第10話 生物の定義

 クリスティーナ・メルツは、自分の研究室でコーヒー片手にWeb会議に参加していた。いや、正確にはビデオ会議だ。インターネットはもう存在しない。


「で、成果は? ……その調子じゃ、上がってないようね」

『お手上げだよ』


 通話の相手は久本ひさもと裕司ゆうじ。言葉通りに両手を上げている。


『機材が少なすぎてろくな解析ができやない。核磁気共鳴装置N M Rさえないんだぜ? 赤外線分光I Rだけじゃ蛋白質たんぱくしつ構造の同定なんて無理だ。大体、生物なまものは俺の専門じゃない』


 大学が黒スーツたちに襲われて自衛隊の基地に逃げ込んだ生物学者で、必要に駆られて黒スーツたちの生態の研究をしているが、専門は製薬の計算科学シミュレーションだ。運良く研究施設のある基地だったため何とか続けられているものの、未知の生物スライムの相手は手に余った。


『前も言ったように、連中はO酸素の代わりにS硫黄を基盤としているらしいってことしかわからない。多細胞ではない。じゃあ体全体で一つの単細胞生物なのか思えば、核がない。というか、原核生物ですらない。遺伝子がないんだ。DNAもRNAも』

「生物とは言えないわよね」

『そうだ。生物の定義は「自己複製能力」「エネルギー変換能力」「自己と他者との明確な隔離」の三つだ。連中はこれら全てが欠けている。遺伝情報がないから自己のコピーを作ることができない。食料を代謝する能力もない。二体のスライムを接触させれば完全に混ざっちまって、合体させればロールプレイングゲームR P Gのボススライムが簡単にできちまう』


 久本は肩をすくめた。


「でもそれは、酸素との過剰反応が起こった後のことでしょう?」

『まあな』


 スライムたちは、空気に触れると体を構成している分子の中の硫黄が、硫黄よりも活性の高い酸素に置き換わって分子が壊れ、それによって活動停止する――スライムたちを生物と仮定するならば「死に至る」――ところまではわかっていた。


 だから弾丸一発で簡単に倒せる。スライムにとっては、かすり傷一つが致命傷だった。黒いスーツはステルス性や形の保持よりも、空気中の酸素から身を守るためというのが一番の目的なのだ。


『せめて生け捕りにできりゃあなぁ』


 久本はぎしっと椅子の背もたれに体を預けた。


 迎撃するだけでいっぱいいっぱいの現状では、生け捕り作戦などなかなかできるものではなかった。罠を張って捕えたこともなくはないが、そうするとスライムたちは自死してしまうのだった。


『で、そっちはどうだ?』

「こっちもてんで駄目。本国の方も目立った研究成果はなし」


 ふぅ、とクリスは鼻から息を漏らした。


 クリスはアメリカ軍所属の物理学者で、主に兵器の開発を担当していた。自衛隊と共同研究をするためにこの基地に来ていた所、黒スーツたちの襲来によって本国に帰ることができなくなってしまった。他にも日本に駐留していたアメリカ軍の軍人は大勢いて、自衛隊に協力して戦っている。


「銃は今週もまた大量に回収されたけど、どれも使えない。あれだけのエネルギーを生み出す機構がないの。発電装置も充電器バッテリーもないなんて有り? エネルギー保存の法則を何だと思ってるのかしら。小型の核融合電池でも埋め込まれてる方がまだ現実的よ。こんなのオーパーツだわ」

『まあ、あんなデカブツを空に浮かべられるような奴らの兵器だしな。んじゃ、諦めるのかい、メルツ博士?』

「馬鹿なことを言わないで。ゼロからイチを生み出すのは難しくても、もう物があるんだもの。なんとか解明してみせるわ。スーツ効くこともわかってるんだもの。チームのみんなも頑張ってくれてる」


 全ての光を吸収してしまう黒スーツ。だが、その量には限界があった。過剰な電磁波を浴びせると壊れてしまうのだ。光弾銃の盾にできるのではという目論見もあったのだが、光弾ほどの威力があると盾としては使えなかった。


『研究して改良するのは日本のお家芸だからな』

「そこに期待しているわ」


 クリスは本気で言っていた。日本はオリジナルを創るのは苦手だが、研究して自分の物とするのは得意だ。


『ドローンの方はどうだ?』

「そっちはぼちぼちね。仕組みはわかったわ。でもまだ検知する方法はわからない」


 もううんざり、というクリスは目をぐるりと回した。


 ドローンと爆弾の構造だけは判明していた。塗ってあるステルス塗料以外はいたって普通の作りだった。頑丈な造りで弾丸を通さないが、今の人類の技術でも十分作れる。……工場が生きていれば、だが。


 と、久本が顔を横に向けた。


『すまん、新しい検体が届いたみたいだ。新鮮ほやほや。つっても、酸化後には変わりないけどな』

「じゃあまた来週連絡する」

『来週も繋がるかな』

「そう願っているわ」


 クリスはビデオ会議を終了させた。


 黒スーツの攻撃により、他の基地とこうして連絡を取るのも難しくなってきていた。


 ドームからは広帯域の妨害電波が発せられていて、短波による長距離の無線通信は不可能だった。無線通信にしても有線通信にしても、通信経路上の中継地点や回路が破壊されてしまえばそれまで。基地そのものがなくなることもある。


「衛星を壊されたのが痛いわね……」


 クリスは椅子の背にもたれて、コーヒーを一口すすった。今はまだ豆をいてドリップできるが、これもやがてインスタントになり、そして飲めなくなるだろう。久本も今時珍しい愛煙家ヘビースモーカーだというから、同じ問題に直面していると思われた。


「ハカセ、解析結果出ました」

「見せて」


 分析機器が吐き出したペーパーを研究チームの一人が持ってきて、クリスの短い休憩時間は終わりを告げた。

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