第3話 1970年安保闘争時代へようこそ

      

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 再び、都座の4階楽屋にエレベーターで上がった。

 楽屋の前にはヘルメット姿の男数人が、門番の役割で、ゲバ棒(角材)持って立っていた。

 門番は、ほとりの姿を認めると、一斉に一礼して、楽屋の引き戸を開けた。

「お見えになられました!」

 鐘也は、楽屋の中に入った。

 楽屋の一室にヘルメット、口元には手ぬぐいを巻いた若者がたむろしていた。

 むっとする汗と若い男の匂いが充満していた。

「おお、待っていたぞ!」

 一番奥の大柄な男が立ち上がった。

「八幡さん、何してるんですか!」

 思わず鐘也は叫んでいた。

 ついこの前、八幡寿司にいた大将だ。

「如何にも、八幡だが。君は誰なんだ。何で僕の名前を知っている」

「スパイだ!」

「総括しろ!」

「異議なし!」

 他の連中が一斉に立ち上がって、鐘也を取り囲んだ。

 よく見ると、皆若い。

 都座の二階で見た大将よりはるかに若い。

「まあ落ち着こう」

 八幡は、他の連中をなだめて、二人を中に引き入れた。

「君は今回の全国統一劇場封鎖運動をどう思っているんだ。率直な意見をまず聞こうじゃないか」

 いきなり核心の質問を受けたが、全く鐘也の頭の中は整理出来てない。

 ほとりに助けを乞う仕草をした。

「八幡委員長、ここはまずこちらの状況を説明してあげたらどうかしら」

 ほとりは、余裕持っての発言だった。

「おおそうだった。じゃあ説明しておこう」

 八幡は説明し始めた。

 各地で起きた、全国統一劇場封鎖運動だったが、政府の各地での機動隊導入により、もろくも崩れ去り、籠城続ける劇場は、東京の歌舞伎座、そしてここ京都都座の二か所にまで追い詰められた。

 まもなく、機動隊による一斉突入に備えての、今回の会議だった。

「ほとりさんから聞いてるが、きみは未来が見える超能力者らしいなあ。結局この一連の闘争の決着も見えるんだろう。遠慮なく云ってくれ」

 一同の目が鐘也に注がれた。

「あのう、ちょっといいですか」

「どうぞ」

「何で学生運動の拠点が劇場なんですか。大学でしょう」

「大学?」

 一同の目が、こいつ一体何を云ってるんだと変わった。

「大学てどう云う意味なんだ」

 鐘也は高校の日本史・近代史で習った「70年安保」の記述を思い出しながら喋った。

「東大、京大などの国立大学をはじめとした学園闘争です。京都なら同志社、立命館だとか」

「気は確かか。民衆の力を必要とするのに何で一部の者しか行けない大学を封鎖するんだ」

「馬鹿じゃないのか」

「はったりかませるんじゃないぞ」

「嘘未来人!」

 再び周りから怒号がこだました。

 八幡は両手で押さえた。

「きみは、わざと馬鹿をよそっているのか、それとも本気なのか」

「本気でも何でもなく、事実を申し上げているんです」

「事実!」

 同志がまた騒ごうとしたが、今度はそれより早く、手で制止する動作が早かった。

「わかった。じゃあこれから勉強だ!見に行こう」

「どこへ行くんですか」

「もちろん、都座の舞台。我々の占領拠点だ」

 八幡は、エレベーターを使わずに階段で降りた。

「機動隊の奴らが、電源を断ち切ると噂出てる。エレベーター乗ってる時に切られたら、閉じ込められるからな」

 階段で降りながら、八幡は説明してくれた。

 大学生による、劇場封鎖は、東京、大阪、京都を中心に行われた。

 大阪は、中座、新歌舞伎座、梅田コマ劇場を学生たちが制圧して封鎖する。

 東京も一時、帝劇、歌舞伎座、明治座、新宿コマ、日劇と大きな劇場ほぼ制圧していたが、機動隊による強制排除が一斉に行われて、今東京は、東銀座の歌舞伎座、京都の都座の二つだけが学生の支配下になっていた。

「ここ二、三日が山場かな」

「突入して来るんですか」

「ああ」

 階段を下りるに従って、騒ぎ声が大きくなって来た。

 怒号に近い物だった。

 下手舞台袖についた。

「ここから、客席のドアを見てご覧」

 八幡に云われて、そっと覗いた。

 左右、後方のドアには、案内係ではなくて、屈強な機動隊員が盾を持って立っていた。

 客席の椅子は全て取り払われて、ヘルメット被った学生は、車座で座り込んでいた。

「椅子はどうなっているんですか」

「バリケードに使っているんだ」

 機動隊突入に備えて、階段封鎖するために、連立式の椅子が立てかけられていた。

 客席は満席に近い。

 あの歌舞伎公演では、芸舞妓が座る桟敷席も今は、学生に占領されていた。

 所々、煙草の煙が立ち上っていた。

「タバコ吸ってもいいんですか」

「当たり前だろう」

 呆れた顔を八幡はした。

 鐘也はスマホで写真を撮った。

「何してるんだ」

「写真撮ってます」

「写真?そんな薄っぺらい板で写真が撮れるとは、面白い」

 黙って、鐘也は今度は八幡を撮って、画面を見せた。

「面白いマジックするねえ」

「マジックじゃないです」

「マジックに決まってるだろう!」

 ここで言い争うわけにはいかない。

「まあマジックだと思うなら自由にどうぞ」

「しばらく、芝居見て行こう」

 舞台では、一人の女性が、前方のスポットライト、真上からサスライト浴びていた。

「誰なんですか。女優さんですか」

「吾等の同志でもあり、ヒロインでもあるんだ」

 鐘也の耳元でささやく。

「芝居なんですよね」

「ああ芝居だ。演説会でもないし、集会でもない」

 その指摘で、よくよく車座になってる人たちをよく見ると確かに、学生でもない、会社員、老人、主婦などの人達もいた。

「客席が取り払われた空間にいる民衆」

 八幡は、きちんと訂正して来た。

「彼女の名前は何て云うんですか」

「本名は知らない。皆、(カンナ)と呼んでる」

「カンナ!」

「鐘也君、どうした!もしかして知り合いなのか」

「いえ、知り合いではないです」

 二人はここで黙って、幕袖から注視していた。


「皆、わかってるかな。敵は周りにいるぞ!」

カンナが叫ぶ。

「周りにいるぞ!」

 ヘルメット学生が復唱する。

 新手の新興宗教の集会のようだ。

 何人かのヘルメットが、ドアに陣取る機動隊にものを投げていた。

 それは煙草のパッケージでもあり、ねじり鉢巻きされた新聞紙であった。

 例え当たっても痛くないものであり、怪我をしないものだ。

 それだからか、機動隊員は、目の前からこれらのものが飛んできても、よける姿勢は取らずに、直立不動の姿勢を崩さなかった。

「あのドアの所にいる機動隊員の恰好の人も、実は役者さんなんでしょう」

 うがった見方を身に着けた鐘也の指摘に、八幡は苦笑いした。

「さあ、どうかな」

 苦笑いで応えて、それ以上の説明をしなかった。

 

「こらあ、そこのヘタレ!新聞紙を機動隊員に投げるなんて、ちんけな事するんじゃない!」

 名指しされた学生は、ひょこっと立つと、ヘルメットを脱いで頭を下げた。

「当たるのは、機動隊員じゃない!真の敵だ!」

「真の敵だ!」


「さあ、鐘也君、出番だよ」

「出番?何ですか、いきなり!」

「いきなりじゃない。台本通りだよ」

「台本?そんなの僕、貰ってませんよ」

「きみが貰っているか、貰ってないか、台本を読んでいるのか、いないのか。そんなの関係ない!こっちは台本通りに進めるだけだから」

「八幡さん、冗談は勘弁して下さいよ」


「さあ皆さんお待ちかね。今日のスピーチゲストを呼びましょう!」

 カンナが下手の幕だまりにいる鐘也を見た。

「行け!」

 八幡が、後ろからいきなり強い力で押した。

 その反動で鐘也は少しよろけながら出た。

 目がくらむセンタースポットライトが頭からつま先まで、一瞬にして包み込んだ。

 体内の温度が一気に上がるのが、実感した。

 僕がさも有名人かと錯覚するほどの、大勢の観客が一斉に立ち上がり、口笛鳴らして、手を叩き、足元を踏み鳴らした。

 鐘也自身、何でこんなに熱狂的に自分を迎えてくれるのか、皆目合点がいかなかった。

「あっどうも」

 二歩ほど出て、鐘也は立ち止り、頭を下げた。

「待ってました!」

 場内のあちこちから大向こうがかかる。

 ここは、歌舞伎「お祭り」のように、型通りに返答しようとした。

「待っていたとは、ありがてい」

 場内の興奮の波は中波から大波へと変わる瞬間でもあった。

「お待ちしてました」

 カンナが答えた。

 鐘也は、舞台中央まで近づいた。

 カンナとは、初対面なのに、何故かそんな気がしなかった。

 どこかで、昔逢ったような。

 それもかなり親密な関係だった。

 しかしその昔の関係話が思い出せない。そんな気がした。

「今日、初めてじゃないですよね。何だか昔逢った気がするんですけど」

 すると場内が意外な反応の波が、鐘也とカンナに打ち寄せた。

 それは大爆笑だった。

 人々は隣り、前後の人と顔を見合わせて、肩を叩き合い、大きな口を開けて笑い出した。

 中には、仰向けに倒れて、腹を抱えて笑っている。

 ドア付近にいた機動隊員まで肩を震わせて笑っていた。

 何故、そんなにおかしいのか。皆目鐘也には理解出来なかった。

「鐘也さん、アドリブ有難う。これで掴みはオッケイです」

「掴み?」

「さあ台本に戻りましょう」

 さらに理解に苦しむ展開が続く。

「カンナさん、僕、その台本貰ってないです」

「当たり前じゃない」

「当たり前?」

 躊躇する鐘也を無視して、カンナは観客に向かって語り出す。

「今宵は、一夜限りです。皆さんご存知かと思いますが、明日辺りついに機動隊突入されるそうです。この貴重な時間を皆さんとご一緒に出来た事、カンナは一生忘れません!」

「俺も忘れないぞ!」

「私もよ!」

 何が始まり、どう収まるのか全く鐘也には理解不能だった。

 それを質問する空気は最早、一ミリも存在しなかった。

 でもわかった事は、鐘也自身が、観客から絶大な信用と、羨望の眼差しの束を送られている事だった。

「さあ皆、行くわよ!」

「オー!」

 場内を揺るがす、地響きが起こる。

 地震が起こったのかと思った。

 違う。

 千五百人の観客が一斉にジャンプしたのだ。

 その揺れが、舞台にまで伝わった。

「アメリカは、出て行け!」

 カンナが叫ぶ!

