八年目 悼み

 日の出の国は今日も安穏、街の喧騒も、都市の騒乱も、宵のネオンも乱痴気騒ぎもこの屋敷には届かない。この囲いの内側はそういう形にできているのだ。

 道々に響くのは長閑な草木の囁き、鳥達の囀り、ちりちりと鳴く虫達の声。そして日々を過ごす人の音色。命あるものの声が聞こえる。引っ込み思案な太陽が、雲間から此方を覗き込んでは隠れを繰り返している。


 疎らに降り込む陽光を受けながら、縁側に和装の少女が座り込んでいる。簡素であるが卑ではなく、上質であるが豪奢でない作りの着物が似合う少女は、ある種浮世離れした気配を醸し出している。

 足先で履物の鼻緒を摘み上げてカラコロと弄びつつ、しゅるりしゅるりと手元のそれを削り続ける彼女。遠間に見やれば手遊びをする童女といった様子であるが――しかし我々は知っている、彼女が見た目通りの少女で無いことに。


 ぎしりと床板を鳴らして、奥の間から男が顔を見せる。どうやら化生を探していたらしく、


「此方におられましたか」


 と発しながら床板を軋ませる。


 対する少女は気もそぞろといった様子で、曖昧な音を出して返事をした。 


「彫刻ですか」


「ああ、古馴染に良い木を貰うてなぁ……。まあ手すさびじゃ、急くものでもないからのう……」


 手元のそれを眼にして問いかける男に、顔を上げるでもなく彼女は応じた。彼女が古馴染と言うからには、字の如く旧き知己なのだろう。その友人は、彼女と一体幾千の昼夜を超えて来たのだろうと、男は化生を見るでもなく見やりながら思う。

 少女は物想う彼に眼も暮れず、そうかと言って特別手元に専心する様子でもない。縁側から脚を投げ出して、文字通り手慰みの体でしゅるりと削りながら、譫言のように続けた。


「もう結構な年の奴じゃったからの、匠心を持たん阿呆共の手に渡るよりは、という事じゃ。なに、形見分けよ」


 その形見を削って良いものかと男は妙な顔をするが、それを見透かした化生は、


「構わん構わん、本人が良いと言うたんじゃから」

 と返しつつヒラヒラと手を振る。


 旧い作りの小刀で木切れを削り取る少女の姿は工作をする童女のようでもあるが、指先で削り出した凹凸を検める姿はどこか職人の気を放っている。

 見るからに器用なものではあるが……恐らくは彼女であれば、直ぐにでも望む物を作り上げられるのであろう。だが、それが彼女の望むものでないと、彼もまた分かっている。


 彼女は友と会話をしているのだ。旧故の凹凸を指先で愛で、節くれだった木目の匂いを嗅ぎ、そっと年輪に囁きかける。

 今、彼女の持つその小さな木切れこそ墓なのだ。卒塔婆よりも小さく、墓石よりも軽い。棺桶などとは比べるべくもない、けれどもそれは立派な棺で、友人は確かに化生に見送られているのだ。それは彼女と友の間で交わす悼みなのだろう。


「そうじゃ。お前さんには、これが何に見える?」


 ふと手を止めて木片を差し出す化生。男はよくよく注視するが、暫く唸った後に、


「これは……、どうにも分かりかねますね……一体何を」


 と呟くのみであった。化生はそれを聞いて苦笑する。困ったような笑い顔は憂いを感じさせるが、けれど美しくもあった。少女の醸し出すものとは思えぬ深い感情の斑。


「さて、何を彫っておるのじゃろうかのう……、自分でも分かりはせん。ただ、こいつの在り様に任せるまでよ。在るように在り、失せるように失せる。何時だってそれだけじゃ……」


 そう言って指の腹で、感触を確かめる様に木切れをなぞる。陽光に隠されながらも静かに輝くその手は、滲んだ汗によるものか。


 男は目聡くその手を見つけると、


「急がないのでしたら、程々にしてくださいね。ほら、汗をかいておられますよ」


 とそっと彼女の首元を拭う。


「……ああ、そうじゃな、随分と熱を入れてしまったかの……」


 男は少女ごと抱きすくめるようにして首筋に手を回し、丁寧に髪を避けて項(うなじ)から鎖骨、首筋までの汗を拭う。


「こそばゆいのう……ええい、くっ付くな。暑うなる」


「すみません」


「謝る前に離れんか、阿呆め……」


 抱かれた化生は抗議しつつも、脱力して男のするままに任せた。華奢な化生に覆いかぶさるように、傷つけぬよう優しく腕を回す男の匂いを肌で感じながら、しょうのない奴よの、と少女はまた曖昧な笑みを浮かばせながら囁く。男は優しい抱擁を続けている。


「……儂はそう簡単に消えたりはせんよ」


 痛いほどに強くなる。


「眺めて見やれば瞬きの間ではあるがの。……それでもお前さんの傍に居る分にはそうそう不足もあるまいよ」


「ええ……分かっています……、分かっているんです……」


「ふふっ、どうした。泣き虫の童に戻ったか?」


 傍目の様相と裏腹に、彼らの役目は逆しまだ。少女とは母の事で、男とは子のことだ。恥ずかしがりの太陽のように、派手好きの月のように。誰もが違うと分かっている筈なのに、そうであって欲しいと願ってやまない。


 切れ切れの雲間から、人見知りの太陽が身を覗かせている。波濤のような空色が陽光と相交わって地へと注ぐ。陽が姿を隠すその時まで、暫し。化生と子の逢瀬が終わるまで、また暫し。


 如何様にも流転する生命の中で、どうして彼らだけが逆らえるだろうか。


 だが……それでも。


「もう少しだけじゃぞ……寂しがりの童め。本当にお前は、仕方のないやつじゃのう……」


 男の背に手を回し、優しく撫でる化生の掌。その静かな触れ合いは、幼子をあやす母のように、むずがる子供が安らかに眠るまで続く。

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