第12話『鳴動の時』

 あの放課後の出来事以来、誠に不本意だが、俺は才明寺に『友達』判定を食らったらしい。小テストが終わる度、その低空飛行な点数の小テストを引っ提げて俺のところにやってくるのだ。


 やれ、この問題どの公式を使っていいかわからない。

 やれ、ここの訳がおかしくて文章にならない。


 そんなことを言いながら俺の机に駆け寄ってくるのだ。

 ちっとは自分で考えろ。そう言って追い返すこともできるが、才明寺のできなさを嫌と言う程知ってしまったせいか、俺はついつい才明寺を追い返すことをせず彼女に勉強に付き合ってしまう。

 その様子を見た、俺の席の周囲のヤツは俺を『根暗なヤツ』から『勉強のできる根暗なヤツ』に認識を改めたようで、よく勉強のことを聞かれるようになった。

 直截に問題の答えを聞いてくるヤツもいれば、解き方を聞いてくるヤツもいた。

 どうでも良いが、才明寺が八割前者だ。

 休憩時間のほぼ毎回やってきては、次に此処が当たりそうだから答えを教えてと言いに来る。

 ほらきた。


「ねえ、柵木。次の数学。順番的にこの問題が当たりそうだから答え教えて」

 そう言って教科書を俺に押し付けてくる。全く学習しないヤツだな。こんなことじゃあいつまで経っても成長しないだろう。

 俺は何故そうなるかという理屈と計算式を授けて追い返す。

 始め数回は文句を零していた才明寺も、根は真面目なのか、すぐに俺が授けた計算式を自力で解こうとするようになった。その最終的な解が正しいかどうかはおいといて、勉強なんて結局自分でやってはじめて身につくものなのだ。

 試験で自分の答案用紙に立ち向かうのは他ならぬ自分なのだから。

 才明寺は俺が数式を書き連ねたルーズリーフを片手に席を大人しく帰っていく。そしてルーズリーフの数式を解こうとペンを片手に数式を睨む。

 無事に解を導けるかは才明寺次第だが自分で渡航とするのは良い傾向だ。

 俺が微笑ましい気持ちで才明寺へ心からのエールを送っていると、前の席の細江ほりえが振り返る。


「柵木、俺も聞いて良いか? 午後の古典なんだけど、訳して来いって言われたとこで、一個わからないとこがあるんだ」

「どれ」

「これ」

 細江はそう言いながら古典の教科書を俺に見せ、今週になって取り扱いだした物語の一文を指でなぞる。確かに言い回しが独特で俺も首を捻った文章だった。だけど順番に調べると自ずと答えは見えてきた。


「この変格活用が面倒だったな」

「あと、いまそかり、って何だよ」

「それな」

 俺が笑うと、堀江も笑う。

 一頻りに笑うと、細江は「でも意外だったな」と口走る。

 何が意外なんだ。俺は教科書から顔をあげて細江を見る。


「なんというか、柵木ってもっと人を遠ざけるヤツだと思ってた。独り大好きーみたいな感じ?」

 そう言ってケラケラ笑う細江に俺は顔を引きつらせる。

 自分自身人からそういう認識をされているんだろうなと思っていたが、真正面から言葉にされると、ショックなんだろうなって思っていたが本当にショックだった。

 細江の言葉に、顔には出ないもののショックで言葉を失っているが、細江はそれに気が付かずケラケラと笑う。

「でも話したら結構違うな。面倒見すげー良いし、頭良いからわからないとこあったら聞けるし、教え方も上手いし、話してみたらホント全然違うから驚いた」

「真正面からそんな風に言われるのと困る」

「嫌だったか?」

「恥ずかしい」

 俺はそう言いながら視線を下げると、細江は面白いものを見るように笑う。その笑い方が癪に障るが怒りを覚えるほどではない。むず痒い。誰かとこういう風に話しているのは久しぶりな感じがするから。

 俺は恥ずかしさを隠すために今開いている教科書のページを叩くと「時間無くなるからこっちに戻ってこい」とぼやく。すると細江は「はいはい」とやっぱりまだ笑ったまま視線を教科書へ戻してきた。


 ***


 熱すぎずぬるすぎない湯に使っているような気分だ。


 小学校は、自分の見えるものが気になりすぎて、学校生活がままならなかった。近付いてくる『常人に見えないもの』は俺と目が合うと、俺が見えていることを知ってちょっかいをかけてくるヤツがいた。それが嫌で逃げ惑う俺を、周囲からは滑稽に見えただろう。