 同じ言葉を後から、乱れずに復唱する大衆。

 途中から、カンナはポケットから何やら取り出した。

 そして、手のひらに載せて、前方に差し出した。

 自身をも取り巻く、センタースポットライトの光の世界に、それも参加していた。

「ブローチ?」

 ふと鐘也は呟いた。

「都座から、真の自治を!」

「都座の神様、どうか、私達をお救い下さい!」

「突入に備えよ!」

「用意万端、ぬかるな、同志諸君!」

 シュプレヒコールは延々と続く。

 緞帳は降りなかった。

 興奮劇は、またたくまに、劇場空間を呑み込んだ。

 舞台から、あっと云う間に客席へと伝播した。

 今度は、客席だけの興奮となった。

 それを見届けて、カンナは鐘也のいる下手袖に引っ込んで来た。

「挨拶はいいから、行きましょうか」

 八幡、カンナ、鐘也の三人は今度は屋上に上がった。

 社がある。

 川端には地上を走る京阪電車の線路。

 鴨川、東華菜館、河原町の繁華街。

 現代と違うのは、四条通りの真ん中を市電が走り、鴨川の土手の上を京阪電車が走っている事だった。

 視線を都座の下に移した。

 狭い川端通りに、びっしりと機動隊の装甲車、機動隊員が集まっていた。

 投光器が都座に向けられていた。

 その光を利用して、一画では、数人の学生が車座になって作業していた。

「ほとりさん!」

「鐘也君。芝居観劇は終わったの」

「ええ。ほとりさんこそ何やってるんですか」

「貴重な兵器作りです」

 ほとりの代わりにカンナが答えた。

「兵器作りですって!」

「瓦を砕いて、程よい形にしてるんだ。あれを見てくれ」

 八幡が指さした。

 屋上から都座の屋根の瓦はすぐの所にあった。

 学生数人が瓦を外して、バケツに入れて、それをほとりらの所に運んでいた。

「瓦の破片を機動隊目掛けて投げるって事ですね」

 鐘也は確認した。

 この時、鐘也は思った。

(太平洋戦争末期、竹やりで闘った日本軍の事を)

「機動隊の方の武器は何ですか」

「主に、まず放水銃でこの屋上狙って来ます」

 カンナが冷静に答えた。

「それに対する防御策は」

「それはこれです」

 あるヘルメットの学生が、カンナの元に二本の竹の先に、和紙でタンポポの先っぽのように、丸みを帯びたものを差し出した。

「何ですか、これは」

 これも鐘也が初めて目にするものだった。

「梵天(ぼんてん)だよ」八幡が答えた。

「ぼんてん?何ですか」

「さっきから、鐘也君、そればっかり」

「すみませんねえ。この子は未来人なので。何も知らないの」

 ほとりが謝った。

「未来にも梵天はあるでしょう」

「あったとしても気づきませんでした」

「古来江戸時代、劇場には、この梵天が掲げられていて、劇場の神様が降臨する所なのよ」

「それを引っこ抜いて、こっちに持って来て、防御すると」

「鐘也君、御察しがいいねえ」

カンナが笑う。

「でも、まさしく最後の神頼みですね」

 精いっぱいの皮肉を込めて云ったのだが、カンナも八幡も全く気付かなかったようだ。

「それだけですか」

「まだあります」

 カンナがバケツに完成した、細かく割れた瓦の内、完成品の少ない方を見せた。

「これは、特別の瓦」

「どこが特別なんですか」

「よく見てよ」

 そう云われて覗き込んだ。

 瓦の破片だが、全て、都座の「都」紋が刻印されたものだった。

「この瓦は、軒先の先っぽにある瓦にしか刻印されない、貴重なものなのよ」

「どうして、特別なんですか」

「それは明日の合戦見れば、わかるから」

「腹が減っただろう。それに疲れたろう。風呂入りに行こう」

 八幡が誘った。

 いわゆる、楽屋風呂ってやつだ。

 都座は、シャワールームではなく、本格的な風呂を備えていた。

 本来役者が利用するものだった。

「この、都座は長期の籠城には、うってつけの場所なんだ」

 八幡が説明してくれた。

「風呂がある。畳敷きの部屋が幾つもある。屋上もある。洗濯機、冷蔵庫もある」

 それらは全て本来、役者が利用するものであった。

 本当に劇場の神様がいるのなら、今回の出来事をどう見ているんだろうか。

 ふと鐘也は思った。

 楽屋風呂の前で、楽屋係の華代がいた。

「華代さん!この時代にまでいたんですか」

「お早うございます!これどうぞ」

 鐘也の質問には答えず、タオルをくれた。

「彼女はよくやってくれている」

 風呂は、総ヒノキ作りで、五人はゆうに入れる。

 まさか、劇場バックステージツアーで、楽屋風呂に入れるとは思ってみなかった。

 もしもヒノキ風呂にこころがあるのなら、まさか、役者ではなくて、ヘルメット姿の学生に風呂を利用されるとは思わなかっただろう。


 夕食は、楽屋で、途中の襖を取り払い二部屋で行われた。

 夜中になっても投光器は、都座を照らし続けた。

 その木漏れ日ならぬ、こもれ光が川端通りの窓に映る。

「どうして、都座への突入が明朝だとわかるんですか」

「通告して来た」

 八幡が、部下の学生に合図した。

 鐘也に一枚のビラを見せた。

 黄色の手触りの悪い紙に黒文字が宿る。


「学生諸君へ

 明朝、都座への突入を通告する。

 明日の午前7時までに投降した者に対しては、当局は寛大な処置を行う。

 それ以降は、突入により、抵抗する者については、公務執行妨害罪で逮捕する。

 よって、一刻も早く投降する事 」


「こんなビラを敢えて、配布する事によって、組織の内部崩壊を狙っているんだ」

「もし出て行ったらどうするんですか」

「去る者は追わずの精神なんだ。どうだ鐘也くん、怖気づいたか」

「いえ、ここに残ります。本気なんですね」

「ああ。こっちも本気だ」

 明日は、突入によって、流血、下手すれば死ぬかもしれないのに、八幡もカンナもいや、学生連中はいたって、冷静且つ、笑っている者までいた。

 残暑厳しい九月だが、夜になるとぐっと温度が下がった。

 鐘也には、楽屋一部屋が与えられた。

 広さは、六畳間。

 バストイレ付で、都座公演では、幹部役者が入る最高の部屋だった。

 化粧前(鏡)の向こうには障子戸があり、開けると鴨川、河原町の繁華街が見渡せた。

 今は左手の鴨川の上に月が出ていた。

 しばらく座って見ていた鐘也だったが、立ち上がって楽屋部屋を出て、屋上に出た。

 月が、ぽっかり、まるで舞台装置のように、都座屋上に出ていた。

 月から見える地球のさらに小さな日本。さらに小さな京都。さらに小さな都座界隈。

 月から見たら、こんな争いなんて、ゴミ以下だろう。

 そんな気がした。

「綺麗な月ですね」

 背後からカンナの声がした。

 鐘也が振り返った。

「カンナさんも月が好きなんですか」

「ええ。私は太陽より、月が好きなんです」

「どうしてですか」

「太陽見ると、地獄思い出すんです」

「広島の原爆ですか」

 試しに鐘也は直球をカンナの胸の中に投げて見た。

「どうして、それを」

「舞台で手のひらに載せていたのは、ひょっとして、これの片割れじゃないですか」

 鐘也はポケットから京都植物園で貰い受けたブローチを見せた。

「あなたは、一体誰なんですか」

「常盤鐘也です」

 簡単に説明した。

「でも二五年も前の話。なのに、あなたの容姿は・・・」

 確かにその通りだ。

 当時20歳としても、今は45歳。おっさんのはずだ。

 時空を超えた旅、時空を超えた都座のバックステージツアー。

 こんな事云っても誰も信用してくれない。確かにそうだ。

 自分自身、今、この空間、空気、登場人物そのものが、本物かどうかわからないのだ。

 ひょっとすると、これは全て作り事で、カンナ含めて、全て芝居、壮大なドッキリなのかもしれない。そんな気がする。

 と、鐘也は、カンナの感情を無視して一気に話した。

「で、真実を見てみたいの?」

 そっとカンナは尋ねた。

「もちろんです」

「真実は、自分の目で、身体で感じるもの」

「それはわかってます」

「それともう一つ。私、カンナは本物なの」

「本物ですか?」

「確かめてみる?」

 カンナは鐘也に近づいた。

 両手で鐘也の顔を掴むと、ぐいっと引き寄せて、自ら唇を重ねて来た。

 カンナの舌先が生き物のように、鐘也の口の中を泳ぎ回る。

 くすぐったいような、それでいて甘美な快楽が身体を貫く。

 時折、思いっきり口中の唾、舌、頬の内側をついばみ、吸い取る。

 鐘也は不覚にも勃起してしまった。

 カンナの髪の毛が鐘也の鼻孔をくすぐる。

 カンナを抱く手の力が増した。

 カンナの舌先は唇から顎先まで旅していた。

 いつまでカンナの舌先の旅はつづくのだろうかと思った。

 しかし、突然舌先は止まり、カンナを抱いていた鐘也の手をやんわりとどけて、快楽の旅は終わりを告げて、再び鐘也から離れた。

「これで、私が本物だとわかったでしょう」

 カンナは微笑む。

「わかりました」

「じゃあお休み」

 カンナはくるっと身体を反転させて去ろうとした。 

 楽屋に通じるドアの前で再びくるっと鐘也の前に顔を向けた。

「そうそう。忘れるところだった。例のブローチは大切に持っていてよね」

「わかりました」

 こうして二人の甘い時間は終わった。


     ( 2 )


 甘い時間から、数時間後、鐘也は生涯に置いて、一番厳しい時間を持つ羽目となる。

 静寂さから、反転、一転して怒涛の時が始まった。

 真っ青な空。

 夏よりも空の雲が高い位置にいるようだ。

 残暑から、初秋へと季節の顔の交代が起きていた。

 身体を通り抜ける風も爽やかさから、少しひんやり感が混じっていた。

 それは、突然川端通りの機動隊からのスピーカーの声明から始まる。

「諸君、お早う!よく眠れたかな」

 すでにその頃には、昨晩の打ち合わせ通り、学生は方々に散っていた。

 一番人数を構えたのは、もちろん、川端通り側だった。

 機動隊も川端通り側に放水車、装甲車を集結させていた。

 すでに、京阪電車と打ち合わせなのか、電車は通っていない。

 運休しているようだ。

 線路に板を敷き、車が通れるようにしていた。

 運休は京阪電車ばかりではなくて、四条通りを走る市電も運休していた。

 すでに四条通り、川端通りの通行は、ストップ。

 テレビ各局のカメラは、対岸の東華菜館や、四条通りの向かいの菊水レストラン屋上などに設置されて、生中継していた。

 NHKはもちろん、民放各局は通常番組、CMを取りやめて、今回の機動隊の都座突入を実況生中継していた。

 テレビが誕生して東京オリンピック中継を除く、民放各局、同じ絵が生まれていた。

 上空を三機のヘリが旋回を繰り返していた。

 しかし、機動隊によるスピーカー放送が始まると一気にいなくなった。

「今なら間に合う。出て来なさい!」

に始まり、学生の母親らが次々へとメガホンを持って立つ。

「虎ちゃんもう立派に仕事しました。母は褒めてあげます。もういいです。降りて来なさい」

「あなたが好きだった美味しい卵焼き作って待ってるよ」

「妹も弟も泣いてます。もうこれ以上嘆き悲しませないいで頂戴」

 涙流して叫ぶ母の顔がアップに映し出される。

 屋上まで延長コードを引っ張り、ポータブルテレビを持って来ていた。

 鐘也ら一同は、時折このテレビを見ていた。

 テレビの画面は時折、正面の四条通りを映した。

 通行止めしていた通り、向かいのビルから大勢の人々が見守っていた。

「学生頑張れ!」

「権力に負けるな!」

 等と書かれた横断幕を掲げる人もいた。

 一方、屋上で、昨日までと変わった所は、四条通りにある劇場正面の屋根の下、4階部分にある櫓幕の両側にある二本の梵天が川端通りに移動していた。

 劇場の神様が降臨するとされる神聖なものを移動していた。

 八幡の合図で、その二本の梵天が掲げられた。

 すぐにカメラがアップして映し出された。

 東京のスタジオにいた劇場評論家、演劇評論家が揃って、

「梵天が川端通りに顔を見せました」とつぶやいた。

「これはどんな意味があるのでしょうか」

 スタジオの司会者がすぐに聞く。

 評論家がこぞって説明し始めた。

 不思議なのは、どのテレビ局も、この事態を予めわかっていたかのように、フィリップやボードを使って説明し始めた。

 一方、屋上には、学生のそばには、小分けにされた瓦の破片でいっぱいのバケツがあり、学生は五列縦に並んでいた。

 人間だから、投げる動作を続けるとどうしても肉体の疲労で、遠投の距離が短くなる。

 だから瞬時に交代するための作戦だった。

 八幡が片手を大きく振った。

「始め!」

 一斉に瓦の集中投下が始まった。

 カメラが切り替わり、すぐにこの様子をカメラがとらえる。

 スタジオでは、アシスタントが、絵で書かれたボードを見せていた。

この瓦の投下を伝え、スタジオにいる、「瓦評論家」が解説を始めた。

 世の中には、「瓦評論家」なんているんだと思った。

「都座の瓦は、昭和四年の全面建て替えの時のものです」

「スタジオには、その当時、瓦を敷いた職人さんにお越し願いました」

「あの瓦は、私が丹精込めて敷いたもんです。それを学生ははぎ取って、バラバラにして、壊して、さらに人に向かって投げつけてる!実に嘆かわしい!恥知らずにもほどがある!」

