第十六話 枕営業の疑惑




 私が体を硬直させているのにもかかわらず、デュゲイさんは私を彼の方に向かせ、顔を近付けてきました。


「嫌ッ! やめて下さい、大声出しますよ!」


「所詮はフォルリーニにだって金で買われているんだろ、お高く留まっても無駄だって!」


 彼のその言葉に全身が凍り付きました。


 それでも私は無我夢中でデュゲイさんを押しのけて、逃げようとしたのに手と足を彼に掴まれて転びました。しかし何とか振り払って小屋から這い出ました。彼の顔や急所を思いっきり蹴ったような気がしますが申し訳ないとは思えませんでした。


 そして一目散に別荘まで戻りました。パニック状態の私はスニーカーも脱がずに別荘の二階に駆け上がり、部屋に飛び込むとドアに鍵を掛け、荷造りを始めました。マテオの姿は部屋にありません。デュゲイさんの言う通りなら、彼はアンジェラと一緒に主寝室に居るのでしょうか。


 こんな所に留まれる訳がありませんでした。歩いてでも下山して一人で帰らないといけないと、私は必死でした。小さいスーツケースの中身はほとんどマテオが買ってくれた洋服でした。


「も、持って来た食べ物は置いて行けばいいし、玄関のトレッキングブーツも上着も……」


 震える手で何とか私自身の持ち物だけを鞄に詰めていたところ、ドアをノックする音が聞こえました。私は恐怖で飛び上がりました。


「キャス、着替え中なのか?」


 デュゲイさんが追いかけて来たのかと思ったところ、それはマテオの声でした。


「え、ええ。ちょっと待って、い、今開けます……」


 その時の私はまともな思考ができる状態には程遠かったのです。デュゲイさんとマテオが二人で部屋に侵入してきたら私は男性二人相手に抵抗など出来るはずがありません。そう考えるとベランダに出て飛び降りてでもここから脱出する覚悟でした。


「急かすつもりはないが、俺も体が冷えたから早く入れて欲しい」


 マテオは一人のようでした。私はベランダへの出入り口を開け、逃げ道を確保してから恐る恐るドアを少しだけ開けました。確かにバスタオルを肩に掛けたマテオが一人廊下に立っているだけでした。私の顔を見てマテオは眉をひそめ、部屋に入るなり彼は後ずさりする私の頬に手をあてて心配そうな顔で尋ねました。


「キャス、どうした? 大丈夫か?」


「えっ? 何が?」


「顔が真っ青な上に泣いているじゃないか。それにシャツとジーンズがどうしてこんなに汚れているんだ?」


 マテオに言われて初めて服に土が付いているのに気が付きました。それに私は先ほどから涙を流していたのです。


「な、何でもありません……」


 歯の根が合わないというのはその時の私の状態を指すのでしょう、寒くもないのに震えが止まりませんでした。マテオが肩に掛けていたタオルで私の涙を優しく拭ってくれるのに、益々涙が溢れ出てきました。


「何でもないわけないだろ、本当にどうしたんだ、キャス?」


 未だに混乱している私はマテオに何と言って良いかさっぱり見当もつきません。


「すみません、マテオ……私、今すぐ帰らないといけなくなりました」


 声を喉から絞り出すようにそれだけ言いました。そして自分の鞄を取ろうとして反対方向を向いた私を振り向かせたマテオに両腕をつかまれました。


「キャス、帰るって何だ? ちゃんと説明してみろ!」


「そ、それは……」


 一瞬声を荒げたマテオに対して私が身震いをしたのが分かったのでしょう。彼は私の腕を放してくれました。


「ごめん、キツくあたるつもりはなかった……」


「あの、私は……いえ、何も言えないのですけれど、ただ急に帰宅しないといけなくて……申し訳ありません」


「なあ、キャス、俺にもう少し心を開いてくれてもいいのじゃないか?」


 マテオの心配そうな眼差しに、彼のことだけは信じたいと切に願いました。


「では言います、マテオは私にデュゲイさんの相手をさせるつもりでここまで連れて来たのでしょう? 今更ですが、お金のためにそんなことはできないと怖気づいたところなので帰らせて下さい! 失礼しますっ!」


