第五話 子守りからの脱却




「と、とにかく修理費はなるべく早くお返しするようにします。フォルリーニさんのご提案は辞退させて下さい。私は子守りの仕事を放り出すわけにはいきません」


「隣家の子守りは心配するな。俺が話をつけてやろう」


 マテオがリリアンと懇意にしているとは思えません。いきなり彼がリリアンを訪れて、私を家政婦兼夜の相手として雇うことになったなどと言った時のことを考えると頭を抱えたくなりました。後が非常に面倒臭そうです。


「いえ、そ、それだけは……」


「俺に任せておけ。とにかく君に選択肢はないからな。大学が始まるのはいつだ?」


 私が子供たちをちゃんと見ていなかった責任を負わないといけないのは分かりますが、何とも強引すぎます。


「……八月の終わりからです」


「では、明後日の土曜日から二週間の予定でいいな。その後、ロリミエに一緒に帰ろう」


 威圧的な態度でマテオは有無を言わせず勝手に決めてしまいました。


「そ、そんな……」


「ところで伯母があの別荘にしばらく滞在していたのだが、君に大層親切にしてもらって世話になったみたいだな」


「伯母さま、ですか?」


 私はマテオ以外のフォルリーニ一族を知りませんから心当たりがありません。


「ああ、伯母のナンシー・フォルリーニだ。炎天下を散歩中にサンダルの紐が切れた時、君に世話になったと言っていた。それから時々彼女の話し相手になってくれていただろう」


 ナンシーは私が子供たちを近所の公園で遊ばせている時によく見かけていました。陽気で気さくな彼女とはお喋りをすることも多かったのです。そう言われてみれば、ナンシーもイタリア人らしい顔つきをしています。


 マテオはナンシーから少し聞いていただけで、私のことを彼女が話していた人物だと認識したようです。


「まあ、ナンシーがフォルリーニさんの伯母さまだったとは存じませんでした。最近お見かけしませんが、お元気にされていますか?」


「ああ、もうロリミエの家に帰っている。伯母が君のことを近所に滞在している子守りの学生さんと言っていたから、それで思い当たった」


 ナンシーからはそんなお金持ちの一族という感じは全然受けませんでした。いつも着古したTシャツか、木綿のワンピースだったのです。私たちは会う度によく話をして、いつも会話が弾んですっかり仲良くなっていました。ナンシーの身の上話も聞きましたが、主に昔のことばかりでした。


 自分の子供たちはもう巣立ってしまって肩の荷が降り、今はもっぱら甥御さんの心配をしているとのことでした。まだ独身で仕事ばかりしている彼が良い相手を見つけてくれるといいのに、と言っていました。マテオのことかもしれません。


 私もマテオも食事を終えると、給仕にデザートとコーヒーを勧められました。


「折角だが、これ以上食べられそうにないからやめておく」


「私も結構です」


「そろそろ帰ろう」


 いつの間にかマテオが会計を済ませてくれたので、私は自分の食事代を現金で彼に払おうとしたところ、受け取ってもらえませんでした。


「俺が誘ったのだから」


「ありがとうございました。ご馳走さまでした」


 帰りの車の中で私はこれからの予定を聞かされました。


「明日、君の雇い主である隣家の奥さんに話をつけて、その後君の身柄を確保したら連れて行くところがある。今晩中に荷物をまとめておけ。明日の夜はうちに泊まればいい。ボードゥローに出発するのは明後日にしよう」


「そんなに急にですか?」


「何か不都合でも? 君は断れない。温室の修理費も、二週間の生活費も心配しなくて良い上に、収入は現在の二倍以上だぞ。何度も言わせるな」


「は、はい」


「それから、同意もないのに君を無理矢理どうこうして痛めつけるつもりもない。君の言う変態プレイとやらには、まあ大いに興味もあるが、君が嫌がることは絶対にしない。安心しろ」


 勝手に話を進めるマテオですが、やはり私は不安になってきました。彼が私に何を求めているのか不明でした。旅の間の気晴らしに私を連れ回しても、私は彼の要望に沿えて満足させられるとは到底思えません。会話も豊富でないし、あっちの経験も無きに等しいのです。