 瓦職人は、テーブルの台本を破って投げ捨てた。

「まあ落ち着て下さい」

「これが落ち着いて見てられますか!刻まれているんですよ。この通りに」

 今度は放送台本を手で何度も破って見せた。

「この台本も放送作家さんが丹精込めて作った台本ですよ。目の前でこうして破かれたら怒るでしょう」

 カメラがスタジオの隅にいる男を映し出した。

 苦笑いしていた。どうやら、放送作家のようだ。

 機動隊も防戦一方ではなかった。

 いよいよ、突入第一弾が来た。

「始め!」

 今度は機動隊隊長が叫ぶ。

 この合図で一斉に放水車が水を都座の屋上目掛けて放水した。

 しかし・・・

 これも梵天の威力なのか。奇跡が起こった。

 屋上にかかる寸前、梵天の前で、Uの字を描くように放水の水は機動隊の方に戻って来た。

「ああああ!どうした事でしょう!放水が戻ってます!」

 司会者が叫ぶ。

「透明のバリケード設置しましたかねえ」

 呑気そうに評論家の声が続く。

「いえ、そんなはずありません!」

 司会者は、正反対に絶叫する。

 一挙に機動隊に狼狽と焦りの導火線がさく裂した。

 その焦りの隙間に向けて、八幡は次の指令をかんなに出した。

「行け!カンナ!」

 カンナは自分専用の瓦バケツに手を突っ込んだ。

 カンナだけは特別の瓦だった。

 鐘也は昨日も見ていた。

 他の連中の投げる瓦は、割れて砕けたものだが、カンナが受け持つ瓦は、都座の紋がくっきりと刻まれたものだった。

 〇に「都」の文字が刻まれていた。

 この字の書体は、勘亭流と呼ばれるもので、年末都座で行われる、顔見世歌舞伎興行の時、劇場正面に飾られるまねき看板と同じ字体だった。

 まねきは、縦1・8メートルの檜板に役者の名前が墨で書かれる。

 この字体の特徴は、全体に内側に入る。

 客を招くと云う意味があった。

 鐘也らは屋上から機動隊目掛けて投げる態勢になる。

 背後に置いてあるテレビは見れないけども、音声は入って来る。

「鐘也くん、よく見てるのよ。昨日の答えを見たいでしょう」

「ああ、そうだった」

 すっかり鐘也は忘れていた。

 都座の紋が入っている瓦とそうでない瓦の違いだ。

 カンナは装甲車目掛けて勢いよく投げた。

 投げた瓦は放物線を描いて、装甲車の屋根に当たった。

 その瞬間だった。

 信じられない光景が始まった。

 何と、装甲車がゆっくりと横転したのだ。

「信じられない!」

 鐘也は放心状態だった。

「何でそんな威力があるんだ」

「私も知らないけど、芝居の劇場の神様がお力添えしてくれているから」

 すました顔で云った。

 とその時だった。

「虹だ!」

 一人の学生が指を指した。

 都座と機動隊の間に虹が浮かんだ。

 初秋の澄み切った空に、浮かび上がった。

 さっき、Uの字で折れ曲がった放水のせいかもしれない。

 野次馬も、幾人かが指さして眺めていた。

テレビの実況アナも一斉に虹の事を話した。

「何と云う事でしょう。虹が両者の間に出来ています!」

「この虹は、勝者の架け橋とも言えますね」

 瓦評論家がつぶやく。

「さて、その勝者は、機動隊なのか、それとも都座にいる学生達でしょうか」

「さあ、今度は鐘也くんがやってみて」

「僕がですか?貴重な瓦なのに」

「さあ、やって」

 この場で断る勇気もなかった。

 一つの「都」紋入り瓦を持って投げた。

 装甲車には当たらず、機動隊員の所に落ちた。

 すると、今度は爆風にあったかのように、20人くらいの機動隊員が一斉に10メートルほど後ろに吹っ飛んだ。

 これを見た他の機動隊員らに、さらに動揺が広がる。

「都紋入りの瓦じゃ」

 幾分落ち着いて来た、瓦職人がつぶやく。

「あれは普通のもんじゃない」

 色々と喋り出した。

 機動隊に、次の一手について、迷う時間が生じた。

「さあ、行くわよ」

 カンナが立ち上がる。

「どこへ行くんですか」

「もちろん、虹を渡るのよ!」

 前方の虹を指さした。

「正気ですか?」

鐘也は真顔で聞く。

「正気です」

「鐘也くんならやれます」

 今まで後方で見ていたほとりが、前に来て云った。

「いやいや、虹ですよ。幻ですよ。渡れるわけないでしょう」

「やる前から否定するなんて、男らしくない!」

「いやいや、男とか女とか、そう云う問題じゃないです。皆さん、冷静に考えて見て下さいよ。虹を見た人はいても、渡った人見た事ないでしょう!」

「これから見るんだよ」

 笑いながら八幡が云った。

「いやいや、駄目ですって、落ちます!」

「やれよ!」

 八幡が云う。

「やれ!やれ!」

他の学生も囃し立てる。

 鐘也の後ろから学生が、ヘルメットを被せた。

「じゃあ私から」

 カンナが虹を渡り始めた。

「お、お、落ちない!」

 空中、いや虹を渡るカンナがいた。

「さあ鐘也くん、一緒に行こう!」

 手を取ってくれた。

 恐る恐る一歩を踏み出す。

 何という事だ!

