第十七話 苦しい恋煩い


― 西暦2010年 秋


― 大都市 ロリミエ




「キャス? アロー、マドモアゼル? カサンドラ・デシャンさぁーん!」


「えっ、何?」


「先ほどから心ここにあらずね」


「ごめんなさい、スー」


 私は叔母スザンヌを手伝って台所で人参の皮を剥いていたのですが、ぼんやりしているうちに私が手にしていた人参は何度も皮むき器をかけられてすっかりやせ細っていました。


「……だめね、私って」


「サンダミエンから帰ってきてから何だか調子が出ないみたいだけど? リリアンと喧嘩でもした? それとも大学か研修先で何かあった?」


 正直言って、リリアンのことはすっかり忘れていました。


「……」


 私の優しい叔母は台所のカウンターの向かいに腰を掛けて私の顔を覗き込んできました。


「事態はもっと深刻みたいね」


 叔母は私の表情から心情を読み取ったのでしょうか。


 この夏休暇中に私に起こったことはどうしても、相手が誰であっても、話せるような内容ではないのです。大体私自身、罪悪感と後ろめたさでいっぱいでまだ良く消化できていません。それでも叔母の心配そうな顔を前にすると、私の愚行を口に出して楽になってしまいたいという思いに駆られてしまいます。


「あのね、スー……い、いえやっぱり何でもなくて……」


 一度言葉にしてしまうとせきを切ったように止まらなくなってしまいそうでした。


「キャス、貴女のことは私とマルタンが責任を持って預かっているのよ。本当にどんな些細なことでもいいから心配事があるなら話してね、分かった? 決して悪いようにはしないから」


 けれど誰にも私の心情を吐露することはできそうにありませんでした。私がお金のために愛人になっていたなんて知られると、叔父夫婦も両親も私に大層落胆することでしょう。


 マテオに連れられてデュゲイさんの別荘から逃げるようにホテルに戻ったのは今から丁度三週間前のことでした。


 私はその後、マテオに誘われた夕食も断り、ホテルの部屋で一人眠れない夜を過ごしました。マテオはそんな私をそっとしていてくれました。ただ、夜中にサンドイッチと私の好きな砂糖抜きの濃いめのココアを黙って差し入れてくれたのです。


 結局私は悩んだ末に書置きを残し、翌朝一番の高速バスでロリミエまで帰ってきました。朝マテオの顔を見ると決心が鈍ると思ったので、お別れも言わず早朝にホテルを後にしたのです。お詫びの言葉を書いた手紙に後付け個人小切手を切って置いておきました。


 ボードゥロー滞在中にマテオが私に使った額はあの小さな温室の修理代をとうに超えているに違いありませんでした。それでも一応けじめとして私は細々と毎月百ピアストルの支払いを一年間続けていくことに決めたのです。


 今は大学の新年度も始まり、忙しい日々を送っています。大学院生としての大事な年ですから気を抜くことはできません。


 けれど、私の心にはぽっかりと大きな穴が開いたままでした。マテオとはほんの十日間ほど一緒に過ごしただけでした。だというのに彼との楽しい会話や彼の笑顔や温もりを思い出さない日はありません。


 時々夢にまでマテオは出てきました。朝部屋で目覚めて無意識に隣のマテオにそっと触れようとして誰も居ないのが寂しくてしょうがありません。マテオの不在がこんなにもこたえるとは思ってもいませんでした。


 そして度々ぼんやりとしているので先ほど叔母に指摘されたのです。


「私やマルタンではなくても、誰かに話すだけでも気分が楽になるかもしれないわよ」


 子供の頃から兄と私は叔父夫婦に可愛がられていました。結局彼らは自分達の子供を授かることはなかったので、尚更です。叔母は昔から私達に名前で呼ばせていました。だから叔母は私にとっては歳の離れた姉のような存在なのです。


 私がロリミエ大学栄養学科を受験した時も、合格したら彼らの家に下宿することを先に提案したのは父の弟に当たるマルタン叔父ではなく、私と血の繋がっていない叔母の方でした。


