第三話 夕食への招待
注:この回では登場人物が車で食事に行き、お酒を飲む場面があります。彼らが住んでいるヴェルテュイユ国での酒気帯び運転と見なされる呼気アルコール濃度値が少々高めという設定です。ですから付き合いで一杯飲んだくらいでは飲酒運転とは見なされません。決して飲酒運転を奨励しているわけではありません。とりあえず注意を喚起します。
******
「君は全くもって気が強いんだな、シニョリーナ」
ニヤニヤ笑いながら一歩一歩私に近付いてくるこの男の人に殴られるかと思わず目を
その代わり、私の頬に温かい何かが当たりました。ビクッとして恐る恐る目を開けてみるとそれは彼の手でした。何故かこの状況で彼は不敵な笑みを浮かべて私の頬を撫でているのです。
よほど後ずさりして避けたい気持ちが大きかったのですが、
「君の仕事が終わるのは何時だ?」
「そう、ですね……子供たちがお風呂に入って、歯を磨いた夜の七時くらいです」
「だったらその後、話し合いの場を設けることにするか」
一介の子守と話し合うまでもなく、ただ請求書を隣家に送れば済むものですが、この切羽詰まった事態に私は思考が働いていませんでした。
「承知しました。こちらのお宅に伺えばよろしいでしょうか?」
「ああ、マテオ・フォルリーニだ」
「カサンドラ・デシャンと申します」
状況はどうであれ、初対面の相手とは握手をするべきなのでしょうが、生憎ガビーを抱っこしている私は両手が塞がっています。お会いできて光栄ですと言うのもお互いの立場を考えると相応しくありません。
「では、今晩七時頃に参ります」
彼が門を内側から開けてくれて、私は屋敷を去りました。その日の午後は気付いたら私はため息ばかりついていました。リリアンが帰宅したのは子供たちが昼寝中でした。
「今日は良く歩いたから疲れたわ」
小さい子供が居ると何もかも予定通りには運びません。夕方になると子供たちに食事をさせ、お風呂に入れ歯磨きをさせました。七時にマテオと約束をしている私は自分が夕食を食べる暇もありませんでした。
私は昼間のジーンズはそのまま履いて行くことにしました。それでも上だけは子守りをしている時に着ているよれよれのTシャツではなく、少しは見られる綿のブラウスに着替えました。乱れたポニーテールも
「リリアン、私ちょっと出かけてくるから」
「は? こんな時間にどこに行くって言うの?」
「散歩」
今日起こったことを話す気にもなりませんでした。リリアンの留守中の事件を彼女に嗅ぎ付けられると非常に面倒なことになりそうでした。
サミーの口から知れるかもしれないと考えていましたが、彼はそこまで
出かける前に鏡で自分の姿を見てみました。着替えたとは言え、これから敵対する相手にしてみれば質素な装いには変わりないでしょう。それでもリリアンにはただの散歩と言った手前、化粧をしたり身だしなみを整えすぎたりして怪しまれるわけにもいきません。
「帰ったら洗い物して洗濯物畳んでよね!」
私の背後でリリアンが叫んでいました。
「私は子守りであって、家政婦じゃないわよ、全く……」
同郷のよしみで私はちょくちょくリリアンのところで子守りをしています。私の実家がある町はとても小さい集落で、まだそこに住んでいるお互いの家族の繋がりを大事にしないといけません。そんなしがらみがある故、私はただ同然の報酬でリリアンのために働いているのです。
私がフォルリーニ家の呼び鈴を鳴らした時には七時をとっくに過ぎていました。
「カサンドラ・デシャンと申します。フォルリーニさま、マテオ・フォルリーニさまと約束をしている者です」
「お入りください」
今回、門は自動で開きました。私が玄関前まで進むとマテオ本人が出迎えてくれました。
「こんばんは、ムッシュ・フォルリーニ、遅くなって申し訳ございません」
「子守の仕事もなかなかの重労働みたいだな」
先程とはうって変わって彼の態度は割と柔らかくなっています。
「そうですね。肉体労働とも言えますわ」
「夕食はもう食べたか? そうだとしても、話し合いのために付き合ってもらう。
