第13話『絶望と憤り』

 まるで『あの時』の再演だった。

 次の日の朝には、祐生は倦怠感を母さんに訴えていた。

 何だから今日はしんどい、そう言う祐生に母は首を傾げる。


「大丈夫? 引越しと新学期の疲れが出たのかしら。今日は学校お休みする?」

「うーん、休むほどじゃないけど」

「そう? 秀生は? 疲れてるとかない?」

 そう尋ねる母さんに俺は「ないよ、大丈夫」と答えた。

 そう答えるしかできなかった。内心胃袋の中身だけではなく、身体に収まっている臓物や血を吐き散らかして倒れない気分だった。

 祐生の顔色はまだそれほど悪くない。血の気も通っている。

 昔は赤ん坊だから次の日にはあからさまな症状が出たが、今は成長したからマシになっているのだろうか。

 何にせよ、これが『あの女』の仕業ならこれから悪化していくはずだ。その前にどうにかしなくてはならない。

 俺は内心焦りながらも平静を努めながら朝飯の食パンを口に入れるが、口の中が干からびているようで上手く飲み込めない。小さく噛み切っているはずが、食パンが乾燥した口内に貼り付いて離れない。それが気持ち悪くてコーンスープで無理矢理に流し込んだ。

「食欲はある? 他の物作ろうか?」

「食欲あるから大丈夫だよ。今日は土曜だから昼で終わりだし、帰ってきたらゆっくり寝るよ。そしたら月曜には治ってるんじゃないかな」

 祐生はそう言いながら食パンを齧る。

 本人の言うとおり、まだ食欲はあるようで、俺とは対照的に順調に食パンを食べていく。その食べっぷりに、俺は少し安心する。


 前の時、一体どれくらいの期間で衰弱していったか。もう昔過ぎて思い出せない。

 でも悠長構えている時間もないはずだ。

 まるで俺だけが見知らぬ誰かに脅迫を受けているような気分だった。

 家族はそのことを知らず、脅威に晒されていることにも気づかず、ただ傷ついていくのだ。

 一体どうしたら良い。

 俺はカップに残ったコーンスープを口の中のものを胃袋へと流し込んだが、咽て吐きそうになった。


 登校しても、俺に心の平穏をもたらすはずだった学校でも、ただ苦しい時間が続いた。考えても答えの出ない物事は俺に苦痛として襲いかかる。

 授業でも、先生の声が通り過ぎていって何一つ頭に残らない状態だった。

 そういう日が一日くらいなら教科書を読めば挽回もできるが、何日も続けばきっと今後の授業にも響いてくるだろう。

 祐生のためにも、俺の成績のためにも早く何とかしたい。


 なら、まず行うのはあのシミの原因は何かを知るべきか。

『あの女』なのか、それとも別の要因なのか。

 今朝見る限り、祐生の頬にできたシミの大きさはあまり変わっていないようにも見えた。

 きっとまだ時間はある。

 そんなことを考えていると、才明寺が俺の机の端をノックするように叩いてきた。慌てて顔を上げると、他の生徒も席を立ったり雑談したりしているので、授業が終わって休み時間になっていることに漸く気が付く。

 才明寺は英語の教科書を持っていたが、俺の様子が普段と違うことに察したのか怪訝そうに俺を見る。


「どうしたの? 何かぼーっとしてない?」

 ……こいつに指摘されるくらい俺は心此処に在らずなのか。

 でもしょうがないだろ。これまでの人生最大のトラウマの再来だぞ。何だったら助走つけて殴りかかってくるレベルだ。いやしかし、そもそもまだ『あの女』なのかは知らない。

 俺は説明することもできず「ちょっと体調悪いんだよ」と曖昧なことを言う。


「えー、じゃあ保健室行く? 付き添うよ」

「そこまでじゃねえよ。で、何? 英語?」

「今日やるところの日本語訳教えて」

「……」

 そろそろまずは自分でやるという努力の姿を見せて欲しいんだが?