「ええ……でも本当に心配事ではないのよ。ありがとう、スー」


 大学時代の親友、アン=ソレイユやリサにも打ち明けられないということは重々分かっていました。アン=ソレイユとは明日の夜、顔を合わせる予定でした。




「キャス、貴女その顔はもしかして恋煩い?」


 翌日私はアン=ソレイユに頼まれて彼女のアパートで、赤ちゃんのダニエルの世話をしに来ていました。食事を始めた私は、向かいに座るリサの何気ないその言葉に私は思わず咳き込んでしまいました。


 先ほどリサが食事の差し入れを持ってきてくれて、一緒に夕食をとっているところでした。リサのお母さんが作ってくれた炒飯と冬瓜のスープです。


「な、何を藪から棒に、リサ!」


 恋愛に関しては自他共に経験豊富だと認めるリサはやたらと鋭いのです。


「当たらずとも遠からずでしょう、その反応は!」


「ち、違うわよ!」


「リサお姐さんに話してごらんなさいよ。いいわ、ダニーが寝て、アンソが帰ってきた後にしましょう、女子トークは」


「リサ、言っておくけど私、話すことなんてないから」


「へぇーえ、私に隠し事なんてできないって分かっているでしょ?」


「それはそうだけど……ダニーをそろそろ寝かしつける時間だわ」


「ダダー!」


「良い子ね、ダニー」


 私は椅子に座って玩具を振り回しているダニエルを抱っこして寝室に連れて行きました。


 私はリサの言葉に少なからず動揺していました。私の今のこの苦しい気持ちが恋と呼べるものなのか、確信もありませんでした。彼と会っていた期間はほんの数日だったのです。


 ハンサムで裕福なマテオと一緒に居ると、高価な服を買ってもらえて、お洒落なレストランに連れて行ってもらえて、周りの女性からは嫉妬や羨望の眼差しで見られるのです。それにベッドでもマテオは今までに私が感じたことのない悦びを与えてくれました。


 これは恋でも愛でもなく、ただの物欲と肉欲です。マテオがお金を持っていなかったら私たちは出会ってもいなかったし、二人の関係は成り立たなかったでしょう。ダニエルにミルクを飲ませながら、私はしきりに自分にそう言い聞かせていました。


 リサは私が一年前に元彼と付き合っていた時、あまり良い顔をしませんでした。私が彼のことを好きならまあそれでいいけれど、そんな勿体ぶった言い方をしたのです。案の定、彼とは数か月で別れてしまいました。私が学業とアルバイトに精を出している間、彼は他の女の子とも付き合っていたのです。


 そして私たちが別れた後、リサはこう言ってのけました。


『まあ、キャスも無事ロストバージンできたことだし、あんな冴えない男は次へのステップアップに必要だっただけよ』


 二つ年上のリサと知り合ったのは私と同じ学科だったアン=ソレイユを通してでした。最初はその歯に衣着せぬもの言いと大雑把な性格や派手な化粧に、敬遠すべき人種だと私は思っていました。


 けれど数か月もしないうちに姉御肌で面倒見の良いリサは私のかけがえのない親友となったのです。彼女は誰とでもすぐに打ち解けられ、顔が広く友人が多い人でした。


『昔馴染みのアンソはともかく、キャスにまでも大層懐かれてしまったわ』


 リサはそう言ってあっけらかんと笑っていました。予定外の妊娠のため休学してシングルマザーとして出産したアン=ソレイユを支えてきた私たちは益々仲良くなっていました。


 今では三人各々の道を進んでいますが、私たちの絆は切っても切れないものとなっています。


「すっかり遅くなってごめんなさい。ダニーはお利口にしていたかしら?」


 その夜は大事な研修が入ったと言っていたアン=ソレイユは夜十時頃帰宅しました。結局、三人共それぞれ明朝も早いので私もリサもすぐにおいとますることにしました。


「キャス、今度の機会には絶対吐かせるからね!」


 リサのその言葉に私は苦笑いしながら家路につきました。




***ひとこと***

マテオさん登場しないので今回は伊語なしです。


さて、カサンドラの友人二人が初登場です。彼女たちの今後の活躍が期待されます。

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