第十話 気になる検査結果
注:この回でも登場人物がお酒を飲み、その後車を運転する場面があります。彼らが住んでいるヴェルテュイユ国での酒気帯び運転と見なされる呼気アルコール濃度値が少々高めという設定です。ですから付き合いで一杯飲んだくらいでは飲酒運転とは見なされません。決して飲酒運転を奨励しているわけではありません。再び注意を喚起します。
******
マテオは私の腰に軽く手を当てたまま、レストランが何軒か並んでいる石畳の道を進んで行きます。
「キャス、この店なんかどうだ? 今日の気温だと外の席の方が気持ちいいだろうな」
彼が微笑みながら私を愛称で呼んで見つめるので、不覚にもキュンとときめいてしまいました。
「そうですね。日差しももうそれほど強くありませんし」
私はマテオに腰を抱かれたまま、テラスがある小さなレストランに入りました。暑い夏の日でしたが、夕方からは少し涼しくなっています。私たちは迷わず外のテラスの席を選びました。
マテオがビールを頼むと言うので私も誘惑に負けて一杯だけ付き合うことにしました。歩き疲れた体に冷えたビールがしみわたります。マテオはオッソブーコに赤ワインを頼み、私は魚介類のペンネにしました。
「飲み物はいいのか?」
「ええ、まだビールが残っていますし、後はお水で結構です」
料理を待っている間、マテオに聞いてみました。
「フォルリーニさん……いえ、マテオは外食もイタリア料理がお好きなのですね」
「なんだかまだ堅苦しい喋り方だな」
「明日の夕食会でご一緒する方々の前で貴方と親し気にすればいいだけですよね。普段はやっぱり……私は貴方と雇用関係にあるわけですし」
「まあ急に慣れろとは言わないが……」
「はい、本番では上手に振舞ってみせますから」
「で、俺の好みだが、別に旨い店なら何料理でもいい。この店だって出しているのはイタリア料理だけじゃないだろ。それにイタリア系だからって皆が皆、家で連日イタ飯ばかり食っているわけじゃない」
「えっ、マテオはピザの生地を空中でくるくる回せないのですか? トマトソースをリットル単位で作り置きしないのですか?」
「それはイタリア人に対する誤った認識だ」
フォルリーニ一族であるマテオは生まれた時から据え膳上げ膳の生活で、自分が厨房に立つようなことはないだろうと、言ってしまってから気付きました。
「君の家族は生粋のヴェルテュイユ人なのか?」
「はい、そうです」
「だったら豚や鶏をまるごと
「え、確かに……祖父母の代までです」
私たちの住むヴェルテュイユの国は昔から酪農業が盛んな国でした。私の祖先も故郷で農地を耕していましたし、今も実家には広い畑があります。
「それでも祖母や伯母はトマトソースを作っていたな。家族が集まると食べきれないくらいのラザーニャを用意するんだ」
マテオとこんな話をするのは単純に楽しめました。
「まあ、ラザーニャですか。私、ラザーニャはどうしても大きくて茹でにくそうで、ハードルが高くて家で作ったことはないのです。今度挑戦してみようかしら」
「久しぶりに伯母のラザーニャが食いたくなったな……」
「伯母さまとはナンシーのことですか?」
「ああ、彼女の料理は絶品だ」
私はそうしてナンシーのことを思い出し、懐かしい気分に浸っていました。リリアンの別荘から子供たちを連れて散歩をして近所の公園に行くと良く彼女に出会っていました。その度に気さくで陽気なナンシーとお喋りをしていたのです。
「あの別荘近くの公園でナンシーに度々お会いしていたのです。他愛無い世間話をして、彼女は子供たちとも遊んでくれました」
「伯母は社交的だからな。誰とでもすぐに仲良くなれる」
「私、隣家がフォルリーニ家の別荘だとは聞いていましたが、まさかナンシーとお隣同士だったとは思いもしませんでした。見た目で人を判断してしまいがちで、その……」
「君の言いたいことは分かる。伯母は普段はいつもあんな感じだからな」
「マテオは私とナンシーが顔見知りだとご存知でしたよね。彼女からお聞きになっていたのですね」
「ジウスト……まあ、な」
