第三十四話 卒業式で伝えたいこと




 それからのマテオはリハビリに精を出し、驚異の回復力を見せました。車椅子がほぼ要らなくなり、杖をついて階段の上り下りまで出来るようになりました。


 春の遅いヴェルテュイユも既に新緑の季節です。そして約束通り自分の城に帰ったマテオは正に水を得た魚のようでした。日々のリハビリはもちろん怠らず、それに加え上半身の筋トレにも励んでいます。それからすぐに左腕のギブスも取れ、在宅で少しずつ仕事に戻っていきました。


「貴女も大学が大変な時期だったのに、あの子を支えてくれてありがとう。今更だけど事故の時に辛く当たったことを謝るわ」


「そんな、とんでもありません。勿体ないお言葉です」


 マテオが実家を去ってマンションに戻る時に、お母さまにそんなことを言われました。彼の怪我がきっかけでフォルリーニ家の皆さんに少し近付けた気もします。


 外出がままらなくなったマテオとは自然とマンションで過ごす時間が以前よりも多くなっていました。そんな穏やかな時も私のお気に入りです。そしてリハビリには積極的なマテオですが、最近は何だか我儘を言うことが増えたのです。


「キャス、左手が疲れた。肉を切って食べさせてくれ」


「しょうがないわね、マテオ。はい、どうぞ」


 私も最初は彼もリハビリで疲れているのだと思って、言う通りにしていました。


「左足がまだ不自由だから運転出来ない。キャス、明日病院の検診に連れて行ってくれ」


「レナトさんは都合が悪いの? 私も明日は一日中研修で……」


「じゃあ、行きはレナトに頼むから終わったら迎えに来てくれ」


「分かったわ」


 ところが段々マテオの要求にきりがなくなってきました。


「キャス、風呂に入りたい。体中洗ってくれ。ついでに口でシてくれないか?」


「ついではどちらなのかしらね! もう貴方はどさくさに紛れて……どんな動きでもリハビリに繋がるのよ、マテオ!」


「たまには甘えさせてくれてもいいじゃないか、キャス」


「キャス、キャスって、私は二十四時間常に居るわけではありません。七月に二人で旅行に行く約束はまだ有効なのよね?」


「もちろんだ。それまでには杖無しで歩けるようにしてみせる」


「だったら何でも自分でして下さい!」


「自分でヤる時は右手だ、左手は使わないからリハビリは関係ない。なあ、キャスゥー、いいだろ?」


「キャー! いやだ、もう何を言っているのよ!」


 私は心を鬼にして調子に乗るマテオを叱りつけることにしました。




 兄から久しぶりに連絡があったのはマテオがマンションに戻ってきてしばらくしてからのことでした。


「スーから聞いたけど、お前たち大変だったってな。フォルリーニさんの具合はどうだ?」


「おかげさまで段々良くなっているわ。リックにまでも心配させたのね」


「というよりうちの親の方が心配していたぞ。いつ叔父さんのところに電話してもキャスが居ないって言うんだよな。携帯に掛ければいいものを。フォルリーニさんの面倒を見るためにお前が彼の所に住んでいるって俺がかいつまんで説明しておいた」


「私が電話しても留守については何も聞かれないわ。私が自分で言わないといけないことなのに、ごめんなさい」


 マテオがマンションに帰ってきてから、私は彼の側にずっと居ます。叔父夫婦の家にまだ置いている荷物もありますが、マンションに完全に引っ越したと言ってもいいでしょう。


「俺が間に入って良かったとも思うけど。まあ都会じゃ結婚適齢期も遅いし、結婚前に同棲っていうのは良くあることなんだと両親も頭では分かっている。お前たちはまだ将来を誓い合っているわけでもない、ともな。だからくれぐれも期待し過ぎるな、と念を押しておいた」


「不肖の妹で申し訳ありません」


「ああ、俺って損な役回りばっかだよ」


 私の中ではもうマテオ以外の人と将来を共にすることは考えられませんでした。それでも、彼も同じように思っているとは限らないのです。


 私の大学院生生活もあと少しとなりました。就職先はまだ決まっていませんが、しばらく研修を続けながらゆっくりと就職活動も続けています。


 そして短い夏がすぐそこまで来ていたある日、卒業証書授与式が行われました。学部生と院生、何度か分けて行われるとは言え、学生数が多いので各人が講堂に招待できる人数には制限があります。


