第11話『志望動機』

 数学を教え、英語を教え、現代文が終わる頃には窓の外はすっかり暗くなっていたし、校内放送はまだ残っている生徒に帰宅を促すし、それを聞く俺は襲い来る疲労からそれどころではなかった。

 才明寺は解答を直し終えた小テストを見つめて大喜びだった。

 何とか時間内に終わったが、何と過酷な『お節介』だったことか。こんなに大変ならもう一言注意喚起が欲しかったです、大森先生。きっともう帰ってしまった大森先生に心の中で文句を言いながらも、俺は才明寺を一緒に教室を出る。

 一応直したので、職員室のそれぞれの担当教科の先生の机に提出して帰るので俺たちは職員室に向かって歩き出す。


「何か、今日はこれまでで一番勉強した気がする……」

「今日が一番って、才明寺、お前受験の時何してたんだよ」

 そもそもこいつがどうやって試験を越えてきたかが気になる。実はこの学校、裏口でもあんのか。

 そんなことを疑っていると才明寺はふふふっと癪に障る笑いを浮かべる。


「一応勉強はしたけど……全然わからんなくって。でも入試の過去問見たら選択肢から答えを選ぶ問題が多かったでしょ? だからもう運を天に任せって感じ。しかも色々祈りが通じちゃったわ」

「は?」

 才明寺の言っていることが俺には理解できなかった。

 特に試験で『運を天に任せる』という辺り。試験てのは範囲の中の重要な部分を押さえておけばできるだろ普通。

 言っている意味がわからず才明寺に詳しく話を訊くとこういうことだ。


 過去問を見てこの学校の試験は記述問題よりも選択問題が多いのを知って、わからない部分は六角鉛筆を試験中に只管転がしていたらしい。この日のために音が立てない転がし方を練習したらしい。

 お前熱意の入れ方間違ってんだろがと思いながら、俺は言葉を堪えて才明寺の話を聞き続ける。

 選択問題はほぼほぼ全て鉛筆を転がしたのだが、正直こんな方法で受かるはずがないというのもよくわかっていた。筆記試験が終わった後はもう受かるはずがないという絶望しかなかったらしい。

 だから入試の帰りに見かけたとき、この世の終わりのような顔をしていたのか、とあの顔色の理由を理解する。


「でも此処にいるってことは鉛筆転がしただけで合格したってことか」

 世も末だな。

 幸運の女神がもしいるのなら、この女に微笑んだということか。

 でも鉛筆転がして合格点取らせるとか、どんな大盤振る舞いだ、女神微笑み過ぎてもう大爆笑だったに違いない。きっと女神にとってこいつの試験風景はどんな漫才番組よりも笑いのツボを押してきたことだろう。最終的に酷いひきつけを起こして動けなくなったことだろうさ。

 俺が呆れながら呟くと、才明寺は更に笑いを浮かべる。


「合格発表のときは受験番号なかったの」

「へえ」

「ああもう駄目だって思ってたら学校から連絡があって、その時自分が補欠合格だったのを知ったんだけど、合格辞退者が出たから繰り上がりで合格ですって言われて奇跡だと思ったわ」

「……」

 正直、奇跡という現象は信じたくない。

 昔、弟のあの黒い痣がなくなったときは奇跡だと喜んだが、成長するにつれ奇跡とは起こりえないから奇跡であると考えるようになった。

 起こったらもうそれは奇跡ではないのだ。

 でも才明寺の話を聞いていたら、それはもう奇跡としか言えないという気持ちになってきた。

 そんな話をしていると、職員室に到着する。

 才明寺は「出してくるから待ってて」とだけ言って俺が返事をする前に職員室へ入っていく。

 ……待ってなきゃ駄目なのか。何かこういうやりとり友達みたいだな。

 そんなことを考えた瞬間、俺はぞっとする。

 何だよ、ちょっと勉強教えただけで『友達』とか。自分で思って自分の思考に引いた。

 短絡的にも程がある。

 目があったから好き、に似た発想のようで震え上がる。

 才明寺だって俺のことをお節介かけてきたクラスメートくらいの感覚だろう。それが正しい。今のは俺が間違っている。

 俺は自己嫌悪にのたうち回りたい衝動を抑えて深呼吸を繰り返す。

 そうこうしている間に才明寺は戻ってきて、廊下の壁に片手をついて項垂れる俺を見て「えっ、どうしたの」とぎょっとするが俺も弁明する気も出てこず「別に」としか返せなかった。


