第十一話 ぎこちない二人




 私が性病持ちかどうかマテオが今すぐ知りたいということは、感染の不安無しで行為に及べるのが待ちきれないのでしょう。


 私はのろのろとホテルのロビーの隅にある共用のパソコン前に座りました。私についてきたマテオはソファーに座って新聞を読みながら待っていてくれました。


 彼の言った通り、私に直接検査結果が送られてきていました。自身に覚えがまずないのですから、結果は予想通り陰性でした。リリアンの別荘に来てからしばらくインターネットに縁がなかった私ですが、他に大したメールもありませんでした。


「マテオ、私の結果をご自分の目で確認されますか?」


 私は少し離れた場所に居る彼に声を掛けると、彼はすぐに新聞から目を上げてこちらにやって来ました。


「俺の結果と全く同じだ。良かった。ほら、これも君に見せておこう」


 マテオは自分の携帯電話を取り出して彼のメールを見せてくれました。検査結果に一通り目を通した後、報告書の冒頭に記載されている彼の保険証番号をすかさずチェックしている自分が居ました。


 アルファベットと数字で構成されている我が国の保険証番号の振り方を知っている人間なら、それを見ただけでその人の生年月日と性別が分かるのです。医療従事者の間では常識でした。


 気になる彼の年は私よりも六歳上の二十八歳、誕生日は七月でした。もう少し年がいっているのかと思っていたマテオはまだ三十前なのでした。


 だというのに、彼は高級車も別荘もある暮らしが出来るのです。分かってはいたことですが、田舎の貧しい家出身の私とは全く違う世界で生きてきた人だと、改めて思い知りました。


 部屋に戻るために乗ったエレベーター内でマテオと二人きりになると、私たちは再びぎこちなさというか、気まずいような雰囲気に包まれました。私が意識し過ぎというわけでもなさそうです。


 隣同士の部屋の扉の前で、マテオがすかさず私の部屋の扉を開けてくれました。私の部屋の鍵もマテオは持っているのです。確かにホテル代も彼もちで、予約もチェックインも全てお任せなのですから当然でした。マテオの動きは私が鞄から鍵を出すよりも早かったのです。


「色々ありがとうございました……お休みなさい」


 そう言って頭を下げた私は、すぐに部屋に入ろうとしました。そうするとマテオも一緒に室内に入ってきて、彼は後ろ手で扉を閉めるとすぐに私を抱きすくめ、私の唇を奪いました。あまりに急で私はどうしていいかわからず、体を固くしてしまいました。


 それでも、びくびくしていたら彼の男性としてのプライドが傷つくと先ほど言われたばかりです。リラックスしろ、と心の中でしきりに自分に言い聞かせていました。


 今度は挨拶がわりの軽いものとは違い、恋人同士がするような熱くて甘いキスでした。彼の舌が優しく私の口内に侵入してくると、眩暈めまいを覚え、私は夢中で彼の背中でシャツを掴んで自分の体を支えていました。


「すまない」


 唇を離した彼に謝られてしまいました。


「い、いえ……少し驚いただけです」


 彼に触れられるのも、キスをされるのも嫌ではありませんでした。むしろもっと続けて欲しいとまで思えました。


 私も年頃の女子ですから、彼のような大人の男性に女として扱われて、悪い気はしませんでした。その先にももちろん興味がありました。即ベッドに押し倒されても無理のない状況だというのに、マテオはすまなそうな顔で何だか遠慮しています。