 平日の昼間に行われる式には叔父夫婦がわざわざ休みを取って来てくれることになりました。


 そしてその夜はマテオと叔父夫婦と四人で食事に出かける予定にしていました。マテオにとっては久しぶりの外食です。レストランはマテオが迷わず叔父の家の近くの仏料理店マキシムを選んでいました。私たちの思い出の場所の一つです。


「マテオを卒業式に呼ばなかったの、キャス?」


「ええ、講堂へは一番近い駐車場からでも距離があるし、坂道と階段ばかりでしょう」


「確かにねえ、ちょっと大変ね」


「左脚のギブスがやっと取れたばかりで、まだ杖をついてもゆっくりとしか歩けない彼に人混みの中で無理をさせたくないの」


 ロリミエ大学はロリミエ市の真ん中に位置する唯一の山、ブロム山の中腹にキャンパスがあるのです。


 卒業式当日は美しく晴れ渡った初夏の気持ちの良い朝でした。早朝にマテオと日課の川沿いの散歩をし、朝食の後に私は大学に向かいました。叔父たちとは現地で落ち合うことになっています。


「行ってきます、マテオ。式の後は昼過ぎに帰って来るわね。お昼ご飯は昨日のパスタサラダがあるわ」


「ああ」


「一時間に一度は立ち上がって体を動かしてね」


 行ってきますのキスをしたマテオがニヤニヤ笑っていたことに気付きましたが、その時の私は深く考えていませんでした。


 卒業証書授与式は静粛な雰囲気の中で始まり、学長などの講話、一人ずつ壇上で証書授与、約束の帽子投げ、講堂の前での写真撮影と続きました。


 叔父夫婦からもらった小さな花束と卒業証書を手に級友たちと一通り写真を撮り、叔母と一緒に大学正門方向へ向かいました。


「マルタンは車を取りに行っているわ。近くに停められなかったのよ」


 ほとんどの人が私たちと同じように正門から校外へと歩んでいる中、立ち止まってこちら側を向いている背の高い男性が一人居ました。見事なピンク色の薔薇の花束を抱えた彼はやたら目立っていて、女子学生たちが振り返ってまで見ています。近付くにつれてその黒いスーツを着た男の人は私が愛してやまない人だと分かりました。


「マテオ……どうして?」


「ほら、これは持っていてあげるわ」


 卒業証書や私の鞄を叔母に預けて私はマテオの元へ走り、その次の瞬間に彼の両腕にしっかりと包まれていました。


「コングラトゥラツィオーニ、キャス。そのガウンも帽子も良く似合っているな」


「マテオ、来てくれたのね! 無理しなくても良かったのに」


「今日みたいな特別な日に無理せずにいつすればいいんだ」


 私は体を少し離して彼を見上げました。涙でにじんで彼のハンサムな顔がぼやけて見えます。その顔が近付いてきて私は熱いキスを受けていました。


「ああキャス、君がどれだけ頑張ったか知っているから、俺は誇らしくてしょうがない」


 私は涙が止まりませんでした。


「本当は来て欲しかったのよ。ありがとう、マテオ。ところで杖は?」


 先程彼は両手で大きな花束を抱えていて、杖はありませんでした。


「今日のために杖無しで歩く練習をしていた。まあそこの道路でレナトに降ろしてもらってからだから大した距離じゃないが」


「良かった、マテオ……でも疲れていない? どこかに座る?」


「いや、まだ君をこうして抱きしめていたいだけだ」


 そうして私たちは飽きることなく二人でずっときつく抱き合い、口付けを交わしていました。私も今日だけは周りの目も気になりませんでした。


 どのくらいそうしていたのか、ふと気付くと叔父と叔母が少し離れたところで見守っています。叔父がマテオの杖とあの大きな花束、叔母が私の荷物を持ってくれていました。彼らの表情から二人もこの演出に一役買っていたと言うことがすぐに分かりました。


 私はその後、級友たちと昼食を一緒にとることになっていました。その席ではマテオとのラブシーンを大いに揶揄からかわれました。


「キャスに超ゴージャスな彼氏が居るっていうもっぱらの噂だったけれど、その彼をやっと拝めたわ」


「しかもラブラブのアツアツ! 今日ここに連れて来れば良かったのにぃ!」


「ねぇ、どうやったらあんな素敵な恋人に出遭えるの?」


「去年の夏の飲み会に迎えに来ていたよなぁ、やたらめったら目立つイタ車でさ」


 皆午後の予定は無いのでしょう、お酒がかなり入っているようでした。




***今話の一言***

コングラトゥラツィオーニ

おめでとうございます


愛するカサンドラの卒業式、もちろんマテオも駆けつけないわけにはいきませんね。

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