 私は唇をわなわなと震わせながら一気にまくし立てると、急いで自分の鞄をひったくり、部屋から出て行こうとしました。


「キャス、ポールに何をされた?」


 再びマテオに腕を取られ、彼の方へ向かされました。私の体はまだガタガタと震えが止まらず、涙も再び流れていたように思います。


「裏の小屋に薪を取りに行ってくれとデュゲイさんに頼まれて、そこで二人きりになったのです……でも、私抱きつかれただけで……彼を思いっきり押し戻して、夢中で逃げてきました」


「ファ〇クーロ、ス〇ロンツォ! すまん。もういい、言わなくても。分かった。すぐに帰るぞ」


 マテオが怖い顔をしてののしりましたが、彼の手は私の髪を優しく撫でてくれています。私の涙は益々流れて止まりません。


「マテオはお仕事で来ているのでしょう、私が失礼を働いたことで影響が出ないといいのですけれど……私なら大丈夫です。徒歩で下の村まで降りますから。そこから何とか帰る手段を探します」


「田舎の小さな村にバスもタクシーもあるわけないぞ、高速バスが通っているのはニ十キロ以上先の町だ。それにもう暗くなる。山には熊が出る、危険だ」


「貴方の取引先の方の……な、慰み物になるくらいなら、熊や狼に襲われた方がましですから!」


「俺が君をこんな山の中に一人で放り出すと思うのか? もう何も言わなくていい、キャス。君を怖い目に遭わせてすまなかった。さあ、行くぞ」


 マテオはまだ水着のままでしたが、私の手を引いて車に先に乗せてくれました。それも別荘の玄関ではなく、二階の裏の出口からすぐに出て外の階段を降りたので、私がデュゲイ夫婦に顔を合わせることはありませんでした。


「中からロックして待っていろ。俺は他の荷物を持って来る。五分以上はかからない」


 マテオは本当に着替えもせず、水着のままで上にTシャツを着ただけで車に戻ってきました。憮然とした表情でエンジンをかけ、すぐに発車させました。


「マテオ、お二人に挨拶したのですか? あ、あの……」


「君が心配することじゃない」


「けれど……貴方の会社の契約がかかっているのでしょう?」


「キャス、俺が君に枕営業なんておぞましいことをさせると本気で思っているのか?」


 マテオが車のハンドルを契らんばかりの力で握りしめているのが分かりました。彼の表情は今までに私が見たこともないような険しいものでした。


「い、いえ」


「さっきから俺は自分自身に腹を立てている、君に対してじゃない」


 マテオはそう言いますが、私は居たたまれない気持ちでした。それからボードゥローに着くまでは二人ともほとんど無言でした。一旦車を停めて着替えるか、タオルを運転席に敷いたらどうか、という会話以外は口を開くことはありませんでした。彼が着替える時間くらい、私は待てたというのに、マテオは濡れた水着のまま運転をしていたのです。


 私はボードゥローのホテルに着くまでの時間、これから自分はどうするか、懸命に考えていました。マテオとの約束はまだ何日か残っています。しかし、あのようなことがあった以上、私が同伴し続けるのは不適切と思われました。


 それに今朝から月のものが始まったので、もうマテオの夜のお相手はできないのです。温室の修理代は何カ月も一年以上かかっても返していけばいいでしょう。


 田舎出身の平凡で善良な一市民の私は最初からマテオの提案をきっぱりと断るべきでした。


 あのような目に遭うことも、こんな気まずい後ろめたい思いを抱えることもありませんでした。それに、マテオ以外の男の人に体を触られるなんて絶対に嫌だと気付くこともなかったのです。




***今話の一言***

ファ〇クーロ、ス〇ロンツォ!

いわゆる 〇ー 〇ァoク 〇ア〇ルフ、 〇ス〇ール!と言ったところでしょうか。良い子は真似して言わないで下さい。


とりあえずデュゲイとグル疑惑は晴れたマテオさんですが……

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