「嫌だったら俺の体を押し返して部屋の間のドアを閉めておいてくれ」


 そんなことを言う彼が少し可愛く感じられました。


「えっと、そんな……閉めませんけれど、マテオは私がこのドアを閉めても私の部屋の鍵をお持ちじゃないですか。意味がありません」


「君の言う通りだ。じゃあ、鍵は返しておく」


 マテオは部屋のカードキーを私の手に握らせました。私が軽く震えているのが彼に分かったかもしれません。


「まあ今晩のところは大人しく一人で寝るとするか。君の緊張がほぐれるまでもう少し我慢する。ブオナ ノッテ、キャス」


 そして彼は私の額に軽く触れるだけの口付けをすると、開け放された二部屋の間のドアから自分の部屋に入っていきました。


「お、お休みなさい……」


 私の囁き声はその本人には届いていなかったに違いありません。


 次の日の朝、ホテルのレストランでマテオと二人で朝食をとりました。


「俺は午前中ホテルに籠って仕事をする。午後は大事な用事があるが例の夕食前には帰ってくるから一緒に出掛けよう」


「はい。私、今日も旧市街に出掛けてみようと思っています。昨日のあのドレスを見に行く予定です」


「良かったらこのホテルのスパやエステも使え。美容院もあったはずだ。料金は部屋につけておけ。それから俺のカードも渡しておくから何でも欲しいものを買ったらいい」


 マテオは財布から真っ黒なクレジットカードを出して私の手に握らせます。美しいドレスを着るだけでなく、中身も何とか見られるようにしろと遠回しに言われているようです。


「はい、お気遣いありがとうございます」


 それでも無駄な贅沢にマテオのお金を使うなんてとんでもないことです。


 私は昼過ぎまで旧市街の美術館で時間を過ごし、一人で軽く食事をした後に昨日のお店に立ち寄りました。


 やはりあの黒いニットドレスは目を引きます。前身頃の模様は華やかなデザインで、細かい刺繍とアップリケがが黒地に映えています。肌の露出は少なくて、それに着心地も悪くありません。マテオから渡されたクレジットカードがありますが、悩んだ末に自腹で買いました。


 午後はホテルに戻り、シャワーを浴びて早速買ったドレスに着替えます。普段はしないお化粧も念入りにしてみました。眉にかかるくらいの前髪は横に流してピンで留め、後ろの髪はお団子にまとめました。この方が大人っぽく見えると思ったからです。


 マテオは午後、大事な用件で出かけると言っていました。それでも割と早い時間にホテルに帰ってきたようです。結局私は着替えている時以外、二部屋の間のドアを開けておくことにしていたので、彼が在室かどうか分かるのです。


「夕食は六時からダウンタウンだ。ああ、なんだ準備はもう出来ているのか?」


「はい。私はいつでも出かけられますよ」


 五時過ぎに私の部屋に顔を出したマテオは黒のスラックスにネクタイ姿でした。しかも仕事相手と会ったからでしょう、髭も剃って歳相応に見えます。


 マテオはこんなきちんとした恰好も普段着姿も無精髭があっても人目を惹いて素敵です。豪華ホテルの部屋でスーツの上着に袖を通している彼の姿はまるで映画の一シーンから抜け出てきたようです。私はこの彼の隣で大いに見劣りするに決まっています。


 遅れないように私たちは早めにホテルを出ることにしました。


「それ、良く似合っているな」


「このドレスですか? ええ、ほぼ一目惚れでしたが、そうおっしゃっていただけるとやはり良い買い物でした」


「キャス、昨日も言っただろう。会食相手の前で俺に敬語や丁寧語を使おうものならその場ですぐその口を塞ぐからな」


 マテオの顔がぐっと近付いてきて、キスされそうになりました。経験を積んでいない私は『それってセクハラ発言ですよ!』なんて軽くかわせるはずもなく、また再び身体を固くして突っ立っていただけでした。


「あっ、そうですね、頑張ります……ではなくて、私頑張るから、マテオ」


 頑張ると言ったものの自信がなかった私です。マテオはニヤニヤしながら私の頬を軽く撫でた後、その手で私の腕を取り、慣れた仕草でエスコートしてくれます。


「まあな、俺が食事の場に連れて来るくらいだから君のことは当然恋人だと思われるだろう。あまり不自然な態度をとるなよ」


「こ、恋人、やはりそうなりますよね。ハイッ!」


「だからその体育会系の返事もやめろ」


 今度は立ち止まったマテオに腰をぐっと引き寄せられ、一瞬唇に口付けられてしまいました。


「えぅっ、あっ、あの……」


 唇が離れた後、私は動揺で目をぱちくりさせるだけで、赤面した上にその場で動けなくなってしまいました。ホテル一階のホールのど真ん中という公共の場でした。そんな私はニヤニヤ顔のマテオに手を引かれて、ホテルの正面玄関から出て車に乗せられました。




***今話の一言***

ブオナ ノッテ

お休みなさい


おお、マテオさんいつもキス止まりで紳士なところを見せています。カサンドラの心の準備が出来るのを待つと言っていますが……

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