第三十三話 ロリミエの伊太利亜人




 マテオが事故に遭った時、私は卒業を間近に控えた大学院二年目の後期でした。二人の大変な時期が重なったのに、よく自分でも乗り越えられたと後になって思います。当時の私はそれこそわき目もふらず、ただ必死でした。


 ナンシーから電話があったのはマテオとやっと会えたその翌日でした。


「ごめんなさいね、キャス。貴女に連絡するのが遅くなってしまったわ」


「いいのよ、ナンシー。私もパニック状態で支離滅裂な伝言を残してしまったわ。貴女が旅行中だと電話を切ってから思い出したの」


「無理もないわよ。航空券の変更が出来たから、明日ロリミエに着いて、直接マテオを見舞いに行くわね」


「折角の帰省旅行だったのに、申し訳ないわ」


「大切な甥の一大事なのに直ぐに帰国出来なくて……」


 ナンシーと同時に、クレールとステファンさんも二人でお見舞いに来てくれました。


「キャスの心配のしようははたで見ている方が辛かったのよ。少しでも手助けが出来て本当に良かったわ」


「私がイタリアに帰ってさえいなければねぇ」


「クレールのお陰だわ、本当に」


「これも全てマテオのせいだからな。よくも妊婦に余計なストレスかけてくれたよな。この借りは高くつくぞ」


「分かっているって、ステファン。まあしばらくは実家に監禁されて大人しくしているつもりだ」


 こんな軽口がきけるようになったことを本当にありがたく思いました。




 マテオのごり押しが効き、事故から十日で退院が許可されました。


 当日はレナトさんがミニバンで迎えに来てくれました。車椅子でそのまま乗れるようになっているので便利です。私もマテオに付き添って実家に送り届けました。というよりもマテオが私の都合がつく日時ではないと退院しないとごねたからなのです。


 マテオの実家は閑静な高級住宅街にある一軒家でした。ロリミエ郊外西側にある、ロラン川沿いの地域です。中心街からは離れていますが、叔父の家からはそう遠くはありません。


