第四話 思いも寄らない提案




「それで君は子守り代をいくら貰っているんだ?」


 レストランに入ってからというもの、マテオから質問攻めに遭っている気がします。ここは素直に答えるべきか迷いました。私がいかに安い賃金で働いているか、豪華な別荘に高級車を何台も持っているこの男性に言うのは躊躇ためらわれます。


「それは、その……」


「別に言いたくないならいいが、君のその様子からは二十四時間束縛されているにしては十分な賃金を貰っていないと見た」


 マテオの金銭感覚ではどのくらいの額をもって十分とみなすのか、見当もつきません。


「住み込みの時は、一日……七十ピアストルです」


 私はそう答えるとうつむいて、私の履き古したジーンズの太ももの上に置いた荒れた両手を眺めていました。私がそれだけしか価値のない、仕事の出来ない人間に思えてきました。


「カサンドラ、現金支給で税金を取られないとしても、最低賃金にも満たないじゃないか。友人のよしみでとしても君には割が合わないだろう」


 マテオはどうして私が雇い主のリリアンと友人関係にあると知っているのか、その時の私は疑問を抱くほど心に余裕がありませんでした。


 裕福な彼が現在の最低賃金や、子守り代の相場も知っているとは驚きです。


「フォルリーニさんのおっしゃる通りです……」


 マテオのような人に私は世間知らずで人が良いだけの詰めの甘い人間だと思われたに違いありません。こんな私を上手く言いくるめて修理代をせしめるのは彼にとって簡単なことです。


 早く金銭の話をしましょうと彼に促そうと口を開きかけたところに、ブルスケッタにオリーブとチーズの盛り合わせが運ばれてきて、テーブルの真ん中に置かれます。


「とりあえず食べろ、腹が減っているのだろう。俺が一人で食っているのをジロジロ見られていても居心地が良くない」


「はい。正直申しますと私もお腹ぺこぺこです。いただきます」


 私はマテオが頼んでくれたものをつまみながらワインを少しずつ頂きました。


「それで、君の本業は子守りではないのだろう?」


「はい。あの子たちの面倒を毎日見るのは夏休みの間だけで、栄養学科の学生です」


「ということはロリミエ大学か、それとも?」


「ええ、ロリミエの学生です」


 私は学士過程を終えたところで、九月の新学期からは大学院生として学問を続ける予定でした。


「将来の管理栄養士様にしてみればこんな時間に夕食をとるのはよろしくないよな。もう夜八時を過ぎている」


 私が遅れたことを根に持たれているのでしょうか。


「今晩は私が遅くなったのが原因ですし……」


「いや、別に君を責めている訳ではない」


 そこでマテオはふっと笑いました。私たちのせいで昼間から厳しい顔の彼でしたが、こんな柔らかな表情も出来る人なのです。


 それから食事が運ばれてくるまで、マテオは続けて大学の話などで私に質問し、それに私が答えていました。気付いたら彼との会話を楽しんでいる自分がいました。それでも束の間の現実逃避だということは分かっています。


 私が頼んだ夏野菜のサラダは結構な量でした。マテオのステーキから食欲をそそるいい匂いが漂ってきます。私もサラダに手をつけました。


「さて、君に提案がある。仕事と休暇も兼ねて、俺は来週からボードゥローに十日間ほど行くのだが、その時に君に同行してもらいたい。もちろん謝礼は払う」


 彼が意外なことを言い出しました。ボードゥローとはこの国の首都で、この街から車で二時間ほどの所に位置しています。


「ああ、家政婦、それとも子守りが必要なのですね?」


「いや、子供は居ない。何と言うか、個人的なコンパニオンだな。滞在費、食費等の必要経費は全て俺が払う。給金は一日二百ピアストルでどうだ? あの温室にいくらかかるか分からないが、釣りがくるのは確かだ。悪くない話だろう?」


 思ってもみなかった提案でした。しかも報酬は破格で魅力的です。しかし、上手い話には絶対に罠があるのです。マフィアなどに少しでも関わりを持って抜け出せられなくなる前に、怖くても頑張って今拒否するべきと勇気を奮い起こしました。


「い、いくらお金が必要でも、密輸した麻薬や武器を売るとか、もしそんな違法行為ならとても出来ません。申し訳ありません。地道に働いてお返しします。とりあえず後付け小切手を切りますので、不足分は後ほど請求して下さい」


