七年目 黄金の子どもたち

 最初に感じたものは匂いだ。むっとするような灌水の、掻き回された腐葉土の、そして列を成す青き苗に寄せられた小さな虫達の、畦に佇む蛙の。


 それは命の匂いなのだろう。麦藁を被った農夫が手を休め、立ち上がって手拭に汗を吸わせる。今時分には珍しく、薬品を使わずとも稲穂を豊かにする術を彼らは知っている。水を与えること、栄養を与えること。そして最後に感謝することだ。


 天に地に神に、恵みを授けて頂ける万物に感謝する原初の信仰を、かの農夫は忘れてはいない。機械を使えば確かに便利なのだろう、棚田を崩し、一枚に纏めてしまえば労せず石高も上がるのだろう。だが、それは彼の望む豊穣ではない。皺の刻まれた顎に流れる汗を弾きながら、農夫は鎌を握り直して畝刈りに戻る。


 時代錯誤な和装の男は、同じく和装の少女と連れ立って高台からそれを眺めている。我々は知っている、その少女は見た目通りの幼子では無いことに。幾百幾千の時を経た、人外化生の者であることを。


「良い子等じゃなあ、ああ、本当に良い子らじゃ。見てみろ、あんなにも綺麗な形をしておる」


 臙脂の着物を土に汚すこともなく、少女は嬉しそうに微笑みながら口元を隠す。その在り方は魔性だが、善性のもので、何より庇護を与える大いなるものの発する慈愛に満ちている。


「どう間違っても貴方でなくては口に出せない言葉ではありますが……けれども本当に、美しい……」


 和装の男もまた、微笑みながら少女の傍らに佇んでいる。彼等は己の周囲だけが異様な気配を発してることに気づいているのだろうか。


「じゃろう? 神だの何だの崇められた所で所詮は大した力なんぞ持たん。人が望むからこそ、神はそこにおる。神なり妖なりが人に力を貸し、時に害するのは、畢竟あの眩しさが嬉しくて羨ましいからに他ならん」


 尤も、長命が下らんとも思わんがの、と少女の姿をした化生は呵呵呵と笑う。普段から気色の多い化生ではあるが、先程から隠し切れない程の喜色が溢れ出ている。男は田園風景に眼を遣りつつ、少女を軽く抱き寄せる。


「外出されると聞いた時には不安でしたが、やはり来て良かった様ですね」


「そりゃァそうじゃ、日がな家籠りばかりでは詰まらん。偶にはこうして外の空気を浴びせにゃあ、古いものは忽ち傷んで崩れてってしまうじゃろ」


 ふんと鼻息荒く言い放つ化生だが、興奮のせいかうっすらと朱の差した髀肉は収まることなく笑みを続けている。男は彼女を抱き寄せた手でそっと髪を撫でつつ、改めて眼下に広がる世界を見やる。


「ああ、それにしても本当に美しい景色ですね。畑仕事は馴染みがありませんが、妙に心に響くものがあります」


「そりゃァお前さんは貢ぎ貢がれる家柄じゃからの。……それにしても、そうか。お前さんとは見ているものが違うようじゃのう……」


 ううん、と腕組みをして化生は唸る。


「段々と続く田の事ではないのですか?」


 男が妙な顔をして問い返すと、ほれ、あの人の子の方じゃ、と少女は指差して示す。


「飛び切り綺麗な“かたち”をしておる。魂とでも言えば理解に易いかの。ああやって地に伏せて云々行うとな、自然と頭を垂れる形になるじゃろう?」


 撫で付けられる男の指先を、くすぐったそうに楽しみながら化生が講釈する。男は彼女を身に寄せたまま、もう一度農夫の老人を見やる。

 

 今時機械も使わず、額に汗かき手鎌で畦際の雑草を少しずつ刈り取っている。一手引き抜いては身を捩らせて半歩進み、また一手刈り取っては半歩進む。彼の後には刈り取られた雑草が整然と並び、まるで舐めたように綺麗な土が並ぶ。半歩ずつ黙々と進みゆく老農夫の歩みは亀のように遅いが、それは他の、どのようなものによっても決して再現できない感謝だ。


「成る程……確かに良い“かたち”です。外見が綺麗だとか、美しいなどではなく、在り方が実に良い」


「そういうことじゃて。上面のちゃちな装いではあの良さは出やせんぞ」


 化生は同意を得られた事に喜びを感じつつも、注視の余り疎かになる彼の手をぐいと逆に押し付けて催促する。背伸びして頭を押し付ける様は、撫でられたがりの犬のようだなと男は思いを巡らせる。


「自分等の持つ土地くらい憶えておくものじゃぞ、全く」


「今はもう彼等のものですよ。この辺りは全て譲り渡した筈です」


「たぁけ、紙の話なんぞしとらんわい。あの人の子が拝んでおるのは何だ? 紙切れ一枚の証文か、豊穣もたらす大地か、それら全てを守護する神か」


 アレはまだ自分のものだと、少女は手を伸ばして握る仕草をする。動きだけなら子供の手遊びだが、その実化生の所作は厳かな気配を発し、見るものを平伏させる圧に満ちていた。


 遠巻きに彼女を見ていた野生生物達は、その所作に引き寄せられるよう顔を出し、それぞれに平伏した。兎、犬猫、猪鹿蝶。狐狸に蛇蜘蛛、蜥蜴につつが。虫も獣も妖さえも、一様に皆伏して拝している。心なしか木々も拝するかの如くざわめいている。


「これは……、またですか」


 和装の男は手を止め、驚き半分、呆れ半分の微妙な顔をして少女を見る。一方の少女は心外だといった風で、


「なんも使っとりゃせんわい。じゃからこそ分かったじゃろ。この大地を持つものが誰なのか。……ああ、お前たちは利口だねぇ、この時代にもまだ儂が誰なのか知っているのじゃのう……」


 化生はふわりと男の手から離れると、参拝者達を労うようにくるりと掌で中空を撫で付ける。少女のなぞった後は輝き、静かに広がって集いし命に光を与える。


「良き子じゃ、お前たちも。これからもこの大地と共に生きておくれ、儂からの土産じゃて」


 ともすれば自身よりも大きな生き物に拝され、そして何がしか授ける化生に、男は、ほう、と見惚れる。動植物達に授けられた光は次第に小さくなって個々に宿る。彼らは波が引くように化生の前から退くと、各々が思い思いにその光を撒いた。


 駆けるものは駆け、居着くものは居着き、流れるものは流れ、留まるものは止まる。そうして小さくなった筈の輝きが、今度は大地にも移り込んで土を光らせる。そうして少しずつ、その光は大きくなる。

 緩やかに広がる輝きは先の農夫の元へも黄金の光を齎す。老人はそれを知ってか知らずか、一層腰を屈めて作業に精を出す。今や棚田の隅々までに黄金光は満ち満ちて、目映ゆいばかりの光が大地から立ち昇っている。太陽が地にも生まれたのかと思わんばかりの金色。男はまたその光に魅了される。



 美しい光を背負い、両手を伸ばしてくるりと回転して、破顔した化生が男の方に振り向いた。

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