「へえぇ、アンタがあの暴れ馬を見事にぎょしているっていう、『愛しのキャス』ねぇ。思っていたのとかなり違って、意外」


 マテオの弟のドメニコさんとは初対面でした。マテオのお相手として彼がどのような女性を想像していたかは言われなくても何となく分かります。


「ご期待に沿えず申し訳ございません」


「いや、まあ、そこまで悪気はないつもり。兄のこと頼むよー」


 ドメニコさんは失礼とも取れる率直なもの言いをする人ですが、マテオよりはずっと人懐っこい感じがしました。




「どんな厳しいリハビリのメニューもこなしてなるべく早く家に帰るからな」


「マテオ、とりあえず今はゆっくり休んで傷口を塞いで体力を取り戻すのが先よ」


「キャス、君も今は忙しい時期だとは思うが……」


「ええ、なるべく時間を作って貴方に会いに来るわ」


「送り迎えはレナトに頼め。俺の車を使ってもいいし。ここへはバスだと不便だろう」


 マテオの高級車を運転する勇気はとてもではないけれどありません。


「そうね、レナトさんか叔父に送ってもらうことにするわ」


 なるべく来ると言いながら、マテオの実家へ私の足が遠のいてしまうのは自分でも分かっていました。距離の問題とご家族やレナトさんへの遠慮が原因です。


 ところが、彼が実家療養を始めて三日目にはお父さまの方から電話が掛かってきて、頼むからもっと顔を出してくれと懇願されました。


 そして私の研修先にレナトさんが迎えに来てくれたのです。詳しくは聞けませんでしたが、レナトさんによると私が来るのを屋敷中が待ちわびているそうでした。


「何だか大袈裟だわ。重要人物にでもなった気分です」


「それがあながち言い過ぎでもないのですよ、お嬢様」


 私がお屋敷に着くとお父さまが迎えて下さいました。


「ああ、カサンドラ、来てくれたか」


「マテオさんの具合はいかがですか?」


「今朝もまた派手にルチアとやり合っていた」


「まあ、そのくらい元気があるのは良いことですわ。とりあえず彼の様子を見てきます」


 私はマテオの部屋に急ぎます。


「マテオ、眠っているの? 具合はどう?」


「ああ、キャス、会いたかった。ここはまるで牢獄だ」


「まあ大袈裟ね。据え膳上げ膳なのに我儘を言ったら駄目でしょう」


 ベッドに体を起こしているマテオの右側に座って彼にキスをしました。彼は自由に使える右腕一本で私をギュッと抱きしめてくれます。


「それは重々分かっている」


「正直、毎日ここへ寄るのは大変なのよ。でも、今週末は二日とも来るから」


「本当か?」


「ええ。何か必要なものはある?」


「君以外には何も要らない」


「食べたい物とかもないの? でもお酒はまだ駄目よ」


「キャスが喰いたい……」


「まあ、マテオったら」


 そういう欲求があると言うことは良い兆候ね、と言おうとした私の口は彼のそれで塞がれていました。


「カサンドラ、貴女の部屋もこの隣に準備しました。あぁら、お取込み中失礼」


 ノックとほぼ同時にお母さまがいきなり部屋に入って来られました。私たちは熱烈なキスに夢中になっていて、しかもマテオの右手は私のTシャツの中で、と言うか下着の中でした。お母さまの出現に私はマテオから慌てて離れようとするも、彼の右腕にがっしりと抱かれて身動きできません。


「マンマ、返事を待ってから入って来て下さいよ!」


「返事がないからどうしたのかと思って」


「ペッツォ ディ メ〇ダ……次回からは鍵を掛けてやる」


 マテオがお母さまに聞こえないようにボソッと呟きました。


「とにかくカサンドラ、いつでも来て泊まっていって頂戴」


「は、はい。お気遣いありがとうございます」


「と言うより貴女が居ないとマテオはたちまち機嫌が悪くなって使用人や家族にあたるからな。大迷惑だ」


 お父さまの方は開いた扉から顔を覗かせていました。


「絶対こんな所からはすぐに脱出するからな。俺がマンションに帰りたいって言った理由が分かったろ?」


 再び二人きりになってもマテオはまだブツブツと文句を言っています。


「それはまあそうだけど……」


「ここだと君と心置きなくイチャイチャできない。うちの母親はな、着替え中だろうがオ〇ニー中だろうが何だろうがノックもせずに部屋に入ってくる。弟が何故まだ実家を出ないのか、不思議でならない」


「マテオったら、うふふ……」


 マテオのそんな憮然とした様子に、私は自然と笑いが止まらなくなっていました。


「君は笑っている顔が一番だ」


 それから私は彼を車椅子に乗せて浴室に連れて行き、髪を洗い体を拭いてあげました。それだけが目的ではなく、完全に二人きりになりたかった私たちはもちろん部屋も浴室も鍵はしっかり掛けるのを忘れませんでした。マテオの怪我を労わりながらも、久しぶりにお互いの肌の温もりを思う存分感じたかったのです。


「キャス、週末は金曜日の晩から来られるか?」


「ええ。私、今週末はずっと貴方と過ごせるわ。もちろんレポートと論文を進めないといけないけれど」


「ああ、君の勉強の邪魔はしないと約束する」


「金曜日まで良い子にしていてね、野菜を残したら駄目よ、マテオ」


「まるで子守りに戻ったみたいだな、キャス」


「そうなの、私も多忙ながら時々副業を入れているのよ」


 その後、フォルリーニ家を去ろうとしたら、ドメニコさんに玄関ホールで会いました。何だか彼に待ち伏せられていたような気がしないでもありません。彼が何をしたいのか今いち分からないので首を傾げました。


「マテオの奴がここじゃなくてマンションに戻りたがったのはアンタと会える頻度が減るからだってな?」


「ご本人はそうおっしゃいましたね」


「まあ今日はアンタが来てくれて助かったよ。今朝の母との口喧嘩は凄まじかったからさ」


「……お役に立てて何よりです」


「それにアンタ、あの母親とも対等に渡り合えるんだって?」


「病院でのことでしょうか? あの時は私もお母さまも極限状態だったと申しますか……」


「かなり見直したよ、カサンドラ」


 その時からドメニコさんは私のことをアンタ呼ばわりすることが減りました。




***今話の二言***

ペッツォ ディ メ〇ダ

マテオくんが再び悪い言葉を言っています。良い子の皆さんは使わないで下さい。


マンマ

お母さん


カサンドラに毎日会えないのは辛いですが、マテオくん、今は実家でゆっくり静養する時です。

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