2021/04/10 潰走

 ――艦橋。


 下士官の若い男と髭面の中年が話していた。中年は厚手のジャケットを羽織り、白抜きの帽子を目深に被っている。顎の無精髭を撫でながら、空いた手でパイプを弄び、飄々とした表情で話していた。時間とともに刻まれた皺と、好々爺然としながらも勇壮な顔立ちをしていることから、男が艦長であると推測される。


「敗北という言葉に、なぜ〈北〉の文字が付いているか知ってるか?」

 中年はパイプを咥えながら、若い男に問うた。


 若い下士官は、沈黙を持って回答とした。それが許されるのは、両者上下関係であるとともに友好な関係性を確立していることを意味する。


「〈北〉という字は人が二人、背を向け合っている様子から成っている。転じて、相手に背を向けて逃げるという意味を持ち合わせている」


「なるほど」若い男は首肯しながら言った。「つまり、古文に登場する〈北の方〉は最終的には夫を寝取られて逃げだすように屋敷を追い出されるという訳ですね」


「…………すごい飛躍だな」


「子供の時分には、北が負けなら南が勝ちだと思っておりました。敗北の対義語には〈勝利〉ではなく、〈勝〉に〈南〉と書いた〈勝南しょうなん〉の言葉があると。そういえば、艦長は湘南にお住みでしたね。湘南の海から寄せてくる風は艦長にとって神風ではないしょうか」


「湘南之風って、別に追い風的な意味じゃないからね?」


 中年は艦橋のコンソールの一つに腰掛けると、窓の外を見た。窓の向こうは暗黒の世界が広がっており、その狭間を白い物体が飛ばされていく。それが潮水なのか雪なのかは最早区別が付かなかった。


「いやね。敗北という言葉が――」中年は言った。「現実にその選択を選ぼうとしている我々にお似合いだと思ってね」


 仮にも船を預かる立場の人間が、下士官の前で弱音を漏らすということはおよそ考えられない行為であった。それほどまでに艦長は弱っておられる、と下士官は察して緊張する。


「お言葉ですが艦長。ここは北極です。これ以上の北はありません。ここから逃げてもにはなりません。寧ろ、逃げるが勝ちです」


 艦橋の外――窓の向こうのブリザードと暗黒の世界には、彼らの敵となる存在がいた。未曽有の災害とでも呼ぶべき、巨大な敵。彼らは北極海へと逃げ果せてきたのだった。


「だがね」と中年は生徒を諭す教師のように言った。「延べ79隻。寄せ集めとはいえ、これまでに類を見ない規模の大艦隊だ。これだけの戦力が揃う機会はそうない。この機を逃せば、を叩けるチャンスは失われてしまうかもしれん」


 パイプを吸って白い煙が立ち上る。パイプは艦長が持ち込んだ私物だったが、艦内は禁煙だった。


「だから思わざるを得ない――我々に吹いているのは追い風ではなく、臆病風ではないかと」


「……これは、艦隊司令の決定です」下士官は冷や汗を搔きながら反論した。「加えて、多くの船は民間人を伴っての避難行動中です。…………それに、私は彼我の戦力差が有意なものとも思えません。ここで捨て鉢になってはいけません」


「”臆病者は本当に死ぬまでに幾度も死ぬが、勇者は一度しか死を経験しない。”――ウイリアム・シェイクスピア」


 中年はコンソールから腰を上げる。


「我々はどちらかな?」中年が自問気味に口にした。


「それを決めるのは、後の歴史です。その歴史を残すために、時間を稼ぐ必要があります」


「向かっても勝ち目なし。逃げては立つ瀬もなし。いいトコなしだ。だが、悪い賭けじゃない。そうだな?」


 艦内無線から、符牒を無視した歓声のような声が聞こえてきていた。


「では諸君、仕事に掛かろう!」




お題:【敗北】をテーマにした小説を1時間で完成させる

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