一瞬、何を言われたから分かりませんでした。天下のフォルリーニ家の一員が私を食事に誘っているようです。
「食事は、まだです。けれど、お夕食のために外出されるのでしたら……私との用件はさっさと済ませて、その後にされては?」
黒いシャツにスラックス姿のマテオは上着を手に持っており、これから出掛けるつもりなのです。
「マドモアゼル・デシャン、君は私に指図できる立場にはいない。さあ、行くぞ」
私は無理矢理彼に手を引かれ、豪邸の脇にある広いガレージに連れて行かれました。車のことは全く知らない私でも、一目で高級車だと分かる白いスポーツカーの助手席に押し込まれてしまいます。
そしてマテオの運転で私たちは麓の小さな街にあるレストランに着きました。
夏の間は特に避暑に訪れる観光客や別荘の住人が多いこの街です。レストランでも私のようなラフな格好の客もちらほら居て、ホッとしました。私の方が黒ずくめのマテオよりも避暑地のレストランには上手く溶け込んでいるとも言えました。
マテオは予約まで入れていたようでした。今晩の約束をした時点で彼は私を食事に連れて行くことに決めていたのでしょうか。
係の人が
「酒は飲める方なのか?」
「
手持ちの現金を全て持って来ましたが、温室の修理代を少しでも払う前にここの食事代で半分は消えてしまいそうでした。
「それはまあそうするが、一杯くらいは付き合え」
マテオの口調は有無を言わさぬものです。
「……はい、それでは頂きます」
マテオは給仕の男性とワイン談義をしばらく続けた後、赤ワインを注文しています。
私は空腹で目が回りそうでしたが、これから彼に突きつけられる温室修理代の支払いを考えると食事なんて喉を通りそうにありません。それでもメニューを見てサラダを注文しました。
「菜食主義者なのか、それともダイエット中か?」
グリルした鶏肉や鮭をサラダにつけるという選択もありましたが、食欲が無い上に値段が倍増するのでやめただけなのです。
「いえ、夜遅くにあまり食べないようにしているのです。子供たちと一緒の時は割と早い時間に食べますしね」
「あの子たちの面倒を一日中みているとすると、勤務時間は何時から何時まで?」
マテオは私の何が知りたいのか、社交辞令で聞いてくるにしても、彼の興味を引くような話題でないことだけは分かります。
「そうですね、子供たちが目覚めてから眠りに就くまでです」
「住み込みなのか? 彼らが夜中に起き出したらそれも面倒を見るのは君か?」
子守りの仕事についてそんな詳細をマテオに尋ねられるとは意外です。歳は三十前後であろう彼は子育ての経験があるようにも、妻子持ちにも見えません。それでも、所帯じみたところを隠すことに長けた男はいくらでもいる、というのが親友リサの口癖でした。
「ええ。何と言うか、私は眠りが浅い方なので必ず母親のリリアンよりも先に起きてしまうのです」
ワインとパン、マテオにはスープが運ばれて来ました。
「ブオナペティート」
「彼女に何かつまむものでも持ってきてくれるか?」
「畏まりました。ではブルスケッタはいかがでしょうか?」
給仕の男性がそう提案しています。
「いいね」
私は咄嗟にそんな必要はないと言おうとしましたが、マテオの返事の方が先でした。そして給仕の彼はもう厨房に戻って行ってしまいました。
「あの、お気遣いいただいて……ありがとうございます。冷めないうちにどうぞお召し上がりください」
私はマテオに食事を始めるように勧めました。
「じゃあ遠慮なく。実はもう腹ペコだ。ああ、その前に乾杯」
「え、ええ。乾杯」
何に乾杯すればいいのか不思議に思いながらグラスを上げました。私が何とかマテオが請求する額を払えて、温室がきちんと修理されることを願いました。
***今話の一言***
ブオナペティート
美味しく召し上がれ、どうぞお召し上がりください、お食事をお楽しみください。
さて、何故か二人は食事に……カサンドラによるとリゾート地では黒ずくめのマテオさんは浮きまくっているそうですが……とにかく彼の出方が気になるところです。
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