 見えもしないものを見た振りをして周囲の関心を引きたいヤツ。

 そう後ろ指を指され続けた小学生時代。

 中学校に入っても、同級生の殆どは俺の小学校の頃を知っているから、小学校から延長戦の扱いを受けた。


 だから、今のように、同じ教室の人間と話して笑っている自分が不思議だった。

 心地良くて温かい。

 こういうの、良いな。

 普通の人は、こういう温かい感じの何かの中で過ごしているものなのか。


 俺は今日も、才明寺に悲惨な小テストの直しに付き合って漸く帰宅の途につく。

 もうすっかり暗くなって、疲労感も肩にずっしりと伸し掛ってくる。

 だけど不思議とこの感覚も嫌ではない。


 嫌ではないのだ。


 何だったら今まさに帰宅の最中なのに、早く登校したいと思っている。

 今時こんなこと、小学生だって思わない。

 早く明日になって、学校に行って、あの教室の、あの席に座って、授業を受けて、周囲の席のヤツに挨拶して、他愛もない話をして、下らないことで笑って過ごす。

 こんな有り触れているはずのことが、俺には遥か遠くのことだったのだ。


「ふふっ」

 気が付けば笑った声が少し漏れていた。

 浮かれているのがわかっていた。

 引越しでこっちに戻ってくると聞いたとき、不安しかなかった。だけど今はどうだ。

 こんなにも心が躍っている。

 此処に来て良かった。あの高校を選んで良かった。

 本当に良かった。

 俺は不覚にも泣きそうになるのを必死で堪えながら、それでもにやけて緩む口元を手で隠しながら急いで家に帰った。


 家は、というか、自宅のあるマンションは高校から徒歩十五分のところにある。

 弟の祐生が通う小学校からも遠くない良い立地だ。

 いっそのこと、建売の家にしようかという話も父さんの転勤が決まった時に出たのだが、また転勤がないとも言い切れず最終的にマンションということで話がまとまった。

「ただいま」

 俺は玄関の扉を開けると、丁度風呂から出た様子の祐生に出迎えられた。

 祐生はバスタオルを頭から被ってわしゃわしゃとタオルドライをしながらタオルの隙間から顔を覗かせて「おかえり、シュウ兄」と笑う。


「今日も遅かったね。高校ってそんなに居残りとかあるの?」

「いんや、付き合いで残ってただけ」

「そうなんだ。あっ、聞いてよ。今日学校で仲良くなったコたちと出かけたんだ」

 祐生は嬉しそうに語る。

 根暗な俺と違って、積極的で社交性の塊、それが祐生だ。

 俺があんな小学校と中学校時代を送ってしまったから、祐生も白い目で見られやしないかと心配だったが、そもそも学年がいくつも離れていることや、祐生自身の人間性のせいかそういうことはなかった。

 それだけは凄く安心した。

 俺のせいで家族が嫌な思いをするのは本当に嫌だったから。


「俺こっち来て全然外出てないな。何処行ったんだ?」

 俺は制服のボタンを外しながら問う。

 最近の小学生って何して遊ぶんだろうな。全くわからん。

 短い廊下を歩きながら俺と祐生はリビングに向かう。玄関まで揚げ物のいい匂いがする。晩飯は唐揚げだな。

 風呂の前に先に晩飯にしたいな。

 そんな緩いことを考えている俺を、祐生が放った言葉が俺を引っぱたく。


「隣りの■■市だよ」


 は?

 思わず脱いだ制服の上着を落としそうになる。

 だけど先を歩く祐生は、俺が隣りの市の名前を出した瞬間死人のような顔色になったことなんて気が付かず、今日の出来事を教えてくれる。


「俺はあんまり覚えてないんだけど、昔■■市に住んでたでしょ? その話をしたら、じゃあ行ってみようってことになったんだ」

「へえ……」

 声が上擦るのがわかる。

 でも、大丈夫、■■市って一言に言っても広い。

 あのマンションの、あの公園じゃなければ……。

 そもそも俺もあれを見たのはあの日だけだ。あれ以来、俺自身公園に近づきはしなかったが、近くを通っても見かけなくなっていた。

 だからきっとアイツは消えたに違いない。

 俺は昔見た『不気味な女』の姿を鮮明に思い出す。

 今もあの女は俺に呪いを残したかのように、心に棲み着いている。だから今もこんなにもあの姿を思い出せるのだ。

 あの女の恐怖に身を竦ませていると、祐生は振り返る。

 その時にはさっきまですっぽりと被っていたバスタオルが肩にかけられて、祐生の顔がよく見えた。


 その顔には、いつかのように、黒いシミが一つ頬にあった。


 息が止まりそうだった。

 恐怖に心臓が潰されそうな気持ちだった。

 祐生は俺が震え上がっていることなんて知らず、今日の楽しい出来事を俺と共有するために興奮気味に話を続ける。

「それで昔住んでたマンションあるでしょ? 場所は覚えてなかったんだけど、名前は覚えてたんだ俺。そしたらあの辺の地理に詳しいコがいて、連れてってくれたんだ。前に公園があって、皆でしばらく遊んでから帰ってきたんだ」

 本当に楽しい時間だったのだろう。

 祐生は屈託なく笑う。

 俺はそれどころじゃなかった。

 でも俺は『常人にみえないもの』を見ない振りをすると決めたのだ。

 だから何とか笑ってみせる。祐生の今日の楽しい時間に水を差さないためにも。


「こっから、結構距離あったんじゃないのか?」

「電車だったからあんまり遠くなかったよ」

「ふーん。……誰かにあったか? 知ってる人とか見覚えのある人とか」

 俺はあの女を想像しながら祐生に問う。

 祐生の顔の黒いシミがあの女の仕業ならきっと祐生に障ったはずだ、あの時のように。だけど幸福な祐生は何も見えているはずはなかった。

「引っ越す前のことって全然覚えてないから。わかんないよ」

 そう言って肩をすくめる祐生。

 俺は「そっか」とだけ返すと、リビングではなく自分の部屋に足を向け「カバン置いてくる」と言い残して逃げた。


 数分前まで胃袋が期待していた唐揚げの匂いで、一気に気持ち悪くなってきた。

 胃袋は空っぽのはずなのに吐き気が止めど無く沸き起こる。

 俺は、明日から祐生の身に降りかかる呪いに考えると、とても晩飯を食べる気分にはなれなかった。

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