 そんなことを思いながら俺は才明寺が差し出してくる教科書を見る。この前のページの例文と単語帳を見たら解るはずなんだが。

 俺は呆れつつも、教科書の文章をどう訳すか説明しつつ才明寺に訳させる。才明寺は俺の解説を元に英文を訳そうと唸りながらも教科書を睨む。

 ふと、俺は才明寺を見る。


 もしかしたら俺のこの深刻な状況を才明寺なら打開できるんじゃないのか。


 まるで天啓が降りてきたような気分だった。

 才明寺なら『あの女』を消せるのではないのか。

 俺は入試の日と、入学してから数度目の当たりにした光景を思い出す。

 こいつが触れるだけで、アイツらは光を放って消えていく。

 もしかしたら才明寺なら、と思わずにはいられない。

 とはいえ、これまではそれほど強いヤツを消していなかった。正直アイツ等の格付けなんて知らないが、人の言葉を操っていた『あの女』は強い力を持っているのかもしれない。才明寺がどの程度やれるのか、気になるところだが……。


 何とか協力を仰げないだろうか。

 でもいきなり、除霊して欲しい幽霊がいるんだが、なんて言ったって信じてもらえるはずがない。

 そもそも才明寺は自分のやっていることを全く理解していないのだろうか。


「なあ、才明寺」

「何よ。あっ、これって何て意味?」

「そりゃ人の名前だ。……お前ってさ」

「うん、何」

「……」

「何よ、はっきり言えば?」

 いざ言葉にするのはハードルが高い。

 この話題は、幾度となく俺を苦しめていたのだから。

 でも才明寺ならもしかしたら、という期待を抱かずにはいれなかった。


「才明寺って幽霊とか信じるか?」


 あくまで雑談の体裁を取る。

 そもそもこれはあくまで話の入口に過ぎない。

 だって、『信じている』と言っても、俺が幽霊のようなものが見えると言っても信じてくれないかもしれない。というか、そういうことばかりだった。

 彼らは『幽霊等の存在』と信じても、『幽霊等を見える人の存在』は信じてくれないのだ。自分が見えていないものは、他の人間にも見えないものである。それがきっと大衆の意見なのだろう。

 だからここで才明寺が幽霊等の存在を信じると言ってくれたとしてもその後の会話は慎重さが必要だ。

 俺は恐る恐る才明寺の反応を待つ。


 才明寺の反応は意外に大きいものだった。

 彼女は持っていたペンを投げるように机に置く。そして不愉快だと言いたげに顔をしかめていた。

「私は幽霊とか信じてない」

「へえ……」

「絶対、信じない。そんなものは存在しない」

 才明寺の言葉には怒気が滲んでいた。

 珍しい反応だと俺は思った。

 幽霊の存在を信じるかどうかという話になると、大抵先に現れるのは『恐怖』という感情だ。

 何も見えないはずなのに、何も聞こえないはずなのに、何も感じないはずなのに。得体の知れないものが怖いのだ。未知なるものが怖いのだ。

 俺だって怖い。見えているけれど、アイツ等が怖くてしょうがない。

 見えている俺だってこれだけ怖いのだ。

 見えていない人間は、そういう存在がいるかもしれない、というだけで怖いのだ。

 だから幽霊を信じていない人は、こんな話をすると恐怖を顔に出す。


 だけど才明寺は怒っていた。信じていないはずの存在に怒っているのだ。

 何だこいつ、身内を幽霊に殺されたのか? でもそうなら、幽霊の存在は信じるか。


「鉛筆転がして運を天に任せるくせに、幽霊は信じてないのは、ちょっと意外だ」

 俺が素直な感想を漏らすと、才明寺は顔をしかめる。

「良いでしょ別に。幽霊と運は別物でしょ」

「まあ、そうだな」

 俺は才明寺の様子に内心焦りながらも、これ以上俺の話を聞いてもらうことが不可能であることを悟る。この件に才明寺の手を借りるのは無理だな。

 内心落胆していると、才明寺は俺に言ったのか、自分に言ったのかわからないがぼそりと呟く。


「幽霊なんて信じない。幽霊を信じちゃうヤツも嫌いよ」


 才明寺は呟くとペンと教科書を持って自分の席に戻っていく。

 訳はまだ終わっていないはずだが、大丈夫なのだろうか。

 俺は次の英語の授業の準備をしながら、今の才明寺の様子を思い返す。

 幽霊という存在は才明寺にとって怒りを駆り立てる存在らしい。

 才明寺も俺のように何か苦労してきたのだろうか。ちょっとした共感を覚えるけれど、その共感が俺のこの状況を解決してくれるものではない。

 一体どうしたら良いんだ。

 俺は机に突っ伏すと今日だけでもう何度目かわからない溜息を零した。

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