 固い石の上を歩く感じだ。

 虹の中央まで来た。

 一連の二人の動きを機動隊、野次馬、テレビカメラが目で追う。

「何と云う事でしょう。テレビのご覧の皆さん、これは何の細工も特撮もしてません。これは奇跡です!奇跡の虹です」

 アナウンサーが叫ぶ。

「後世に語り継がれる学生運動ですね」

 冷静に、横にいた評論家が語った。

「まさに、都座!四百年の歴史が育んで来た、芝居の神様の粋な演出のようであります!」

「鐘也くん、さあ今よ!ここでやってよ!あなたの例のものを」

「義太夫三味線ですね」

 すぐにぴんと来た。

 背中から義太夫三味線を取り出す。

 義太夫三味線の例の低音の響きが染み渡る。

 今まで、怒号が飛び交っていた都座の前が一瞬にして静まり返った。

 見物人も話をやめて、固唾を呑んで待ち受けた。

 機動隊も整列した。

 放水車の起動音も消えた。

 起動しているのに、何故かそこから、音声が途絶えたかのように、音だけが消えた。

 義太夫三味線の音色は、多くの人々のこころを一瞬にして掴む。

 今回は、それがテレビ中継で全国にこだまするのだ。

 創作浄瑠璃 「虹(にじ)色(を)渡(わたる)男女夢(ふたりのゆめ)噺(がたり)」

民の楽しみ     それは芝居かな

 民の語らい     こだまする芝居小屋

 それを突き崩す   放水銃

 民の怒りが     届きし芝居小屋

 神の怒りも     届きし芝居小屋

 神が降臨し     梵天さまに

 寄せ付けぬ     神の力

 今に轟きし     神の声

「おい、あれを見ておみ!」

「梵天様に向かって、放水開始してはる」

「何や罰当たりな事してはるなあ」

「おおお、くわばらくわばら」

 民が手を合わせて  祈念する

 願いが届いたか   虹が生まれる

 虹に向かって    民たち首(こうべ)を垂れる

 驚き慌てふためく  機動隊

 虹を渡りし     神の使い二人

 その名を問えば   カンナと鐘也

 出でませ民の喝采  背中に受けし

 全身の光り     まばゆい光り

 喝采拍手が     都座に鳴り響く

 さあさあさあと   手拍子足ふみ

 パチパチパチと   手拍子始めて

 どんどんどんと   踏み鳴らす

 義太夫三味線の音色は、瞬く間に都座屋上から四条通り、川端通りへと瞬く間に伝播した。

 鐘也の目の炎は、一つから三つに増えていた。

 光背からは、メリメリ音を立てて幾つもの炎が燃え出していた。

 さらに特筆すべき事は、鐘也の口からほとばしる、創作浄瑠璃の言葉と共に、幾つもの音符の形の炎が噴き出していた。

 音符炎は、下で見物する民衆に直撃した。

最初当たらないようよけていたが、当たっても全然熱くなくて、逆に至福のオーラに包まれるとわかった民衆は、今度はそれを掴もうと動き出した。

 流れ弾は当たると死ぬが、音符炎は、当たると幸福になる。

 鐘也が大きなため息つくと、火炎放射器のように、青白い炎が直線で装甲車を直撃して破壊した。確実に鐘也の義太夫三味線変化は、パワーアップしていた。

 これらの事象がテレビの生中継で流され、この独特の音色が全国のお茶の間に流れ、視聴者を釘付けにさせて、洗脳させた。まさに電波で伝播したのだった。

 鐘也の義太夫三味線に合わせて、カンナは、一体どこで調達したのか、鼓で応戦した。

 史上初の、虹の上での、義太夫三味線、鼓との合奏創作浄瑠璃だった。

 また鐘也の口元から出る流れ音符を呑み込んだ機動隊隊員は、たちまち戦闘能力を失いただ、見ているだけではなかった。

 さらに機動隊は五列縦隊で並ぶと、何と鐘也の義太夫三味線に合わせて、右手に警棒、左手に盾を持って、どこで稽古したのか、一糸乱れずその場で踊り出した。

 警棒で盾を叩く場面では、二人一組になり、向き合って、警棒で互いに目の前の人の警棒をテンポよく叩く。

「何と云う事でしょう!今度は機動隊ダンス披露だ!どこで稽古していたのでしょうか!」

「素晴らしい足並みですね」

 スタジオにはまた別の評論家が出ていた。

 テレビ画面テロップに、「機動隊ダンス評論家」と出た。

「休みの日に、機動隊員は京都御所、円山公園とかで練習を重ねたそうです」

 と評論家がしたり顔で説明した。

「信じられない光景が続々と見られていますね」

 司会者は、評論家を見ながら聞いた。

「これが都座の神のご加護の賜物だと、私は思います」

 評論家は力強く答えた。

機動隊タップダンスは続く。

その場での足踏みに始まり、三歩ぐらいの前後左右移動から、五メートルぐらいの長い移動など、細かいテクニックで見物人を魅了した。

今まで、見物人の多くは、屋上にいる、学生への応援一辺倒だったが、この機動隊ダンスで一挙に風向きが変わった。

「中々、頑張ってはる」

 の声があちこちで聞かれた。

 それに対して、学生たちは・・・

「おっと!ここで学生たちの反撃です!見て下さい!カメラさん、屋上アップして下さい」

 再び司会者が絶叫した。

 カメラが屋上にズームインした。

 いつの間に用意したのか、屋上に五段の山台が登場した。

 段には、赤毛氈が敷かれていた。

 居並ぶ学生たちは、ヘルメット被ったまま、義太夫三味線を弾き出した。

「学生たちは、京大、同志社大学の(三味線同好会)と(歌舞伎同好会)の有志たちですね」

 またまた評論家が代わり、テロップに、

「学生義太夫三味線評論家」と出た。

「稽古は、京大は学生寮、講堂で、同志社大学は学生会館で稽古して来ましたが、合同での合奏はこれが初めてです」

「つまり、ぶっつけ本番ってわけですね」

 司会者の口調は益々興奮の度合いが増した。

 茶の間で見ている国民も同じ思いだった。

 居並ぶヘルメット学生50人による、義太夫三味線のツレ弾きは壮大で、圧巻の絵巻物のようであった。

 皮肉にも、居並ぶ学生の背後に映る本瓦が抜け落ちた都座の屋根が、学生運動の凋落を思わせていた。

   創作浄瑠璃「全劇連決戦近日突入戦線」

 大地揺るがす   足音ぞ

 踏みしめ噛みしめ 突き進む

 学生なんかに   負けてたまるか

 闘志と意地の   張り合いは

 どこまでも続く  水と油

 けれども民は   知っている

 目指す目標は   同じ平安の世

 立場が違えども  歩む道は同じかな

 足元響きし    どんどんどん

 平安の夜明け   目指し歩み出す

 義太夫三味線の音 ぺんぺんぺん 

 学生の自治の   開け開け学び人


 50人の学生の義太夫三味線のバチさばきは、見事であった。

 この時代、ややもすると、西洋楽器が尊重され、エレキギターがはびこる世の中だったが、これに真っ向から異議を唱える形での義太夫三味線の登場だった。

 この時から鐘也の弾く義太夫三味線にも変化が起きていた。

 金色のオーラが義太夫三味線の周りを取り囲んでいた。

 さらに鐘也の身体にも変化が起きていた。

 まず顔が真っ赤に燃え広がり、血管が浮き出始めた。

 目の炎が三つから五つに増え、そのうちの二つは目から飛び出て、涙道で燃え始めていた。

 胸の筋肉が盛り上がり、煙が出始めた。

 光背の炎は葉っぱの形になり、その高さは10メートルは越えていた。

「ありゃあ、人間じゃねえ。地獄の使者だ」

「そう、怒っているよなあ」

 民衆は、正直につぶやく。

 鐘也の義太夫三味線の音色がいよいよ最高潮を迎えようとした。

 突然、放水が始まった。

 その目標は、屋上にいる学生ではなくて、虹の上で演奏を続ける鐘也とカンナだった。

 まさに不意打ちを食らった。と同時に虹が消えかかった。

 鐘也はすぐに気づいて都座の屋上に戻ろうとした。

 一方のカンナは、放水が足元に大量にかかり、つるっと足を滑らせた。

「あっ」

 見物人も機動隊員もヘルメット学生も同じ言葉を発した。

 次の瞬間、カンナは落ちた。

 鐘也は辛うじて、ほとりが差し出した手にしがみついて無事に屋上に戻った。

 カンナは、落下の途中、電線に一回目のバウンドして、さらにホロ付きのトラックの屋根に当たって、二回目のバウンド。三回目に機動隊員たちの所に落ちた。

「カンナ!」

 鐘也の絶叫する涙に溢れた顔がテレビ生中継された。

 日本国中の人々の涙を誘った。

 カンナは待機する救急車ですぐに病院に運ばれた。

 怪我人が出た事で、機動隊による都座突入作戦は中止された。

 その日の夕刊は、こぞって、京都府警機動隊、政府を非難した。


「足元すくう、卑劣な機動隊!」

「女子学生のカンナさん、屋上から落下!」

「カンナさん、重体!」

 カンナの地元、広島からは怒りの声が同時に上がった。

「広島の悲劇、再び!」

「カンナの母親、被爆!娘は機動隊に向けて自爆」


 事件後、京都府警は緊急記者会見を行った。

機動隊隊長は、

「あれは、虹が消えかかったので、それを補うための補充であり、決して二人を狙ったものではない」と釈明した。

 この釈明がまた、大衆の怒りを買ってしまった。

 翌日、ワイドショー各局は落下シーンのビデオを何度も繰り返して放映していた。

 今では考えられない事だらけだった。

 さらにマスコミ各社は、

「卑劣な方法での放水!これは国家権力殺人である」と攻め立てた。

 

     ( 3 )


 都座の舞台で、八幡、鐘也、ほとりが記者会見に応じた。

 最初、楽屋で行うつもりだったが、日本だけでなく、海外からのマスコミが詰めかけたため、急遽舞台で行う事になった。

 総勢500人の記者、ワイドショーレポーター、そして100台のビデオカメラが客席を占領した。

 開演ブザーが鳴り響く。

 それが切っ掛けで客席の電気がゆっくりと消えて行く。

 暗闇の中で緞帳が静かに上がる。

 だから、客席の記者たちは、緞帳が上がったのに気づかない。

 舞台静かに、明かりが入る。

 一条のスポットライトが冷たく降り注ぐ。

 その光の先には、舞台に一輪の花、カンナ花が牛乳瓶に入れられていた。

 客席に静かなどよめきと、カメラのフラッシュが幾度も焚かれていた。

 スポットライト明かりに遅れて、舞台全体に明かりが入る。

 ブルーの明かりだ。

 前方、上手下手フロントライト、正面のシーリングライトも青色に変わる。

 2ボーダーライト付近のバトンに吊られた写真パネルが降りて来た。

 と同時に、上手から八幡、下手から鐘也、舞台奥からほとりがこれも静かに舞台前に進む。

 一番前の小さなセリが上がって来た。

 机と三脚の椅子が顔を出した。

 三人には、それぞれセンタースポットライトが当たった。

 恐らく、記者会見でスポットライトフォローも初めてなら、舞台、客席を使用したのものも初めてだろう。

 三人は、座った。

 三人とも黒服である。

 まるで、一編の演劇を見ているようだった。

 一連の演出を提案したのは、鐘也だった。

 上手袖に、本日の司会者である楽屋番の双ヶ丘華代が顔を見せた。

 華代も同じく、黒服であった。

「それでは皆さん、大変お待たせしました。これより、八幡全演劇連合委員長の記者会見を行います」

 一同礼をした。

 すぐに矢継ぎ早に質問が飛んだ。

「籠城は続けるのですか」

「続けます」

「いつまでですか」

「期間はわかりません」

「カンナさんの容態はどうなんですか」

「重体です」

「どこの病院ですか」

「それについては、お答えは差し控えさせて貰います」

「どうしてですか」

「警察からの要請です」

「そんな時だけ、警察には従順なんですね」

 皮肉を込めた記者の答えに、場内に苦笑いが立ち込める。

「節操ない、下品なあんたのような記者が来るのを防ぐためです」

 鐘也にも質問が飛んで来た。

「あの虹を渡るマジックの種明かしをして貰ってもいいですか」

 はなから、マジックだと決めてかかる記者だった。

「あれはマジックではありません」

「人間が空中を歩けるはずがないだろう。もしもそんな事が出来るのなら物理学を根底から覆す事になる」

「ええ。でもマジックではありません」

「だったら、今ここで場内を空中散歩してみろよ」

 別の記者が横柄な口を叩く。

 鐘也は一瞬、むかっとなった。

 八幡が、その手に乗るなと顔で合図した。

驚くほど静まり返っていた。

 華代は、一連のやり取りを八ミリビデオカメラで撮っていた。

 これは八幡の指示だった。

「警察に何か云いたい事がありますか」

「もうこれ以上犠牲者を出さないためにも、都座突入作戦は、即刻やめて頂きたいです」

「そちらが、全員投降して、都座を出るのはどうなんですか」

「それは絶対にあり得ません」

「籠城の目的は何ですか」

「演劇を一般大衆への開放です」

「しかし都座の劇場は竹松の持ち物です。云わばあなた達は、不法占拠しているんですよね」

「いや違う!」

「何が違うんですか」

「私はあなたと議論してる暇はないです」

「しかし、そのための記者会見でしょう」

「違います」

「何が違うんですか。きちんと説明して下さい」

 八幡が華代に合図した。

「他に質問ありませんか」

 中国新聞の記者が手を挙げた。

「重体のカンナさんは、お母さまが、広島の原爆で命を落とされています。その事は御存じでしたか」

「ええ、もちろん」

「今、カンナさんにかける言葉がありましたら、お聞かせ願います」

「生きろ!生きろ!生きろ!」

 八幡の声がさく裂した。

 それが合図だった。

 鐘也はバチで、義太夫三味線を弾き始める。

 重低音のいつもの、義太夫三味線の音色が、舞台と客席をひたひたと侵入して来た。

 今まで喧嘩腰の記者も金縛りにあったかのように、客席に縛り付けられ微動だにしない。

 まさに、鐘也のマジックとも思える義太夫三味線世界に突入してしまったのだ。


 創作浄瑠璃「カンナ命生きろ」

 荒れた大地に  顔を出した

 地獄の大地に  一つの希望

 そんな人々の  願い取り持つ 

 花の名前は   聞かれたら

 その名を叫ぼう 皆と一緒に

 その名を叫ぼう 仲間と肩組んで

 カンナカンナ  カンナと歌おう

 希望の光り   きっと輝くよ

 私の命が    今尽きようとも

 お前はずっと  命の泉飲み続けて

 世の人々の   こころを満たすのだ


 鐘也の哀愁を帯びた歌声、それに義太夫三味線のこれも今日は何倍もの空しさ倍加させた音が幾重にも重なる。

 今日の鐘也の目には、昨日までの炎が生まれなかった。

 光背の光りも真っ赤から、今日は青白いもので、静かに燃え上がった。

 いつもの怒髪天の金髪から、今日は真っ白に変化した。

 足元から白い煙が漂う。

 ドライアイスだった。

 舞台上手下手からのドライアイスマシンからではなくて、鐘也の足元、身体から出ていた。

 客席が、煙により静かに濡れる。

 鐘也の目に溜めた涙は、急速に客席上に駈け上がり、小粒の雨となって降り注ぐ。

文字通り、鐘也の涙雨だった。

 観客の記者は誰一人動こうともしない。

 全員背中が縛り付けられているみたいに、全く動かない。いや動けないのだ。

 場内はさらに不気味なほど、静まり返った。

 記者たちは、うつむき、目頭を押さえていた。

 今回の記者会見も生放送で、日本だけでなく、世界中に広まった。

 これが「都座カンナ事件」なのだ。

 社史、歴史書物なら、この一行で終わる。

 しかし、現実は違う。

 こんなにも、多くの人々のこころの山が築かれたのだ。

 鐘也の新作浄瑠璃が終わった。

 この浄瑠璃披露で、マスコミの注目人物が一変した。

 八幡から鐘也にである。

 鐘也は舞台から客席に降りた。

 瞬く間に、幾重もの人垣、人の大波が鐘也に打ち寄せた。

「今の気持ちを一言」

「カンナさんに届いていると思ってますか」

「憎い機動隊に一言」

「義太夫三味線はどこで習ったんですか」

「今のは即興ですか」

「本当は前もって、準備して作っていたんですよね」

「創作浄瑠璃の心得をお願いします」

 質問の大波には、一言、

「あの今歌った、創作浄瑠璃とこの義太夫三味線の音色、これだけです」

 ぐいっと義太夫三味線を前方に押し出した。

 それ以上何も答えなかった。

 鐘也の顔と義太夫三味線が一緒の写真を撮ろうと、カメラのフラッシュが、まぶしく、目を開けていられないぐらいの閃光を発した。

 しかし、にこやかに鐘也は動じず、じっと目を見開いていたのだ。

 ふとその時思った。

(広島原爆の閃光は、この何百倍だったのだろう)

 夕刊各紙の見出しは、


「届け、義太夫三味線の音色」

「重体カンナさんへの、創作浄瑠璃」

「常盤鐘也くんからカンナさんへの愛の創作浄瑠璃プレゼント」

「今度は都座の舞台で披露!創作浄瑠璃」

「カンナさんへ届け!義太夫三味線・創作浄瑠璃」


 中国新聞は、独自の見出しだった。

「広島に届け!義太夫三味線、平和の創作浄瑠璃」だった。


 やがて、マスコミ陣は撤収を始めた。

 場内に一人、こちらに背中向けて立ち尽くす男が一人いた。

「あのう、そろそろお時間ですけども」

 少し遠慮気味に華代が楽屋番の声掛けした。

 その時鐘也、八幡、ほとりは舞台袖にいた。

 華代が居残る人の事を云いに来た。

 三人はその男の所に出向いた。

「どちらのマスコミの方ですか」

 用心深く八幡は、少し男と間合いを取っていた。

 男はゆっくりと振り返った。

「ああ、すみませんでした」

 男の目は真っ赤で、涙がまだいっぱい溢れて洪水がまだ終わってなかった。

 いきなり鐘也の手を握りしめた。

「うん、うんよかった、よかった!最高の創作浄瑠璃でした」

 自分に言い聞かすように男は何度もうなづいていた。

「あ、有難うございます」

「ぜひ、今度は本当にカンナさんの耳元、枕元で聞かせてあげて下さい!」

「あなたは記者じゃないですね。誰なんですか」

 八幡はそう云って、身構える姿勢を強くした。

「すみませんでした」

 男は、ポケットから警察手帳を取り出して見せた。

「け、警察!」

 八幡も鐘也も、身構えた。

男の名前は、深(ふか)草(くさ)彰(しょう)祥(しょう)。

 京都府警機動隊所属で、昨日の放水事件の時もそばにいたそうだ。

「カンナさんの枕元って、あなたはカンナさんが収容されてる病院を御存じなんですか」

「ええ、知っています。これから皆さん、私と行きましょう」

 鐘也、八幡、ほとりは顔を見合わせた。

 さて、どうするか?

