第三十二話 大きな試練




 私は大学からバス一本で行けるロリミエ総合病院へ急ぎました。そしてクレールを病院内の薬局に訪ねます。


「クレール、体調はどう? 仕事中にごめんなさいね」


「いえ、良いのよ。それよりキャス、顔が真っ青だわ」


 クレールはゆっくりと立ち上がって私を軽く抱き締めてくれました。彼女は年明けに妊娠したことを教えてくれました。予定日は七月始めだそうです。ゆったりとした丈の長いTシャツを着ている彼女は女性としての美しさで輝いていました。


「あ、貴女が居なかったらと思うと、私……」


「すぐに行きましょう。案内するわ」


「いいの?」


「私は病院を見学する友人の貴女を案内しているだけよ」


 そして彼女は迷路のような病院の廊下を進み、第二病棟に入りエレベーターに乗りました。


「ここが外科の一般病室棟よ。えっと、あちらの廊下だわね。貴女は見学中に偶然フォルリーニさんが入院しているのを見かける、という筋書きよ」


「クレール、感謝してもしきれないわ。何と言って良いか」


「とりあえず彼の無事を確認しましょうね」


 クレールが示してくれた廊下に入ると、彼女にマテオの病室を指してもらう必要はありませんでした。と言うのも、病室から出てくるマテオのお母さまにばったりと会ったからなのです。普段の彼女とはうって変わってお化粧も崩れてやつれた様子が分かります。


「マダム・フォルリーニ、マテオさんの具合はいかがですか? 私、居ても立っても居られなくて……」


「ああカサンドラ、手術の後に一度だけ意識が戻ったけれど、今はまた眠っているのよ」


「大きい事故だったのですか? 私も彼に会えますか?」


「お医者さまによると退院してもしばらくは車椅子生活だそうよ。しばらくってどのくらいなのか分からないのよ! これから一生下半身不随だったらどうしましょう!」


「……マ、マテオさんが眠っていてもいいです、彼の顔だけでも見させてもらっていいですか?」


 お母さまは涙にくれています。私の胃の中には何も入っていないのに、戻してしまいそうでした。私は体がふらついて壁に手をつき、かろうじて立っていられました。クレールが私の肩をそっと抱いてくれていました。


「まだ家族以外は絶対面会謝絶よ。カサンドラ、あの子がこれから一生車椅子が手放せなくて、無収入の上、二十四時間介護が必要だとしても会いたいの? その覚悟がないのなら、中途半端な気持ちで顔を出さないで頂戴!」


「か、覚悟だなんて、今いきなり聞かれても分かりません! けれど私だってもう二年近くマテオさんと一緒に居るのです。彼が大怪我を負ったからって、はいさようならと言って去ることなんてできません。彼自身が私の顔をもう見たくもない、私に下の世話もされたくないと言うならともかく!」


「あの、お二人ともお気持ちは良く分かります。けれど落ち着いてお静かにして下さい。ここは病院ですから、他の患者さんたちの迷惑にもなります」


「そうだ、何もわめき散らかさなくてもいいじゃないか」


 看護師さんが来て私たちを止める前に、クレールとマテオのお父さまらしき人にたしなめられました。お母さまは既に嗚咽で言葉が出なくって、お父さまの胸で泣きじゃくっています。


 私は涙は流していなかったものの、何かにつかまっていないと倒れてしまいそうでした。そしてクレールが私をマテオの病室の前まで導いてくれました。


「ありがとう、クレール。感謝の言葉もないわ」


 それだけ言うので精一杯だった私は薄暗い病室に恐る恐る足を踏み入れました。そこには包帯をグルグル巻きにされた私の愛しい人が横たわっています。土色の顔をした彼があまりにも静かで動かないので、私は倒れ込むようにベッドに駆け寄りました。


「カoツォ! マテオ死なないで、必ず私の元へ無事に帰ってくるって約束してくれたじゃない! 愛しているわ、私を置いて行かないで!」


 マテオの手はギブスと包帯で脈があるかどうかも分かりません。私は無我夢中で耳を彼の心臓に当てました。とりあえず体の温かさを感じ、心臓が脈打っているのが分かった私は涙が止まりませんでした。