 マテオは二週間と言っていました。それでも、任務の途中で解雇されて放り出されたらそのままロリミエまで帰ればいいだけです。借金は地道に返せばいいのですから、私は腹をくくることにしました。


 私は田舎町の兼業農家に生まれ、敬虔で信心深い素朴な両親の元で育ちました。大学から大都会ロリミエに出てきて、奔放に恋愛を楽しんでいる級友たちをうらやむこともありました。


 しかし、私自身は勉強やバイトで忙しくてあまりそんな暇もありません。いくらお金に困っても体を売るなんてとんでもないと今までは思っていましたし、現在もこれからもそれは変わりません。


 その日の夜はろくに眠れませんでした。マテオにいいように言いくるめられてしまいましたが、こんな愛人まがいのことはできないともっと毅然とした態度で断るべきだったのかもしれません。しかし、温室の修理代をすぐに捻出できないのも現実でした。私は未だに迷っていました。


 子供たちは朝早くから起き出します。彼らを着替えさせ、朝食を食べさせて私も軽く食事をとりました。その日、リリアンは私が子供たちと朝の散歩に出掛ける九時頃に起きてきました。


 丁度そこで玄関の呼び鈴が鳴りました。私が出てみるとそれはマテオでした。彼が朝一番に来るとは思ってもみませんでした。まだ涼しい時間帯だとは言え、上下ともに黒で何とも暑苦しそうな姿です。


「ボンジョルノ、カサンドラ」


「お、おはようございます、フォルリーニさん」


「君の雇い主に話している間に荷物を出しておけ、いいな」


 昨日の提案は変更もなく、まだ有効のようでした。


「けれど……」


「君が心配することはない、大丈夫だ」


 強引なマテオは力づけるように私の肩を軽くぽんと叩きました。彼はそう言いますが、私にとっては大丈夫なわけがないのです。


「ではあの、今リリアンを呼んで参ります」


 まだ寝間着のままのリリアンは台所でコーヒーを淹れています。子供たちは居間でした。


「リリアン、貴女にお客さまがお見えよ」


「朝っぱらから何なのよ、私は手が離せないから用事を聞いておいて」


 起きたばかりで彼女の機嫌はあまり良くなさそうでした。


「それでもリリアン、そのお客さまというのはお隣のマテオ・フォルリーニさんなのだけど……」


「何ですって!? どうしてそれを先に言わないのよ、とりあえず急いで着替えるわ!」


 彼女は慌てて二階に駆け上がって行きました。


「リリアンはすぐに来ます。もう少々お待ちください」


 マテオを待たせるのは悪いと思ったのか、彼女は化粧もせずに綿のワンピースを着ただけで出てきました。


 私は彼がどうやってリリアンを説得して私をここから連れ出すのか気になりました。いえきっと、説得ではなく、あの無精髭の怖い容貌でどすの効いた低い声で脅すに決まっています。それでも私が出しゃばるわけにもいかず、居間の子供たちを見ていることにしました。


「まあ、フォルリーニさんいらっしゃいませ、どうぞ散らかっておりますけれどお上がりください」


「いや、それには及ばない。ここで手短に済まさせてもらう」


 そして私は五分も経たないうちに玄関先のリリアンに呼ばれました。


「カサンドラ、フォルリーニさんがお呼びよ」


 彼女の表情は微妙なものでした。


「は、はい!」


「マドモアゼル・デシャン、さあ行くぞ。荷物を持って来い」


「えっ、今すぐですか? これから子供たちと朝の散歩に出掛ける予定なのですが……」


「君の雇い主も了承したことだし、別にここに残る必要はない。子供たちは母親が散歩に連れて行けばいいだろ」


「はい、それでは」


 私は部屋にまとめていた荷物を取りに行きました。と言っても小さな旅行鞄とリュックサックだけです。


「荷物はそれだけか? そっちの鞄を持とう」


「あの、子供たちにお別れを言ってきてもいいですか?」


「もちろんだ」




***今話の一言***

ボンジョルノ

お早う、こんにちは


ヒロインのカサンドラ、暑苦しい黒ずくめのマテオによって隣家から救い出され、いえ拉致されました。彼女の運命はいかに?

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