 互いに質問するような顔つきだった。

「時間がないです。急ぎましょう」

「何で時間がないのですか」

「これ以上容態が回復しなければ、転院させるようです」

「どこへ」

「舞鶴港です」

 京都府の日本海側にある港だ。

「何ですって!何で舞鶴港なんですか」

「今極秘に、米国海軍が寄港しているんです」

「何のために」

「もちろん、都座鎮圧のためです」

 陸路では勘づかれるために、一旦琵琶湖へ行き、特殊ボートで琵琶湖水路から鴨川、さらに鴨川べりからの奇襲作戦だった。

 政府は極秘に米国に要請をしていたそうだ。

「わかりました。でもカンナさんを何でそこへ」

「もし仮に亡くなったと報道したら、暴徒化した学生、市民で京都市内で市街戦となります。

 それを一番心配しているそうだ。

「カンナの命を何だと思っているんだ!」

 語気を強めて鐘也は憤怒した。

「表向きは、転院させて手術を受ける。しかし、真相は、云わば、学生のシンボルを取り除くためです!」

 今やマスコミは、全く学生の味方であった。

 今朝から東京製作のワイドショーも機動隊への非難、学生の応援で埋め尽くされていた。

 都座正面玄関には、市民からの差し入れ所を開設していた。

 食べ物、京都銘菓の和菓子、京野菜、文具など。

 京都らしく「カンナお香」まで登場した。

 さらに記帳所も開設した。

 ここには、京都の有名な寺社の住職、禰宜が訪れた。

 この模様を二十四時間、通常番組をやめて放映しているから、益々市井の人達は学生の味方へと変貌していた。

 さらに多くの見物人、観光客も加わる。

 急遽、都座は、今まで売れ残っていたパンフレット、番付(筋書)を試しに販売したところ爆発的に売れ出した。

 向かいの菊水レストランでは「カンナ定食」「機動隊弁当」を売り出して、完売していた。

 今まで劇場封鎖で底冷えの祇園商店街だったが一気に盛り返していた。

 都座周辺の店は活況を呈していた。

 商店主の本音は、「いつまでも劇場封鎖が続く」事だったが、そこは京都人。

 決してこころの奥底は見せない。

「早よ、解決願います」

 とマスコミ向けには声を出して云っていたが、都座からほど近い、芸能の神様として知られている「辰巳稲荷神社」、嵐山の「車折神社」には日参していた。

「一日も長く都座封鎖が続きますように」と祈願していた。

 臨時の屋台、店も出来た。

「全劇連弁当」「創作浄瑠璃弁当」「カンナ応援弁当」まで出て来た。

 食べ物だけではなくて、雑貨店では、「カンナうちわ」「カンナ財布」まで登場した。

 また近くの生花店ではカンナの売れ行きが倍増した。

 デパートでは、急遽生花売り場を一階の中央に拡充設置していた。

 全国の生花市場では「カンナ」花が急騰していた。

 世相動向に敏感な株式市場では、都座を運営する竹松に買い注文が殺到していた。

 都座への贈り物はもちろん、自分の家で飾る人がいた。

 もはや、機動隊対学生の闘いは、新たなテーマパーク見物になって来た。

 場所柄、京阪電車「四条」駅、阪急電車「河原町」駅からすぐで、京都駅からでも車で10分の交通至便だから、どっと人が押し寄せた。

 突入時一時中断していた京阪電車も、運行を再開していた。


    ( 4 )


 カンナが収容されているのは、京都御所病院だった。

 京都御所の東側に位置する病院で、歴史は古く、室町時代、足利義満が幕府を開いた頃、将軍のお休みどころとして活用された。

安土桃山時代には、すでに漢方医が集まる所として有名になっていた。

 明治天皇の父である孝明天皇も使用されていた。

 江戸時代は、皇室、公家専用の医院となった。

 太平洋戦争後、京都も大きな病院は進駐軍に接収されたが、天皇の威光があるこの病院は、接収されずに今日に至っている。

 明治時代に煉瓦建築に建て直されていた。

 幾度の耐震補強、増改築されたが、ほぼ当時の姿を残す建築だった。

 その名前を聞かされて鐘也は思った。

(因果だな)