「良かった……」


「スト ベネ……プリンチペッサ、悪い言葉を使うなって言っただろう?」


 その声に私ははっと頭を上げました。私のマテオが薄目を開けています。


「マテオ、気付いたの? 具合はどう?」


「母と二人で……廊下であれだけ騒いでいたら、目が覚めるに決まっている」


「もう、私、心配で心配で……うわぁああん!」


「それにしても……君も母も俺を車椅子に縛り付けたり殺したりと忙しいことだな。とりあえず右手は動く。こちら側に来てくれないか、君を触りたい」


「うん」


 マテオの手が私の頬や髪の毛を優しく撫でています。私の涙はまだはらはらと流れっ放しでした。


「心配させてすまない……手術が終わってから一度少し目が覚めただけで、またすぐ寝入って時間の感覚がない……」


「マテオォ……」


 私はもう言葉が出ませんでした。マテオも痛み止めのせいか、再び寝入ってしまいました。


「先程は取り乱してしまって悪かったわ」


「いえ、私の方こそ、お恥ずかしいことです」


「ルチアが事態を大袈裟に取り過ぎていて、申し訳なかった。マテオはあちこち骨折しているだけだ。大怪我には違いないが」


 私とお父さまはお互い自己紹介もまだだったのです。




 私は叔父夫婦に事情を説明して、マテオの退院までは彼のマンションから大学やお見舞いに行くことにしました。その方がバス一本ですぐなので便利だったからです。


「マテオはいつ退院できるか分からないのでしょう?」


「ええ。それに退院したら今度はリハビリ施設に入ることになるか、自宅療養にしても手伝いの人がいるでしょうね」


「何て言ったらいいのかしら、毎日お見舞いに行くことも大事だけれど……」


「分かっています、スー。私はまず大学を予定通り卒業しないといけないわ。学業を疎かにはしません。長期的にマテオを支えることになるかもしれないのですもの」


「僕達の幼かったキャスがいつの間にかこんなに大人になっていたとはね」


「感慨深いわね、マルタン」


「少し話題はずれるけれど、この間指輪を取りに来たリックにも私、散々説教されてしまって……」


「どうしてリックが?」


「マテオのあのスポーツカーを見て腰を抜かしたそうよ。だから経済格差やら家柄や文化の違いについて、まあ色々とね……」


「キャスのことが心配なのね」


「僕達にもリックにとってもキャスはいつまで経っても小さい女の子だから」




 マテオは意識が完全に戻ると痛み止め薬の投与を拒否し、すぐにでも退院すると言って周りを困らせるようになりました。


 仕事にも戻りたがっていた彼は、パソコンと携帯電話をご両親によって没収されていました。そもそも電話は事故で使い物にならなくなっていたのです。私が連絡しようとしても電話が繋がらなかったのも無理はありません。


 結局、担当のお医者さまも渋々と早めの退院を許可して下さいました。マテオは今度はリハビリ施設には入らない、しかも実家ではなくマンションに直接帰るとごね始めました。施設に入らないのは譲れます。


「階段ばかりの実家よりも、エレベーターのあるマンションの方が何かと便利だ」


「何を言っているの、マテオ。マンションだって寝室へは階段を上らないと行けないでしょう」


「居間にベッドを置けばいい」


「そういう問題ではありません。貴方は大怪我をしたのよ。いくら介助の人をつけると言っても、ご実家の方が人の手が多いのだから、しばらくはご両親の元で大人しくしていて下さい」


「子ども扱いするな、キャス」


 私は大きなため息をつかずにはいられません。まるで駄々っ子です。


「そうよ、マテオ。貴方が何と言おうが車椅子か担架に縛り付けてでも我が家に連れて帰りますからね」


 そこでご両親が現れ、三人がかりの説得に入ります。


「ルチアがそう言うと本当にしかねないな」


「分かりました、杖で歩けるようになるまでは家に居ますよ!」


「いいえ、マテオ。杖で階段の上り下りが一人で出来るようになるまではマンションに帰ったら駄目よ!」


「カサンドラの言う通りだわ」


「マテオ諦めろ、珍しく女性陣の意見が合っている時には反論の余地はない」


 お父さまの言葉に不謹慎ながらも思わず噴き出してしまいました。




***今話の三言***

カoツォ!

再びマテオくんも言っているように悪い言葉です。良い子は言わないで下さい


スト ベネ

元気です。大丈夫です。


プリンチペッサ

お姫様


マテオのお父さんも登場です。もっぱらあの強烈なお母さまをなだめる役です。

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