そこでマテオは言葉に詰まり、照れてはにかんだような、私が初めて見る表情を浮かべました。
「実は伯母からカサンドラという若い女性と仲良くなったと教えてもらっていた」
「そしてある日その女性が子供たちと一緒に温室を破壊したことを白状しにやってきた、というわけですか」
「そういうことだ」
「それでも、ナンシーがちょっと口にしただけの私の名前を覚えているなんてマテオは流石ですね。そのカサンドラとあの別荘を子供たちと訪ねてきた私が同一人物だとすぐにお分かりだったということも」
マテオは未だに私から目を逸らしていて、もしかしたら赤面しているようです。私が知る限り、お酒に強い彼ですから、もう酔ったとも思えません。
「それはまあ、君の名前は割に珍しいし……」
「そうですね。今まで同じクラスにも学年にもカサンドラは私一人しか居ませんでした」
時代によって名前には流行り廃りがありますが、私の名前はどの年代にもそう多くない名前なのです。
今日の夕食ではマテオと今までになく話が弾んで、彼のことをもっと知り得たような気がしました。先程私が気になるドレスがあった店に夕食後行ってみると既に閉店していたので、明日の昼間に出直すことにしました。
ホテルまでの帰り道、車の中でマテオが
「えっと、その……先程昨日の検査が送られてきた。俺は全て陰性、容疑は晴れたわけだ」
「そんなに早く結果が出るものなのですね。私の結果はどうでしたか? 私、性病にかかるようなことはまずしていませんけれども」
紛れもない事実でしたが、そう言ってから何となく後悔しました。今は交際している人も居なくて、そっちの経験がほぼ皆無なのは自慢できることではありません。
一年ほど前、学部生の時に唯一付き合っていた彼とは長続きしませんでした。私が勉強とアルバイトで忙しくしていたことが原因でした。
「キャス、君の検査結果は君自身に送られてくるに決まっているだろう?」
「貴方に言われて検査に行ったから、貴方の所へ連絡が行くのだとばかり思っていました」
「こればかりは個人情報だから、本人以外には知らされない。電子メールをチェックしてみろ」
マテオはビジネスマンですから携帯電話を持っています。そこからインターネットに接続できるのでしょう。最近は便利な機具があるものです。
「確かホテルのロビーに共用のパソコンがありましたね。早速見てみます」
「すまない。携帯でデータ通信が出来ないのはともかく、君がノートパソコンも持っていないとは思っていなかった」
「確かに私もそろそろ自分専用のパソコンが必要かなと思っているのです」
大学からロリミエに出てきて叔父夫婦の家に居候している私は、パソコンも叔父のものを時々借りるか、大学のパソコンを使っています。マテオに気を遣われるのも嫌ですし、実は携帯電話も持っていないとはとても言えませんでした。
それからホテルに着くまで少々気まずい沈黙が流れました。ホテルの地下駐車場からエレベーターに乗り、私は一階のボタンを押しました。
「私、ロビーに寄りますので……マテオはこのまま先にお部屋に戻って下さい」
「メールを見るなら俺のパソコンを貸すが……」
「いえ、そんなマテオの個人用パソコンを使うだなんて、とんでもないです」
慌てて断りました。他人のパソコンを使うことに遠慮がありました。それにマテオの部屋で二人きりになるのにも抵抗がありました。しかもつい先ほどまで車の中で性病検査の結果について話していたのです。その時から私たちの間にはぎこちなさが漂っていました。
「じゃあ俺もロビーで降りて付き合おう」
「パソコン音痴な私ですけれど、電子メールくらいなら一人でもできると思うのです」
ついて来るなとも言えず、私は思わずそんな冗談を口にしていました。
「いや、君の検査結果が気になるから」
マテオを追い払うことは不可能のようでした。
***今話の一言***
ジウスト
正しい、そうだ
遂に運命の検査結果発表ですってカサンドラは陰性に決まっているじゃないですか……ということは今晩決行なるか!?
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