 都座バックステージツアーにそもそも、行く羽目になったのは、祖母の、京都御所病院の入院見舞いから端を発していたからだ。 

 都座を出る時、深草の誘導で、鐘也と八幡は白衣、ほとりは看護婦に着替えさせられた。

 三人は、深草からの紹介を受けた医療スタッフと云う名目で正面突破を試みた。

「全て私が話します。皆さんは何も話さなくていいですから」

 その取り決めだった。

 車が正面に止まる。

 警備する二人の警官がいた。

「ご苦労」深草が云う。

「その方は」

「見ればわかるだろう。医者と看護婦だ」

「どこの依頼ですか。紹介先を書いて下さい」

「急を要する。カンナさんにもしもの事があれば、貴様責任が取れるのか!」

「はっ!」

 慌てて警官は敬礼した。

 二人の間をすり抜けて中に入った。

 最上階の五階、そしてその病室。

 そこは、あの蘭世が入院していた所だった。

 病室の造りはほぼ同じで、調度品が変わっているぐらいだ。

 それと、バストイレがついていなかった。

 その分、ソファのある空間が広かった。

 大文字山が見える掃き出し窓枠が、アルミサッシから木造りに変わってるぐらいだ。

 カンナは寝ていた。顔と鼻が見えた。

 もう少し布団をずらそうとすると、

「起こさない方がいい」

 深草が、鐘也の布団をめくる手を止めた。

「わかりました。集中治療室ではないんですね」

 少しほっとした鐘也は云った。

 あの蘭世の病室を訪れた時、確か出前のうどんを食べていた。

 鐘也の脳裏に一瞬、その時の光景が蘇る。

 まさに過去の映像と今の見ている光景が重なり始めた。

 ゆっくりと二つの光景が、左右から近づきかなり始める。

「あの時・・・」

 鐘也の思考がここでストップ。

 二つの映像もストップ。

「確か、蘭世は・・・」

 蘭世が、カンナに変わって行く。

 くるっと振り返り、八幡を見た。

 お互い確認した。

「トイレどこですか」と八幡は、深草に聞く。

「ああ、じゃあ一緒に行きましょう」

 二人は病室を出た。

 鐘也はベランダへ行き、ある作業して戻ると、ほとりに指示した。

 二人は戻って来た。

 すでに鐘也は、義太夫三味線を手に持っていた。

「ほとりさんは」

「お手洗いです。もう戻りますから始めましょうか」

「では、お願いします」深草が云う。

「わかりました」

 病室に義太夫三味線の音色が響き始めた。

 創作浄瑠璃「カンナは何処へ」

 カンナ探して    やって来た

 大文字山が     見える病室

 カンナ目を閉じて  眠っています

 起きて起きて    起きて大変だよ

 眠っている人    誰ですか

 カンナカンナ    カンナ

 起きなさいと    僕は云う

 狸寝入りかな    こころの葛藤

 狸寝入りかな    迷いの眠り

 いつかはばれる   こころの逡巡

 カンナカンナ    カンナ

 本当に今      何処へ

 本当に今      心配だ


 演奏終わると、深草は義理で拍手した。

「何だか、今回の義太夫三味線、創作浄瑠璃。全然心に響かなかったよ」

「ええ僕も演奏していてそう思いました」

「作詞もよくないなあ。どうしたの」

深草は詰問した。

「そうですねえ。やはり一杯めのうどんではないからかな」

「一杯目のうどん?きみは何を云ってるんだ」

「素人の芝居は、やはりあらが見えて来るんで、吹き出しそうになりました」

「何?」

「深草さん、茶番劇はおしまいにしましょうか?お互い時間の無駄ですから」

「茶番劇だと!」

「まだわかりませんか」

 鐘也と八幡が半笑いしながら、ベッドに横たわるカンナを見た。

 はっとして深草は、がばっと布団をはがした。

「もう目を開けていいですよ。ばれてますから」

 鐘也は、ベッドに横たわる女性に声をかけた。

 女性はゆっくりと目を開けた。

「ほ、ほとり!これは」

「はい。カンナの替え玉です」

「カンナはどこへ行った!」

「確か仲間が・・・」

 鐘也と八幡がベランダから垂れる緊急用縄ばしごを見た。

「やりやがったなあ!」

 深草は、一目見て、すぐに病室を出て行った。

 鐘也は次に、ベッドの下で眠るカンナを引きずり出した。

「ちょっとの間、我慢して下さい」

「ええ、さっきの創作浄瑠璃で少し元気出ました」

 鐘也は、車椅子にカンナを載せた。

 八幡も車椅子を調達してほとりを載せた。

 つまり、これも鐘也組の替え玉が八幡・ほとり組だった。

 エレベーターに乗る。

「しかし、鐘也くん、よく替え玉思いついたなあ」

 鐘也が、祖母が替え玉付きの出前うどんを、この病室で食べていた事を話した。

「替え玉付きの出前うどんかあ。一度食べてみたいなあ」

「私も」

 カンナとほとりが同時に声を上げた。

「でもどうして替え玉作戦する必要があったんですか」

「もちろん、深草をこの場から引き離すため」

 エレベーターで一階に降りた。

「二手に分かれよう」

「ああ、元気で」

 八幡がわざと逃げるように車椅子を押す。

「見つけたぞ!」

 その声が聞こえた。

 一方、鐘也とカンナは裏口から出た。

 行く当ては全くなかった。

 裏門から一人の看護婦が車から顔を出した。

「こっち!さあ乗って!」

 鐘也とカンナは一瞬躊躇した。

 しかし、背後で

「見つけたぞ!」

 怒号の声が背中に突き刺さる。

「さあ早く!」

 急いで二人は乗った。

 車は急発進した。

 裏門の警備員が近づいたが、強引に突破した。

「私の名は小野こまち」

「常盤鐘也です」

「カンナです」

「例の都座の前で、虹を渡ったカップルよね」

「よくご存じで」

「もう毎日テレビであんたとカンナさんの事放送してるから」

 背後からサイレン鳴らしてパトカー数台が迫る。

「前の車、止まりなさい!」

拡声器から怒鳴り声が突き刺さる。

「あいつら馬鹿みたい。あんな事聞いて止まる奴いるわけないでしょう」

「どうしますか」

「そうねえ。普通の道路行っても、封鎖してるみたい」

 見ると検問所していた。

 三条通りに出ると、

「ちょっと捕まっててよ」

「どうするんですか」

「うん、ちょっと車で、川べり散歩しまーす!」

 アクセル踏み込んで、車は三条通りから鴨川の遊歩道に突っ込んだ。

 今では、鴨川の両側に遊歩道があるが、この時代は、右岸、つまり南を向いて右側しか遊歩道がなかった。

「嘘でしょう!」

 カンナは目を丸くした。

 遊歩道に出た車はギリギリで右にハンドルきった。

 もう少しで、鴨川転落だった。

 右手に先斗町歌舞練場見ながら、真っすぐに四条通り目指した。

 こういうカーチェイスはハリウッド映画でよく見るがまさか、自分たちが当事者になってしかも、東京、大阪でなくて、古都、奥ゆかしい京都であるなんて信じられなかった。

 鴨川べりのカップルも突進する車に唖然としていた。

 パトカーも追走して来た。

「ウッソー、まだついて来る!」

 遊歩道の幅は、五メートルもない。

 車が疾走していたがギリギリの幅だった。

 川べりでは、カップルが等間隔に並んで座る、京都では有名な恋人カップルの聖地だった。

 いつもなら、鴨川の川べりを見るのだが、突然の前代未聞の、珍客、車の乱入に、恋人カップルは一斉に立ち上がった。

 一方、反対側の先斗町の店の床では、客が出て宴会を開いていた。

 中には、舞妓が踊っていた。

 初夏になると、木組みの床が鴨川べりの突き出す。

 京都の夏の風物詩で、まもなく終了する。

 三味線を弾いていた女将も車の失踪に思わず手を止めていた。

「いやあ、見ておうみ。えらい急いではる」

「ほんまや」

 呑気に舞妓もつぶやく。

 幾多の動乱、戦乱を経て経験して来た京都と市民。

 少々の事では驚かない。

 しかし、史上初の遊歩道での車、パトカーの追跡劇はかなりインパクトあった。

 幸い、怪我人、死者は出なかった。

 車、パトカーをよけようとして、慌てて、鴨川に飛び込んだカップル、男、女がいた。

 服を乾かす理由でラブホテルへ行くカップルもいた。

「本当、あいつしつこいんだから」

「あいつって?」

「深草よ」

 こまちは深草に付きまとわれているらしかった。

 遊歩道を四条通りまで来た。

 粗っぽっく、階段を車で駈け上がった。

 小型車なので、かろうじて登れた。

 四条通りに出て一挙に車が増える。

 右手に都座が見える。

 遮断機が下り始める。

 四条通りと交差するように、まだこの時代は、地上を走る京阪電車だった。

「行くわよー!」

 車は突っ込む。辛うじて遮断機を潜り抜けた。

 すぐに右折して、都座の搬入口が見えた。

 少し高い所にある搬入口では、機材搬入でスロープ坂が設置されていた。

「全開で行く!」

 鐘也もほとりも目を瞑った。

 急な上り坂を登り切り、都座の舞台に車ごと突っ込んだ。

 フォークソングの集会が開かれていた。

 舞台中央に車を止めた。

 一瞬、客席は静まり返った。

 しかし、車内から鐘也とほとりが出て来たので、次の瞬間、大歓声が巻き起こった。

「ファンキーな演出!」

「さすがは都座!」

「これ最高!」

 観客は、一つの演出と捉えていたようだ。

「どうも。皆さんお待たせしました」

「待ってました!」

 さすがは都座。

 間髪入れずに大向こうがかかる。

「待っていたとはありがてぃ」

 お約束通りの言葉を鐘也は返した。

 最前列のヘルメット学生が舞台に上がって来た。

「ここでフォークギターと君の義太夫三味線との合同演奏やらないか」

 と提案して来た。

「異議なし!」

 今度は客席から多くの学生が反応した。

 ヘルメットにひげ面。

 どこかで見た事ある顔。

 こまちが、鐘也の後ろに隠れた。

「鐘也君、こいつ学生じゃないよ」

「えっ?」

「こまち、さすがは見破るの早いなあ」

 ひげ面は笑った。

 ひげ男は、べりっと顔に手を当てると、ひげをはぎ取りメガネを捨てた。

「深草さん!」

「こいつ、昔から変装名人なんだから」

「もし、義太夫三味線演奏が勝ったら、ほとり、八幡を返還してやる」

「で、反対にギターが勝ったら?」

「きみの後ろにいる、こまちを返して貰いたい」

「もし嫌だと云うと」

「もちろん、都座武力で制圧だよ。すでに準備は出来てる」

「その判定は誰がやるんですか」

「もちろん、この客席にいる学生さんだよ」

 深草が客席に顔を移した。

「それでいいかな、皆」

「異議なし!」

「早くやれ!」

 一体深草が、例え変装に長けていると云ってもどんな方法で、上手くこの会場に紛れる事が出来たのか?

 それを問いただす事はもうやめようと鐘也は思った。

 都座バックステージツアーの旅で思ったのは、自分の力、意思では逆らえない何か得体の知れない大きな力が全ての行動を指令していると云う事だ。

 一つ一つの行動は確かに、自分で考えて行動していた。

 ちょっと巻き戻せば、京都御所病院での替え玉作戦。

 作戦も、もっと戻せば、祖母蘭世が食べていたうどんにまでたどり着く。

 果たして祖母があの時、うどんを食べていたのは、本当に偶然なのか。

 もはや、何が真実かどうかわからなくなって来た。

 二つの出口があるとしよう。

 当然自分で考えて片方の出口に向かう。

 でもその行動すら、本当に自分が決めたものか怪しいものだ。

 人生、いや日々の生活は、選択の積み重ねだ。

 毎日の生活ではそんなに気づかないけども。

 自販機の前でジュース買うかコーラ買うかで迷う。

 ジュース買ったら、当たりが出る。

 もしコーラ買っていたらその当たりに出会わない。

 もしあの学校に行かなかったら、別の学校に行っていたらまた別の人に出会っていただろう。

 そこまで考え出したら、日々人間が生きて行くパターンは天文学的数字になるだろう。

「カンナさんは、病み上がりなので、そばで座って聞いていて下さい」

「わかりました」

 袖にいた裏方が、箱馬を持って来た。

 カンナは、その箱馬に座った。

 義太夫三味線を鳴らす。

 いつものように、今までざわついていた客席が一挙に深海か宇宙に変化した。

 今、まさに全ての人達のこころの中に、あの義太夫三味線の音色とともに、至福の時が訪れようとしていた。

 その期待感は、すでに各々の人々のこころの中に生まれるのを感じていた。


 創作浄瑠璃「熱き同志の雄たけび」

 今ここにいる   同志たちよ

 今ここで休む   仲間たちよ

 雨がやんで    日が差す時

 きっと虹が    かかっている

 あれを見るがいい 同志が指さす

空のかなたに   浮かぶ雲

 雲と雲のあいだに 芽生える希望

 共に歩こう    共に生きよう

 今は闇が支配して 闇が闊歩する

 闇が追いかけて  覆われても

 悲しまないで   悲観しないで

 きっと虹が    かかっている

 虹が消えても   夢は消えない

 虹が消えても   光りは消えない

 天はきっと    教えてくれる

 天はきっと    見ているだろう

 天からの使者は  降り立てよ

 この劇場に    この都座に


 鐘也は必死で義太夫三味線を弾き、即興で歌った。

 舞台に人々が集まり出した。

 その数はどんどん増える。

 カンナも最初は座って聞いていたが、その渦に加わっていた。

 再び鐘也の背中が躍動を始めた。

すぐに頭は金髪になり、怒髪天で逆毛立つ。

胸の筋肉が躍動を開始して、内面から煙が噴き出した。

肌着を食いちぎり、燃やしてどんどん煙は充満した。

背中にも小さな煙が立ち上る。たちまち、幾筋もの炎が立ち上がる。

 最初はゆらゆら揺らいでいたが、炎の勢いは強くなり、燃え出した。

 目には魂の炎が飛び出す。

 仏像の一種、広目天像は、何でも見通す事が出来る「浄天眼」を持っているが、今の鐘也の目も観客のこころを全てお見通しの「浄天眼」が宿っていた。

 不思議なのは、即興の語り、歌なのに、舞台、客席の皆が歌い出した事だ。

(えっどこかに歌詞カードでもあるのか)

 辺りを見渡したが、当然そんなものはない。でも歌っていた。

 鐘也の頭の中で生まれた歌なのに!

 拳を握りしめて絶叫している学生もいた。

 舞台にいる学生は、手に何やら持っていた。

 よく見るとそれは瓦の破片だった。

 あの機動隊に目掛けて投げていた瓦だった。

 カンナは右手に例の紋入り瓦。左手にはブローチを握りしめていた。

 カンナは、義太夫三味線を演奏している鐘也に近づいて来た。

 鐘也は、義太夫三味線を演奏しているので、手が離せない。

 カンナは、鐘也のポケットに手を突っ込んだ。

 鐘也のブローチを取り出して、二つのブローチを紋入り瓦の上で一つにした。

 するとどうだろう。

 まばゆい光りを放ち、その光は四方八方に散って行く。

 光りと皆が歌う歌が、場内の格天井にまで届いた。

 格天井の色が変わり始めた。

 光りに包まれて人々の幸せが最高潮に達した。

 その時だった。

「お遊びはそれぐらいだ!」

 上から聞こえた。

 まさに天からの声だった。

 全員が上を見上げた。

 突如大きな爆破と爆発音が二重に折り重なった。

 格天井が崩れる。

 その破片が場内に突き刺さる。

 悲鳴を上げて逃げ惑う学生。

 上空から土煙を上げて、幾多の炎が生まれた。

 煙の隙間から、その巨体の顔を覗かせた。

 舞台袖に逃げ込んだ鐘也たちは、最初それが何かわからなかった。

「ゴジラが来た!」

 気が動転した何人かの学生が吠えた。

 しかし、それはゴジラではなかった。

「ヘリコプターだ!」

 都座の舞台にヘリコプターが着陸したのだ。

 物凄い風が袖にまで押し寄せた。


    ( 5 )


