第10話 サロンの憂鬱
望まない事に二階への階段は軋んだ。橋桁もどの扉も軋まなかった屋敷の中で、階段だけが軋んだ。
サロンも旦那もゆっくり歩を進める。そして出来るだけ体重を足の裏へ伝えないように。
しかしそれは明らかに意味を為さず、確実に階上に居る何かへ二人の存在を伝えていた。
上から何が来ようが仕方の無い事だった。待ち伏せもされよう。サロンは走り出そうかとも考えた。しかしそこに攻撃を喰らえば対処出来ない。やはり頭上は死角なのだ。
長く思えた階段を登り切った。そこは壁で丸い窓があり、階段の吹き抜けを囲うように長方形の廊下が走る。やはり閉ざされた扉が立ち並び、向こうの突き当たりにも大きな窓がある。
割れたのはその向こうの窓だ。
左右八対くらいある中に開いた扉は無い。窓の側には埃を被ったバスケットが見える。あのミイラみたいな林檎はそこから取り上げられて投げ落とされたのか。
林檎は10年放置するとああなるのか?
二人は何かが起こるのを、窓の両端で待ち構えた。どの部屋にも入りたくは無い。
何か出て来るならここに出て来て欲しい。そう願った。時間が過ぎれば過ぎるほど不利な様に感じた。向こうは伺っているのか。どの部屋から視ているのか。
何も出て来ない。
と思った、次の瞬間。
けたたましい音を立てて扉の一つが砕け散った。何が起きたか分からない。
扉のと、そうで無い何かの木片が飛び散り、手摺りにぶつかったりぶつからなかったりしながら吹き抜けの階段に飛び散った。
あまりの静寂の破られ方に二人は硬直してしまっていて、体中の毛穴が開く程度しか反応出来なかった。
何が扉を蹴破ったのか。
その次にはサロンは走り出していた。彼が奮い立って打って出られるタイミングがそこしか無かったのだ。
サーベルを片手に部屋の側まで近づき、破られた扉の側に背を付けた。その後を宝石商の旦那も追いかける。
サロンは割れた木の扉の隙間から覗き込む。中は何の変哲も無い書斎みたいな造りだった。しかし危険なのであまり覗けない。頭をすぐ引っ込めた。
何か見えたかと旦那が目で訊くが、サロンは何もと返す。
サロンは身体が熱くなるのを感じた。彼は自分の頭に血が登っているのかと思った。極度の緊張と興奮。
サロンは半ば割れたドアを体当たりで突き破り、部屋の中の何かに斬りかかろうと身構えた。
身体に降りかかる木片を切り払いながら部屋を見回した。
何も居ない。
何故だ。何故誰も居ない。
サロンは手に持つサーベルが妙な事に気付いた。淡く輝きを放つサーベルにうっすらと文字が浮かび上がってきたのだ。
これは何だろうかとサーベルを見つめる。
旦那も割れた戸を潜って部屋に入って来た。
「サロン、何だそれは」旦那はサロンが体全体から発する柔らかな光を見て言った。
「分からない」
「サーベルに文字が……」
何色なのか分からない色の文字がサーベルに浮かび上がる。それは輝いていた。しかし何色に輝いているのか説明出来ないのだ。
これがゴザイの言っていた
その文字が何を表しているのか、サロンにも旦那にも分からなかった。
目が霞むほどでは無いが、柔らかく光る室内。サロンは力がみなぎる気持ちがした。そしてこの感じはかつて経験したような。
突然、サロンに耐えきれない程の頭痛が走った。彼は握力を無くして剣を床に落とす。膝を付き両手まで投げ出した。身悶えて頭を壁にぶつけたいくらいに激しい頭痛。
遠退く意識の中で思う。
これもだ!これも経験した事がある!!何故だろう。何故覚えているのだろう。
口を閉じる事も出来ずに涎が垂れそうだった。
旦那はずっと呼び掛けていたのだが、彼には一つも聞こえない。
分かった。
微かな正気で理解した。
分かったぞ。これで記憶を失った。前は。
体から輝きが消えた。頭痛が少しずつ収まってきた。意識はある。記憶もまだ数日間のはある。
「サロン!サロン、大丈夫か?」旦那の声が聞こえた。
また理解した。胸に手を当てて深呼吸する。今度は守ってくれた。これだ。ゴザイが巻いてくれたサラシ。それが守ってくれたのだ。
この力を使うと記憶が無くなる。そうだ。
そうに違いない。だからこのサラシは力を封印してくれている。
「サロン」
「もう……もう大丈夫です」
サロンは立ち上がった。
それにしてもこの力は何なのだろうか。何故記憶が無くなるのだろうか。何故俺がこんな目に。
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