当もつきませんし、町の名前も覚えられそうにありませんでした。


 ヴェルテュイユの国を後にした時点で私は思っていたようにマテオの誕生日を祝えないということは覚悟していました。


 大きな町ならともかく、観光客も訪れなさそうな所です。言葉も通じないに違いありません。だとするとマテオが居ないと私は何もできないのです。


 マテオの運転する車は二階建ての小さなコテージの前に止まりました。


「今晩からここに二泊する予定だ。すぐそこに湖もある」


「素敵なお家ね」


 そこはとても心地良い空間でした。マテオが手配してくれていたのでしょう、食料が冷蔵庫に準備されていました。食材にもよりますが、これなら明日は誕生日の夕食に私が何か料理すればいいのです。


「運転お疲れさまでした、マテオ。何か作るわね。パスタが良い、それともお米?」


「何か軽いもので大丈夫だ」


 私は鶏肉と野菜でスープを作り、パンを添えて二人で夕食を済ませました。


「明日の朝は早く出かける予定だから、今晩は夜更かしせずに寝るぞ」


「山にハイキングに行くのね? だったらお弁当を準備しましょうか?」


 大自然の中で迎える誕生日というのも良いかもしれません。


「いや、山歩きじゃない。弁当も要らない」


「じゃあ湖で釣りをするの?」


「いや、明日になったら分かるさ。さあ、もうシャワーを浴びて寝るぞ」


 私に軽く口付けたマテオはニヤニヤしています。この表情は彼が何かを企んでいる時の顔です。マテオ自身の誕生日なのに、びっくりを仕掛けられるのが私だということに少々納得がいきません。それでもあまりにも彼が楽しそうなので私は何も言えませんでした。


 翌朝マテオは七時頃には出発すると言い早起きしていました。そしてジョギングに出かけるような装いで、上はパーカーを羽織っています。私はいつものようにジーンズにTシャツ姿でした。


「マテオ、私も運動が出来る服に着替えた方が良いの?」


「いや、君はその格好にスニーカーで大丈夫だ。さあ、行こう」


「今晩はここに帰って来るのよね?」


「ああ。帰りは昼過ぎくらいになると思う」


 私は悩んだ末にマテオへの誕生日プレゼントの小さな箱はコテージに置いておくことにしました。


 軽い朝食を済ませた後、私たちは徒歩で出かけました。どうやらこの山あいの町の中心部に向かっているようです。


 小さな町は日曜日の早朝だというのに大勢の人で賑わっていました。広場にはTシャツに短パンやタイツ姿にゼッケンをつけた人々が集まっています。その向こうには旗が沢山立っていました。


「何かのイベントか大会があるの?」


「ああ。持久走の大会だ」


「もしかしてマテオ、参加するなんて言わないわよね?」


 愚問でしたが口に出さずにはいられませんでした。


「そのもしかだ」


「だって、貴方は怪我が治ったばかりで……何キロ走るのよ、それに、ここは山の中じゃないの! ロリミエでロラン川沿いを走るのとは訳が違うわ!」


「真夏だから平地を走るレースがなかなかなくて、日程的にも見つからなかったんだ。こんな涼しい山奥でない限り。自転車には事故以来乗っていないからバイクレースやトライアスロンはまだ無理だったしな」


 マテオの言っていることの意味は分かるのですが、私には全く理解できません。


「そういう問題じゃないでしょう!」


「怪我から見事完全復帰したことを証明して、カッコいいところをキャスに見せたい」


「そんな必要ないわよ、マテオ。貴方はいつでも十分かっこいいし、それにイタリアに来てからはかっこ良さも五割増よ」


「じゃあ尚更だ。キャスがもっと惚れ直すように頑張らないとな」


「だからそんな必要なんて……」


 私は彼に腰を抱かれて軽くキスをされ、その続きが言えませんでした。


「と言っても今日俺が参加するのは十キロで大人の部で一番短い距離だけどな」


 マテオが受け取ったゼッケンには彼の名前と番号が書かれています。


「十キロも坂道を走るの?」


 心配になってきましたが、その気になっているマテオは私が止めようが言うことを聞かないのは分かっています。


「ああ。自己最高記録は期待できないが、ちゃんと完走してキャスのところへ戻って来る」


「マテオ、くれぐれも気を付けてね。無理をしたら駄目よ」


「君を一時間ちょっとの間、見知らぬ土地で一人で待たせることになるのだけが不本意だ。だから意地でも早く帰ってくる。若い男にナンパされてもついて行くなよ、いや若くなくても駄目だからな」


「分かっています」


 まるで子供扱いです。


「この町はちょっとしたリゾート地だから大通りの商店でも見て回っていたらいい」


「日曜日の朝八時に開いている店なんてないわよ。私のことは心配しないで」


 大体マテオが走っている間、お店が開いていたとしても呑気に買い物なんてできるわけがありません。


「あの旗が沢山あるゲートのところから出発するの?」


「ああ、ゴールも同じ場所だ」


 マテオは羽織っていたパーカーをリュックサックの中に入れて、私に預けます。そろそろ時間でした。


「ア ドーポ、カーラ」


 私を最後に軽く抱き締めた後、彼はスタートラインに向かいました。出場者や応援の人たちでごった返しています。もっと長い距離の部は既に出発していたようでした。


 カウントダウンの後、号砲が鳴りましたが、駆けっこのように皆が一斉に走り出すのではなく、三々五々に数人ずつのスタートでした。そのお陰で私は後ろの方から出発したマテオをしっかりと見送ることができました。


 走者の皆は広場の裏の森に消えていきます。


「舗装された道ではなくて山道を走るのね。益々大変そうだわ」


 マテオが帰ってくるまでの間、私は広場に立てられたテントを見て回っていました。スポーツ用品、食料や飲料の販売、他の大会の宣伝、お酒の試飲コーナーまであります。


 マテオが出発してから四十五分くらいで一位の人がもう帰って来ました。後ろでひと際大きい歓声が上がったのです。


「マテオは本当に一時間ちょっとで戻れるのかしら」


 私はもう気になってしょうがないのでゴールの後ろで待つことにしました。友達や家族に応援されている人、仲間と一緒に感動のゴールをしている人、色々な走者が通り抜けていきます。


「それぞれの人にドラマがあるものなのね」




***今話の一言***

ア ドーポ、カーラ

また後で、愛しい人(女性)


さて、マテオくんはトレランの大会に参加、走り出してしまいました。病み上がりというか怪我が治ったばかりで無事に完走できるのでしょうか?

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