 舞台にヘリコプターが登場するミュージカルを鐘也は、東京で見た事があった。

 しかし、あれはオブジェに近いものだった。

 今、眼前に広がるものは、舞台装置ではなくて、本物だった。

 ヘリコプターが舞う羽根の回転で生まれる人工の風を初めて体感した。

 髪の毛が舞うとか、そんな生易しいものではなかった。

 風圧で息が出来なくなる。

 他の人も同様で、膝まづき、下を向き、身体全体を使って、息を体内に取り込んでいた。

 客席後方の天井の穴が開いて、空が見える所々から落下傘部隊も場内に舞い降りた。

 場内の扉に舞台は二人づつ並んで立つ。

 もう学生たちはどこへも逃げられない。

 ヘリコプターのローターの回転が止まる。

 ドアが開く。

 八幡が出て来た。

 その後ろに兵士が立つ。

 やや遅れて、サングラスかけた隊長が顔を見せた。

 じっと見ていた鐘也は、信じられない光景に絶句した。

「カネナリは元気か?」

 そう云ってゆっくりとサングラスを取った。

「や、柳子さん!」

 思わぬ人物の登場で鐘也の頭の中が混乱した。

 鐘也は舌打ちした。

「あら、私の登場がそんなに気に入らないの、鐘也君」

 どうやら、舌打ちが柳子にも伝わったようだ。

「いえ、そうじゃなくて、自分の頭の中が整理出来てなくて。自分への舌打ちです。でも派手な登場ですね」

「ちょっとやり過ぎたかなあ」

 舞台に舞い降りたヘリコプターの頭上がぽっかり天井が破れて、崩れて青い空がぽっかり浮かんでいた。

「誰この人」

こまちとカンナが聞く。

「昔、お世話になった進駐軍の通訳していた人」

「ふーん、あんた日本人なのに、アメ公の味方なんだ」

まずこまちが挑戦的な声を出した。

 鐘也は八幡と握手した。

「ほとりさんはどうしたんですか」

「ご心配なく。別の所にいます」

「別のところって」

「まあひとまず、カンナさんを休ませましょう」

 カンナはさすがに疲れたのか舞台に座り込んでいた。

 すぐに幹部楽屋に収容された。 

「カンナさん一人では、寂しそうだから、私ついてます」

「そうなんですか」

「これでも私、看護婦なんですから」

 鐘也は、荒っぽい車の運転ばかり見て来たので、こまちが看護婦だと云うのを忘れていた。

 鐘也、柳子、八幡の三人は、地下事務所の応接間に集まった。

「柳子さんは、結局イチジョージさんと結婚しなかったんですか」

 あの時だった。

 将校ハウスで柳子とイチジョージが「戦争花嫁」になる、ならないで喧嘩を始めた。

 その光景が一瞬にして蘇った。

「戦争花嫁よね。よく覚えてたわねえ。もうあれから25年も経ったのよ。結婚しなかった」

「どうしてですか」

「さあどうしてだろうかしらん」

 少し柳子は足を組み考えた。

「やっぱり、京都、この街が好きだったからかなあ」

「アメリカよりもですか」

「そう」

 京都は、終戦間際に限定爆撃を二回(馬町、西陣)受けたが、東京、大阪のような大規模空襲で何万人の人が死ぬような大惨事はなかった。

 ほぼ街は、無傷だった。

 だからかもしれないと柳子は付け加えた。

 あれから柳子は、イチジョージの計らいで米国軍に就職したそうだ。

「舞鶴港って知ってる?京都府の日本海側にある港。そこにいるの」

「そうだったんですか。イチジョージさんはお元気ですか」

「達者で日本で暮らしてるわよ。時々彼が舞鶴港に来たり、私が京都に行ったりしてるの」

「えっじゃあイチジョージさんは、日本にいるんですか!今も」

「はい。彼に云わせれば、戦争花嫁ならぬ、戦争婿入りの出来損ないだと」

「出来損ないは面白い」

 三人が笑った。

 鐘也は、柳子の襟元に白いものがついているのに気づいた。

 それを指摘した。

「ああ、今米軍のハウスにいるんだけど、白いペンキで塗り直しているの」

 京都植物園が正式に日本に返還が決まり、将校ハウスの取り壊しが決まったそうだ。

 その時、そっくりそのまま、一軒丸ごと、舞鶴港に移築する事にしたそうだ。

 じゃあ、何軒か引っ越ししましょうとなったそうだ。

「私にとって思い出深い家なんで」

「イチジョージさん、今は何しているんですか」

「祇園甲部歌舞練場近くで、町家ラウンジしてるわよ」

「ラウンジですか!」

「今度連れて行ってあげる」

 ひと呼吸おいて、

「柳子さんは、ヘルメット学生鎮圧のために都座に来たんですか」

 鐘也は一番聞きたかった事を云った。

「そうそれもある」

「それもある?」

「それと、後宝さがしね」

 柳子は話し始めた。

 アメリカ進駐軍は昭和20年から26年までの6年間、日本占領した。

 祇園甲部歌舞練場も接収された。

 奇跡的に都座は接収を免れた。

 進駐軍は、宝物を祇園甲部歌舞練場ではなく、都座のどこかに隠したそうだ。

 何故祇園甲部歌舞練場ではなくて、都座なのかそれはわからないそうだ。

「で、宝物は何ですか」

「何だと思う?」

 いたずらっぽい目で柳子は鐘也を見た。

「金の延べ棒ですか」

 ぼそっと鐘也はつぶやく。

 柳子はひとしきり笑った。

「若いのに、えらいベタな答えね」

「すみません」

 少しむっとして返答した。

「八幡さんは何だと思いますか」

 今度は八幡に振った。

「さあ、進駐軍の置き土産なら、何だろう」

 少し考えた。

「日本統治が全て上手く行くのを祈念した、仏像か、何か」

「ああ、八幡さん、ほぼ当たり!凄い!」

 柳子は一人拍手した。

 その仏像には、マッカーサー元帥直筆のサインがしてあるそうだ。

 一説には、マッカーサー自ら彫ったとされていた。

「幾ら何でも、彫るのは云い過ぎでしょう」

 八幡は正直に云った。

「僕もそう思います」

「こればかりは、探してみないとね」

 GHQ(General Headquarters)連合国軍最高司令官総司令部は、東京第一生命館ビルにあった。

「何でわざわざ、東京じゃなくて、京都なんだろう」

「そうです。何でですか」

「私に聞かないで頂戴。兎に角探さないと」

 6年間にわたる占領、統治を終えて帰国する前、崇拝する仏像を隠したと云う。

「だったら、どうして祇園甲部歌舞練場ではなくて、都座だったんですか」

「彼らの賢い所は返還したらきっと改修工事に入るだろう。何しろダンスホール出来てた、客席がないから。すると見つかる可能性が高い。都座なら、見つからないと」

「それ誰の情報なんですか」

「もちろん、イチジョージよ」

「だったら、イチジョージさんに聞けばいいじゃないですか」

「もちろん聞いたわよ、何度も。でも彼頑として喋らないで、しかもこう云ったの」

「何と?」

「自分で見つけろって。宝物探しは、自分で見つけて嬉しいものだと」

 何度も柳子は、イチジョージの店へ通い詰めて、ヒントは聞き出せたそうだ。

「そのヒントは、都座らしい場所だと」

 一体何だろう?と思った。

 その時だった。

 楽屋番の華代が、血相変えて事務所に走り込んだ。

 手には一枚の紙と焦げ茶色の小さなものを持っていた。

「大変です!」

「どうしましたか」

「私が、ちょっと楽屋風呂の掃除で目を離した隙に、カンナさんもこまちさんもいなくなって、楽屋にこの一枚の紙があったんです」

 華代は皆に見せた。


 こちらも宝探しに参戦だ

 うんと儲けるぞ!お互いに

 りせい持って、公明正大 う

 んが良ければ、カンナとこまちも見つかるかも

 二人預かった。

柳子殿へ

                         深草彰祥

「しまった!やられた!」

「ごめんなさい。私が風呂場を掃除するために、ちょっと目を離した隙にでした」

 手のひらに載せたタワシを見せた。

 緊迫した状況なのに、何故か可笑しかった。

 タワシのせいだ。

「とにかく、二人がいた楽屋に行きましょう」

 エレベーターの中で柳子は、京都の伝説「こまちと深草少将の百夜通い」の話を聞いた。

 つけまとわれた小野小町は

「百日通ったら、つきあってあげる」

 と苦し紛れに云った。

 深草少将は99日目に倒れて死んでしまったらしい。

「それの現代版なのよ」

「でも現代版は死ぬどころか、今力づくで押さえてますよ」

「だから、難しいのよ」

 楽屋に着いた。

 カンナが寝ていた敷布団は、まだ温かった。

「どちらから行きますか?」

「人質か、宝物かって事?」

「そうです」

「もちろん、両方よ」

「宝物を探しながら、二人を見つける」

「その通り」

「宝物は、都座らしい所でしょう。どこかなあ」

「せっかく4階まで来たんだから上から順番に下に降りましょう」

 三人は手分けして、まず4階の楽屋全てを探す。さらにトイレも探した。

 華代も手伝ってくれた。

「華代さんにとって、都座らしい所ってどこですか」

 試しに鐘也は聞いた。

「やっぱり、檜のお風呂です」

「ですよね」

 全学連の連中と一緒に入ったのを思い出した。

 あの時、放水、突入前の晩だった。

 もう一度、風呂場を覗く。

 やはり誰もいなかった。

 風呂の底を覗いていた華代は、

「あー!」

 大きな声で叫んだ。

「どうしたんですか!」

「こまちさん、こまちさんが!」

「こまちさんがどうしたんですか!」

 華代の金切り声を聞いて柳子、八幡も駈け付けた。

「こまちさん、風呂入ったら潜るのが好きと云ってました」

 一同前のめりになった。

「あ、有難うございます」

 この人は、少し思考回路が違うと思った。

 楽屋の廊下を歩いている時だった。

 残念ながら二人も宝物も見つからなかった。

 階段で降りる事にした。

「ここのドアは何ですか」

「ここは、破風の内部だ」

 八幡が答えた。

 舞台の上部にある屋根の事を破風と呼ぶ。

 劇場封鎖を完了した時、ここを倉庫代わりに使っているそうだ。

「当分の食糧、備品などを蓄えているんだ」

 中に入る。思いのほか、ひんやりとしていた。

 破風の表では、連日コンサートが開かれ、沢山の聴衆の熱気とライトの放列を浴びている。

 板一枚隔てて、別世界の冷たい空間が広がる。

 電気をつける。幅2メートルぐらいで狭い。

「奥は長いですね」

「まあ都座の舞台の長さぐらいあるからな」

 鐘也の後ろから続いて八幡が答えた。

 荷物の陰に二人がいないか探ったがどれもこれも徒労に終わった。

 再び、破風の出口に向かう。

 鐘也は、さっきの深草の置手紙を見ていた。

「どうした、何か気づいたか鐘也くん」

 柳子が声をかけた。

「柳子さん、これ見て下さい」

「ええ、さっきの深草の置手紙」

「この文章、ちょっとおかしいと思わないですか」

「確かに云われてみれば。りせいとか、うんとか漢字で書けるのにわざわざ平仮名使ってる」

「平仮名使わないと、我々にメッセージ伝えられないんですよ」

「もっと具体的に云ってくれるかな」八幡が云った。

「この置手紙、右から左へ、頭の文字読んで下さい」

「こ・う・り・ん・二?」

「降臨すると云えば」

「梵天だ!」

 三人同時に声を上げた。

 そこへ、華代が走って来た。

「何か」

「あと、もう一つ言い忘れてました」

 一同は今度はずっこけないよう、予め足で地面を踏ん張った。

「何でしょうか」

 大きく息を吸い込んで鐘也は尋ねた。

「今度はカンナさんです。カンナさんは、風呂上り、火照った身体を沈めるために、梵天さん、櫓幕の所へ行ってたそうです」

 鐘也の脳裏に鮮やかに蘇る光景。

 劇場正面に飾られていた二本の梵天を川端通りに持って来た事。

 そこで説明してくれた。

 その梵天の魔力で、虹が出来て、渡った事など。

「今そこへ行こうとしてました」

「灯台下暗し。全く梵天の場所をすっかり忘れていたな」

「行きましょう。どこからあの場所に行けるんですか」

「案内するよ」

 にやっと八幡がした。


    ( 6 )