 私は震える手で鞄から小切手帳を取り出そうとしました。


「君は何か誤解しているようだな。俺は建設業界で働いている真っ当な人間だ。人を見かけと噂で判断するな」


 泣く子も黙る恐ろしい表情でそんなことを言われてもあまり信じられないのが本音です。


「では貴方のおっしゃる、コ、コンパニオンとは具体的に何をするのですか? 秘書、運転手、コック、家事手伝い、要するに雑用係という意味でしょうか?」


「ホテルに滞在するから料理も掃除もしなくていい。ただ俺の旅行に一緒について来て欲しいだけだ」


 それでも仕事内容が良く分かりませんし、子守りの仕事をいきなり辞めるわけにもいきません。


「話し相手がお要りなのですか? 私は話題も豊富ではありませんし、ただ相槌を打つだけです。恥ずかしながら英語は日常会話程度で、他の外国語も話せませんから通訳も無理なのです」


「いや、話し相手にはなってもらうが通訳は必要ない」


「あ、でしたら貴方が暴飲暴食や喫煙をしないように見張る役ですね? それなら出来ます。栄養管理なら任せて下さい」


「俺は煙草は吸わないし、深酒もしない。もちろんクスリもやらない。それに自分が何をどのくらい食えばいいかくらいは分かっている」


 とりあえず思いつく限りのことを並べ立ててみましたが、どうも違うようです。マテオは顔にニヤニヤ笑いを浮かべて、何故だかとても楽しそうです。


「あの、就業条件がまだ良く分からないのですが……」


「要するに俺の旅行に同行して一緒に食事して話し相手になって、夜はそっちの欲求を満たしてくれればいいだけの簡単なお仕事だ」


 私はマテオの言葉を理解するのに数秒を要しました。ポカンと口が開きっぱなしになっていたに違いありません。


 私の前に座っている彼は、黒髪に瞳はほとんど黒に近い茶色で、彫りの深いハンサムさんです。少し日に焼けて逞しい体からは男性フェロモンをこれでもかというくらい出しています。彼がフォルリーニ一族でなくても大層もてるだろうということくらい分かります。


 こんなみすぼらしい、胸も貧相な、化粧っ気も女らしさの欠片もない私に借金を体で払え、と彼は提案しているようなのです。たで食う虫も好き好きと言いますが、人の好みや性癖は分からないものでした。


「あのう……恥ずかしながら、よ、夜のお勤めも……私は得意ではなくて、と言うよりも苦手なのです。私には簡単ではなくて……荷が重すぎますから他をお当たり下さい」


 赤面しているのが自分でも分かりました。私はカチンときたよりも混乱していると言った方が正しいでしょう。


『いくらお金に困っていても誰とでも寝るような女だと見くびられたものね!』


 そんな啖呵をカッコよく切って彼の傲慢な顔に赤ワインでも水でもかけて店をさっさと出て行くような度胸なんて、気の小さい私にはとてもありません。マテオの車でこの麓街まで連れて来られた私は、山の上にあるリリアンの別荘まで帰る手段もないのです。


「ははっ、君が力不足かどうかは試してみないと分からないじゃないか」


 マテオは大きく目を見開いた後、笑い始めました。


「あ、分かりました。貴方は自ら服を脱いで寄って来るグラマーでセクシーな美女に食傷気味なのですね。怯えて嫌がる女性を無理矢理服従させるのが趣味で、肉体的苦痛を与えることに悦びを覚える方ですか? それとも、奥さまや恋人にはまず頼めないような特殊な行為を試してみたいとか? いくら借金を負っているとはいえ、そういうのも無理です、申し訳ありません!」


 経験は皆無に等しい私も、親友のリサとアン=ソレイユのお陰でかなりの耳年増なのです。


「ガッティーナ、さっきからやたら想像力がたくましいな。色々とツッコミどころが他にも多いが、とりあえずこれだけは言っておこう。俺は独身だし、特定の恋人も今現在居ない」


 マテオの笑顔に心臓がドキドキと早く鼓動し始めたことは絶対彼には内緒です。




***今話の一言***

ガッティーナ

子猫ちゃん


カサンドラの超天然ぶりが大炸裂するの巻でした。

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