「提出できたのか」

「先生もう帰ってたけどね」

 そりゃそうだろ、何時だと思ってんだ。先生たちだって帰りたいだろ。

 俺が才明寺に見せないように溜息を付くと、才明寺は小テストの直しを始めた頃から考えられないくらい晴れ晴れとした笑顔を俺に向けて宣う。


「何かこういうの何だか『友達』っぽくない?」

 そうにこにこと笑う才明寺に、俺は今度は隠さず溜息をつく。

「ないな……」

「はあ、ちょっと!」

 この女と同じ発想だったことに肩をすくめると、才明寺は思い切り俺の肩を叩いた。痛くはなかったが……。


 そんな話をしながらも、俺と才明寺は昇降口に向かって歩き出す。

 廊下の窓から見える外はすっかり暗くなっている。

 これから徐々に陽が長くなってくるのだろうが、今はまだ夜になる時間が早い。それに春は不審者がよく出るというし、女子である才明寺を駅なり家なり、送っておくべきなのだろうか。


「才明寺って家何処ら辺?」

「家? 近いよ、自転車通学。柵木は?」

「俺も近い。徒歩」

「へえ、近いね。学区も近そう、中学は何処だったの?」

「中学はこっちじゃない。親の仕事の都合でこの春にこっちに越してきたんだ」

「へえ、大変だね」

 才明寺はぼやく。


「柵木賢いから、親にこの高校勧められたの?」

「俺が此処が良いって言ったんだ。それで学校の近くに家を探して貰った」

「へえ、どっか目指してる大学でもあるの?」

 そう問われるが、俺は一瞬言葉を詰まらせる。

 本来引越すはずだった隣りの市が嫌だったから、なんて言えるはずはない。

 そもそもそうなった理由が説明できないのだから。

 俺は「まあ、そんな感じ」と適当なことを言って才明寺を見る。


「才明寺こそ、どうしてこの学校選んだんだよ。お前の偏差値考えたらもうちょっとランク落とした方が良かったんじゃないのか? 入っても勉強についていけないんじゃあ本末転倒だろ」

 小テストでもあの点数じゃあ来月の中間試験はどうなることやら。

 どう考えても才明寺がこの学校に入ったのは、自分の首を絞めるような行為に見えてしまう。このままじゃあ自滅するだけだ。

 俺の言葉に才明寺も一応自覚があるようだったが、渋い表情で口を開く。


「だって、此処なら良いって言われたから」

「は?」

「此処に入学できたら家業のことは言わないって言われたの」

 またワケのわからんことを。

 順を追ってまた才明寺の話を聞く羽目になった。


 才明寺の母の兄は、つまり伯父は代々受け継がれた家業を務めている人らしい。

 伯父夫婦には子供がいないが、伯父はまだまだ若い人なので後継のことはまだ考えていないのだろうと才明寺は漠然と考えていたらしい。

 しかし中学三年になった春。

 母から、伯父が才明寺を後継に指名したい、という話をされた。そして母もそれには反対しなかったのだという。


「私は馬鹿だから、大学も就職も難しいかもしれないから、今から後継ぐつもりでそっちの勉強始めれば? なんて言ってくるの、ひどくない?」

「まあ、大学も就職も、選択肢が少なくてもいいなら何かしらあるかもしれないな」

「でしょ?」

「いや、今のそんな好意的に取るな、嫌味だから」

「え……」

「で、家業継ぐ話と高校受験がどう絡んでくんだよ」

「そうそう。私、頭にきちゃって。私だって勉強くらいできるって言い切ったの」

「勉強くらい?」

「やめて、言いたいことはわかる。今はできないってわかってる、ちゃんとわかってる。でも売り言葉と買い言葉って言うか、思い切り啖呵切っちゃったのよ」

 さめざめとした表情で肩をすくめる才明寺。

 この時点で何となくこの後の展開が読めてきたぞ。


「そしたら母さんが、それならこの高校に入れたら後継の話は伯父さんに突き返してあげるわって」

「それで入試に鉛筆転がしかよ。ちょっとは真面目に勉強しろ」

「何も、言い返せないわ……」

 とはいえ、奇跡は起こった。

 才明寺は幸運の女神大爆笑のもと無事に合格を果たしたのだ。大袈裟な言い方をするなら、運命が彼女に味方した、というところか。

 それだけ嫌がる家業って何だ。思いつかん。


「家業って何なんだ? 職人的なヤツか?」

 俺が訊くと、才明寺はただただ顔をしかめる。その上、何も言葉を返してこない。

「聞いちゃ駄目なヤツか? ……ヤのつくあれか?」

「違うわよ。そういう怪しいのじゃないの。でも、あんまり言いたくない」

 才明寺は顔を横に振る。

 まあ、言いたくないことを無理には聞かない。

 俺も正直に話していないんだからお相子だ。

 俺は難しい顔をしている才明寺に「そういうこともあるよな」と曖昧なことを言う。

 でも才明寺にはそれで十分だったのか、不意に顔をあげてまた笑みを浮かべる。


「そうよ、そういうこともあるの!」

 そう笑う才明寺を見て、俺は何だかどっと疲れが込み上げた。

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