 楽屋4階から客席3階廊下に出た。

 八幡は、客席の中に入ると、一番奥の席を目指して階段を登る。

 通称「天井桟敷席」と江戸時代から呼ばれている。

 天井とは、三階席の上の天井をさす。

 この階段が急斜面な事から、観劇ファンから、「アルプススタンド席」と呼ばれていた。

 語源はもちろん、甲子園球場から来ていた。

 真ん中に、センタースポット室と云う小部屋がある。

 センタースポットライトが三台並んでいた。

 ここからコンサート、芝居の時に一条の光を当てる。

 八幡は天井をさす。

「この上だよ」

 一辺が50センチ程の正方形の形のものがあった。

 それを台の上に登って、手で押し上げた。

 そこから、視界が一気に広がった。

 都座の正面、四条通りに出た。

 高さビル4階とほぼ同じ。

 正面中央に櫓がある。

 櫓がある芝居小屋は、江戸時代、幕府公認の証しでもあった。

 だから、「櫓のある劇場」は一流であり、役者のあこがれの舞台、劇場でもあった。

 櫓には、江戸時代、芝居の開幕を知らせる太鼓が置かれて、朝、芝居が始まる、

「一番太鼓」はここで打ち鳴らされる。

 その音を聞いて、大衆は今日も芝居が始まったと知る、今で云う時刻代わりでもあった。

 櫓の両端に本来なら竹で出来た棒に和紙でタンポポの花のような梵天があるのだが、

 先日の放水騒ぎの時に、川端通りに移動したのでない。

 しかし、鐘也らの目には、梵天代わりに二つのものが立っているのに気づいた。

「カンナさん!こまちさん!」

 柳子が叫んだ。

 三人が一斉に近づこうとした時、

「近づいたら駄目!」

「下から深草が狙っているのよ」

 三人は下を覗く。

 誰もいない。

 念のために向かいの「菊水レストラン」屋上、周辺の建物も見るが深草はいなかった。

 柳子が見張りで立ち、鐘也と八幡の二人がそれぞれカンナ、こまちの足元に近づいた。

 足元、手首をくくられていた。

 匍匐前進してそれぞれの足に括られた縄を解こうとするが解けない。

 手をつければそれだけ、縄が食い込む。

「どうなってんだよ」

 その時だった。一転にわかに太陽が遮られて、どす黒い雲が都座だけに覆う。

 雷鳴が轟く。

 大粒の黒い雨が叩きつける。

 鐘也は、雨粒を身体に受けて痛く感じたのは初めてだった。

「鐘也さんもういいです。私達の事はほっておいて逃げて下さい」

 カンナは申し訳なさそうに云った。

「そんな事出来るわけないだろう」

 頬を雨粒と涙が溢れる。

 突然雷鳴と稲光が都座前の大提灯に突き刺さり炎が生まれた。

 大提灯に落雷したのだ。

 その大提灯の中から深草が口に何やら加えて顔を出した。

「深草彰祥!」

 二人は睨みあった。

 鐘也は、都座の一番高い所にあるビル3階ぐらいの位置の櫓幕から。

 一方、深草は地上に設置されている大提灯から地面から二メートルぐらいからの位置だ。

 歌舞伎演目「楼門五三桐」では南禅寺の山門の上から石川五右衛門、地上から秀吉が対峙されていたが、自分は五右衛門ではなく、むしろ秀吉だと思った。

「鐘也!幾らあがいてもその縄は解けぬ!」

「じゃあどうしたら解ける?」

「俺と勝負しろ!」

「わかった!どこでだ」

「もちろん、都座の大屋根の上だ!」

 深草は大提灯から抜けると、そのまま都座の屋根の上まで飛んで来た。

 サイレンが鳴り響く。

 四条通りにパトカー、消防自動車が駈け付けていた。

 深草の出た提灯は、真ん中が二つに割れて、炎が出ていた。

 隣りの松葉、向かいの菊水レストラン店主が、消火器で消そうとしていたが中々消えない。

 滑らないように、鐘也は屋根の上に登った。

 京都の街の中心地は昔から高さ制限がなされていた。

 また中心地には、東京、大阪のように、高速道路が走っていないので、人々の暮らし、営みがダイレクトに伝わる気がした。

「これが最後の決戦だ」

「最後?」

「俺はもう、進駐軍が隠した宝物を見つけているんだ」

「だったら、とっとといなくなればいいじゃん」

 敢えて、鐘也は、敬語使わずに喋った。

「いや、あと一つ残っているんだ」

「何がだよ」

「もちろん、こまちの事だ」

「力づくで連れて行こうと」

「それが出来ない」

「どうしてですか」

「こまちは、俺に云ったんだ。鐘也と闘って、勝てば一緒に行ってもいいとな」

「あちゃー」

 思わずこころの中の事を言葉に出した。

「だからお前を殺して、大願成就だ」

「百日目の恋が成就するんですね」

「どうして知っているんだ」

「有名ですから」

「お喋りはそれぐらいだ!」

 深草は、警棒の形をしたさやを抜いた。

刀が顔を見せた。

 鐘也も初めて、あの新選組から貰った刀をぬく。

 深草は、東側、鐘也は西側に対峙していた。

 深草は、刀のつばを回す。

 刀に太陽の光が反射して鐘也の目を直撃した。

「うっ眩しい」

 鐘也が、一瞬目を逸らした瞬間、深草は飛び込んで来た。

 するっとかわしたのはよかったが、それでバランス崩して屋根から落ちかけた。

 途中でやっと止まった。

 屋根瓦に腹ばいになった。

 上段から深草がにんまりとした。

「死ね!」

 刀が振り下ろされようとした。

 その時、鐘也は懐からカンナから貰った劇場紋のある瓦を太陽に当てた。

 次の瞬間、信じられない光景が起こった。

 無数の都座の瓦が、音を立てて、めくり上がり、一斉に深草目掛けて投げ込まれた。

「うっ」

 深草は呻いて、よろめいた。

 その間に鐘也は立ち上がり、そばに寄った。

 と次の瞬間、二人は、屋根を突き破って落下した。

「あっ!」

 二人同時に叫んだ。

 二人は、舞台に着陸したヘリコプターの屋根に一度バウンドしたあと、舞台に落下した。

 舞台には、大きなクッションが置かれていた。

 だから無傷のままの舞台入りだった。

 大きな拍手と歓声が起きた。

 と同時に舞台が一気に明るくなった。

 鐘也も深草もピンスポットが当たっているのが解った。

 さっき見た時、客席には誰もいなかったのに、再びヘルメット学生がぎっしりいた。

 通路には二列に並んで座り込んでいる学生もいる。

 客席後方は、立ち見まで出ている。

(これも芝居なのか?)

(それとも現実なのか)

 鐘也自身、わけがわからなくなって来ていた。

「深草倒して、我らの同志カンナ、友人こまちを助けろ」

 客席から忘れかけていた指令が突き刺さる。

 大きなクッションに二人とも、仰向けに倒れていた。

 二人は、すぐに起き上がり、舞台に落ちた。そして立ち上がり今度は舞台で対峙した。

 上手に鐘也。下手に深草。

 深草は刀を持っていたが、鐘也は落下の際に落としたようで素手のままだった。

 それを見て深草はにやりとした。

「勝負ありだな」

 深草は、じりじりと間合いを詰めた。

 鐘也は背中に背負う義太夫三味線を取り出した。

「そんなもんで、防御出来るのか」

「出来るとも」

「負けを認めろ!」

 何故そうなったか、わからない。

 まさしく天の啓示としか言いようがない。

 自分に刃を突き付けられて絶体絶命のピンチである。

(お弾きなさい)

 確かに鐘也の耳元で誰かがささやいた。

 素直にそれに従った。

 義太夫三味線の音色が深草に突き刺さる。

 深草は、刀を持ったまま動かない。

 表情も動かない。

「何だこれは!」

 辛うじて動く口元から言葉が発せられた。

「待ってました!」

「たっぷりと!」

 早速客席から大向こうがかかる。


創作浄瑠璃「 人柱二人命縄解 」

梵天代わりに   括られた

カンナとこまち  縄きつく

食い込む縄は   縛る運命

縄解く手が    震えしかな

時一刻を     争う中で

絶望の大波    脳裏にこだませし

額の汗は     苦労の汗か

まだまだどうして 諦めさせぬ

続ける先に    見えるもの

絶望の淵に    立つものは

希望の光りと   見つけたり

流行るこころ   押さえて

突き進む     正義のために

突き進む     大衆のために

負けるなひるむな 民たちよ

今宵も一緒に   歌おうよ

それが慰めでも  何でもないよ

さあ、さあ、さあ 手を取り合って

さあ、さあ、さあ 肩を寄せ合って

歌はこだまする  世の隅々まで

歌は世を変える  世の幸までも


 場内の観衆は、深草への怒号から、創作浄瑠璃の歌声にすり替わる。

 今、改めて、義太夫三味線を弾き、歌いながら、創作浄瑠璃の持つ味わい深さと力強さを再認識させられた。

 これが義太夫三味線の音色の深さ、威力だ。

 低いこころの奥底に響く音色を感じ取る感性は、元々日本人の遺伝子の中にあるのかもしれない。

 例え今まで一度も弾いた事も、聞いた事もない人も、一たび聞けばたちまち、虜になる。

 今、鐘也の眼前で酔いしれるヘルメット学生が、それを如実に表していた。

 じっと刀を振り上げたまま深草も聞いていた。

 一歩も動かずに。いや、動けずにいたのだ。

 鐘也の身体は、義太夫三味線を弾きながら又もや急速に変化を始めた。

 いつもの光背は、唸り声を上げて、葉っぱの形をして立ち上がる。

 怒髪天の金髪もいつもなら、色が変わって終わりなのに、金、紫、赤、緑とくるくると目まぐるしく変わり始めた。

 鐘也本人は気が付かなかったが、場内の人々は釘付けとなっていた。

 深草自身、もう唖然と鐘也のバージョンアップ姿を口を半開きにしていた。

 今まで一枚だけの葉っぱ光背だったのが、三枚に膨れ上がり、三枚とも、炎でふちが形作られていた。

 さらに今回、鐘也の周りに円形に幾つもの炎の柱が出来ていた。

 明らかに数段パワーアップしていた。

 鐘也は見た。

 深草の目から涙が出ていたのを。

「私の負けだ」

 ぽとりと深草は、手に持っていた仏像を落とした。

 深草が、手を回すと、こまち、カンナの二人が、するっと舞台に降りて来た。

「これは」

 鐘也は仏像を拾い上げた。

「 GHQが隠した宝物だよ」

「どこで見つけたんですか」

「もちろん、表の大提灯の中にあった」

 さっき、大提灯から抜け出したのも、単なるこけおどしでも何でもなかったのだ。

「よく見つけましたね」

「簡単だったよ。都座らしい所と云えば、破風のある舞台に、表の大提灯と相場は決まってる」

「僕らはずっと都座の中だと、思ってました」

「宝探しに、固定観念はよくない」

 次に深草は、こまちに向き合った。

「ご覧の通り。俺の負け。つまり、もうお前に求婚出来なくなった」

 深草はふらふらと舞台から花道に行きかける。

 花道のセリ、通称スッポンの所で立ち止まった。

 語源は、スッポンのように顔を出すと云われているが、真偽のほどはわからない。

 舞台際から二分、鳥屋口から八分くらいの所にある。

 ここから出入りするのは、人間でない妖怪、幽霊などと決まっていた。

「ちょっと待って!」

 こまちは深草の所へ走った。

 舞台を振り返る。

「私、深草彰祥と一緒について行きます」

「こまち伝説とは違う展開ね」

柳子が補足した。

「皆さん、鐘也さん、またどこかで逢いましょう」

「さらばでござる!」

 突如煙が二人の足元から出て来た。

 ゆっくりとスッポンは下がった。

 三人は見送った。

 客席から盛大な拍手が起きた。

「私からもプレゼントします」

 都座の紋が入った瓦が入った箱だった。

「さあ躊躇せずに貰って」

「突入時間が近づいているから」

 柳子は宣言した。

「私はここにいます。あなた方は屋上に行きなさい。少しでも時間稼ぐのよ」

 3人は、再び屋上に上がった。

 いつの間にか夕刻となっていた。

 劇場内にいると、全く時間の感覚がつかめない。

 文字通り、「標準時」より「劇場時刻」が身体に染みこむ。

 投光器で眩しい屋上が照らされていた。

 前回と同じく京阪電車は止められていた。

 見物人もいた。

 装甲車、放水車も前回の倍ほどの数に膨れ上がっていた。

「始め!」

 大号令のあと、川端通りに集結していた放水車から一斉に人工の滝が怒涛の嵐の如く降り注ぐ。

 すぐに義太夫三味線を奏でる鐘也だったが、今回は何故か全然効き目がない。

「何故なんだ!」

 叫ぶ鐘也の口元にも水が襲い掛かる。

 水責めがこんなにも苦しいものとは初めての体験だった。

 まず息が出来なくなる。

 そこでもっと息を吸おうとして大きく口を開ける。

 そこに大量の水が雪崩れ込んで来る。

 鐘也もカンナもしゃがんだ。

「何で効き目がないんだ!」

「恐らく、奴らは耳栓かして、義太夫三味線の音が聞こえないようにしてるのよ」

「そうなんだ!」

 水音は、思いのか音が大きい。

 他の学生も瓦を投げている者は、数少なくなり、一斉にしゃがみ込んでいた。

 水音と共に、もう一つ異様な音が重なる。

「何だあれは!」

 ぽっかり空いた大屋根からその音が耳に入る。

 眠りから醒めた怪獣のような、奇声だった。

「ヘリコプターが舞い上がって来た!」

 さっき、柳子が舞台にとどまったのは、このためだった。

 柳子が、何かしらの応急処置を施してヘリコプターを復活させたのだ。

 ヘリコプターが舞い上がって来た!。

「さあ、乗って!早く!」

 柳子が叫ぶ。

 鐘也とカンナは屋根を伝って進む。

 振り返ると八幡が立ち止まっていた。

「どうしたんですか!八幡さん!」

「俺は、ここの全劇連の学生を見捨てて行けない!これでも俺は、こいつたちのリーダーだからな。さあ、お前たちだけで行け!」

「八幡さん!」

「さあ行け!達者でな!生きてたらまた逢おう!どこかで!」

 三人はうずくまりながら、固い握手した。

 よじ登る鐘也の尻を思いっきり叩いた八幡は、

「お嬢さんを頼んだぞ!」

 大声で叫んだ。

「さあ、早く!」

 もう一度柳子が叫ぶ。

 先に鐘也がヘリに登った。

 次にカンナに手をさし伸ばす。

 二人が中に入ると、すぐにヘリは急上昇始めた。

 眼下から、都座を見る。

 放水の大行列で屋上は、水の膜で見えない。

 しかし、はっきりと鐘也は見た。

 全劇連の連中が長きに渡り、封鎖続けていた都座が落城する瞬間だった。

「都座!さよなら」

 カンナは、鐘也の胸元でぐったりとしていた。

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