甘い味
二月十四日。日本全国の男性陣が一様に意識せざるを得ない一日だ。昨今、職場内でのバレンタインの風習は「セクハラ」もしくは、「パワハラ」という非難めいた捉え方が大半で、あちこちの職場でバレンタインデーのプレゼントは禁止されている。
かくいう、梅沢市役所でもバレンタインデーにプレゼントを贈る行為は禁止と人事からのお達しが出たそうだ。
そもそも欧米では女性限定のイベントではない。恋人たちが感謝の気持ちを伝えあう尊いイベントだと聞いた。——ということは、同性同士のおれたちでも、お互いにプレゼントを贈りあってもいい日だということで……。
しかし、きっと
「ただいま」
帰宅してみると雪は、珍しくキッチンに立っていた。
珍しく——。珍しく!?
「お、お前! な、なにしてんだよ!」
「え? なにって……今日はバレンタインなんだって。バレンタイン、知らないの? バレンタインって言うのはローマ帝国時代に遡ってね。豊年を祈願するお祭りの始まる日なんだって。それからクラウディウス二世がね、ウァレンティヌスって人を処刑した日で——」
読書好きな彼のウンチクが始まりそうになったので、おれは慌てて言葉を遮った。
「わ、わかったって。知ってるよ。——いや、知らないけどな。——いやいや、今日はバレンタインだってことだろう?」
「そう。それ。——
おれの
「叔父さんもおれも政治家の一面も持っているからさ。安易にプレゼントをもらったり、あげたりしちゃいけないだろう?」
「そうだけど」
ソファのところには紙袋に入ったチョコの山がある。差し詰めバレンタイン禁止令を無視して雪に持ってきた輩がいるということだ。なんだかむっとしてしまう。
イラついた気持ちのまま彼の隣に立つと、目の前にはボウルと卵しか置いていなかった。
——これは一体、なにを始めようとしているのだ?
「ね、ねえ? 雪さん? これって、これからなにをする気ですか?」
「だから、今日はバレンタインで——」
「それはわかりました。けど……これって」
雪は卵をむんずと握ると、ボウルに卵を割って落とした。その手つきの悪さ。不器用さったらない。家事のできないおれでも、もう危なっかしくて見ていられない。「あ」とか、「うー」とか声が洩れてしまう。
——殻、殻入っている!
しかも彼は、躊躇することなくドンドンと割っていった。
「卵焼き。作るの」
——卵焼きだと!?
「チョコレートを贈るのって日本だけなんだって。欧米ではケーキやカードを贈るんだって。でも実篤はケーキ嫌いでしょう? だから、卵焼き作ろうと思って」
どう答えたらいいのか困惑して、
——六個目。そこでやっと手が止まったかと思うと、今度は砂糖の袋を取り出す。そして、大きなスプーンで山盛りにした砂糖を豪快にボウルに突っ込んでいく。
「あ、あの。あの、あの、あの……入れすぎなんじゃ——」
「
不満げな瞳で見つめられると黙るしかない。いや、スプーン一杯って山盛りじゃないと思うんですけど……。砂糖の濃度でドロドロになっている卵液を見ていると、どんなものになるのかドキドキが止まらない。
油を敷いたフライパンに卵液を流し込んで菜箸でくるくるとしている雪は「なんだか上手くいかない。おかしいな」と首を傾げていた。
「雑巾で練習した時は上手くいったのに」
——雑巾で練習したって、仕事中に? なにしてんだよ~、本当に。
おれは「有坂」に嫉妬した。「有坂」というのは今年度から雪の部署に配属になった職員の名だ。ここのところ、彼の口から「有坂」という名前が出てくることが増えているのだ。「有坂」という職員の素性は知らない。性別も年齢もだ。そろそろ調べておかないといけないな——なんて考えていると、なんだか苛立ちを覚えた。
卵と苦闘しているというのに、その行為の後ろに「有坂」の影がちらついているのが面白くない。結果的には、おれのためにしてくれていると思っても——だ。
「雪、これ食べさせて」
雪に買ってきたはずのチョコの箱を開けて、彼の目の前につき出す。無償に甘えたくなったからだ。駄々っ子みたいに我儘を言って、食べさせてもらおうと思いついたのだ。
雪はおれの言っていることを理解したのだろうか? 彼は相変わらずの無表情のまま箱の中に納まっている紅色の艶やかなコーティングが施されているプラリネを一つ摘まみ上げる。そして、そのチョコはおれの口に——え!
おれの口に入るはずであろうはずのチョコを、雪はぱくっと自分の口に入れてもぐもぐとした。
「おおい!」
思わず突っ込みを入れた瞬間。雪はあーんと口を開けた。——嘘だろう!? まさかのモグモグ口移し!?
昔、ばあちゃんが「実篤にはまだ固いね」って
さすがに
いつまでも固まっているおれにしびれを切らしたのか。雪はそれをごっくんとしてから怪訝そうにおれを見た。
「いらないの? 食べさせてって言ったのに。卵焼き焦げる。実篤には付き合いきれない」
「いやいや。それはおれのセリフだろ?」
「——できた。ほら見て。実篤のせいで炭化してしまった」
——無視からの……おれのせい! 焦げたのはおれのせい!? っていうか。砂糖入れすぎて焦げてるんだぞ!
大きな恵方巻のような重厚さ。これをなんと呼べばいいのだ?
卵焼きと言っていいのだろうか?
そんな疑念に支配されているおれを放置して、雪はキッチンペーパーにその物体を置くと、包丁で輪切りにした。
「中は大丈夫みたい。——はい。あーん」
彼は輪切りの一部を菜箸で掴んだまま、おれの口元にそれを押し付けてきた。せっかく作ってくれたのだ。これはまずくても美味しいと言っておかなければ——と思った瞬間。それは意外にも甘くて、おれの口の中にじんわりと広がっていった。
「美味しい?」
「お、美味しい……です」
「やっぱり。料理はおれのほうが上手かも。実篤の卵焼きは真っ黒で苦いもんね」
「ふふ」と笑みを浮かべた彼を見ていると、心がざわざわとした。
「雪」
桃色のコーティングのされたプラリネを口に
「これ、美味しい」
おれは目を輝かせている雪を見ているだけで幸せな気持ちになるのだ。そう、おれの一番大好きな時間だ。
「雪。いつもありがとう」
「うん。いいよ」
雪の腰に両腕を回して引き寄せると、彼の肩からは油の匂いがプンとした。
大好きな人に感謝の気持ちを伝えたいなら、いつでも伝えればいいじゃないか。どうして二月十四日限定なのだ? そんなバカげた話であるはずなのに、チョコを購入したおれもおれだが、卵焼きを作ってくれようとした雪も雪だ。
結局、おれたちもそのバカげた話に乗せられたということだと思うと、笑うしかない。
——そんなイベントごとは、おれたちにとったら無意味だ。
バレンタインにチョコレートをプレゼントする、なんて企業が仕掛けたイベントにかまけるよりも、目の前に
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