雨音
雨音が聴こえていた。
——シトシトシト……。
時折、風で窓に叩きつけられたのか、ポタポタと弾むような音に変わる。
一年中、そう変わることのないこの環境は快適だが、時々、自然に身を任せたほうがいいのではないかと思うのだ。
冬は寒いのがいい。宵闇の中に浮かぶ青白い雪。その雪には匂いがある。なんとも言えない、埃の匂いがするのだ。現世の音を吸収してくれる雪。雪が降り積もる夜は静寂が漂い、うっすら明るい闇がいい。雪が降らない夜は寒い。足元がじんじんとしてくるような、それでいて空気がピンと張り詰めている、あの寒さが好きだ。
夏は暑いのがいい。湿度の高い、じっとしているだけで汗が滲んでくるような暑さだ。暑さとの我慢大会は、それはそれは忍耐が必要であるのだが、それがまたいいのだ。扇風機の前に座って、くだらない言葉を吐く。
『我々はウチュウジンダ——』
変質した声が愉快で、くだらないことなのに何度も試してみたくなる。ジリジリと照り付ける太陽から逃げるように
あの頃はよかったのだ。小学生だったころの自分は、なにもかもが不自由で、押さえつけられているようで、嫌だったはずなのに。こうして月日を重ねてみると、あの頃の幸せが身に染みる。
勉強だって、思う存分できたのだ。
遊びだって、思う存分できたのだ。
遊び疲れて帰宅すれば、母親が「またそんなに汚して!」とげんこつをくれるのだが、それはそれで幸せだ。
姉たちと喧嘩をしながら囲む食卓は、それはそれは賑やかで愉快な団らんだ。
元々、自宅にいる時間の少ない父親が、珍しく帰ってきた日には、家族総出のパーティのような賑わいだった。
一つしかないテレビをチャンネル争いで喧嘩した。結局は負けるのは自分だ。一番幼いからだ。姉たちの
雨がシトシトと降っている。地上から離れたこの居住空間には、道路に落ちる雨音は届かない。それでも、建物に降り注ぐその音は耳を突いて離れないのだった。
寝っ転がって鉛色の空を見上げる。どこから降って来るのだろうと疑問になるくらい、雨は静かに、雲のあちらこちらから降り注ぐのだった。
ここのところ自分の使命は、地域の人たちへ頭を下げて回るということだ。
——市長選が近いんだ。
選挙とは難儀なものだ。どんな人間にも、子どもにも、果ては犬猫にまで愛想を振りまいて、そして頭を下げる。
束の間の休息はあっという間に過ぎ去るものだ。明日からはまた、自転車であちこちに出向く毎日が始まるのだ。
嫌いではない。だが、まったくプライドがないわけでもない。時々、ふと自分が情けなくなる時がある。だが叔父は、そんな自分を労ってくれる。
『すまないね。お前には苦労かけ通しだ。こんな道に引き込んだ事、後悔しない日はない。
——いや。これがおれの人生だ。犬や猫にまで律儀に頭を下げる人生なんて、おれにお似合いだろう。
——シトシトシト。
鉛色の空を窓越しに見上げていると、ふと視界に
「ごはん」
「
彼はじっとこちらの瞳を覗き込むように座っていた。
「お腹空いた。ごはん」
——子どもかよ。
口元を緩めてから腕を伸ばす。それから雪の首を抱え込むように引き寄せた。
「違う。キスじゃない。ごはん」
「夕飯の準備をしてやる対価を寄越せよ」
唇が触れるか触れないかの距離で囁くと、なんだかくすぐったい気持ちになる。要求に動じることのない雪は、そのまま上下さかさまのままに唇を重ねた。軽く触れ合っただけのキスだが、心は一気にぽかぽかとした。
そのまま離れていきそうなそれを逃さないかの如く、今度は自分から唇を触れさせる。
——食べてしまいたい。
雪を貪る行為に夢中になると、先ほどまで妙に耳に突いていた雨音などは、どこかに消え去ってしまう。静かな室内に充満するのは、二人が触れ合っていることで発せられる水音だけ。
——雨音も好きだが、これもまたいい。
「実篤。嫌なの?」
ふと離れた唇から発せられた言葉は、心にまっすぐに突き刺さる。雪には隠せない。自分の本心を——。そう観念して「そうだな」と肯定の言葉を吐く。すると、雪は「ふふ」と口元に笑みを浮かべた。
「好きでやっているのかと思った。人に頭下げるの」
「んなわけあるか」
「それはそうだね。誰だって嫌なんだ。きっと」
「お前は出来るのかよ。頭下げるの」
「下げなくちゃいけない時は下げるけど。いつだなし下げたことないから、わからないな」
——だろうよ。
「だからね」
「なんだよ」
「実篤はすごいね」
——すごい?
「叔父さんのために頭下げる役を担っている実篤は、仕事ちゃんとしていると思う。いつも仕事、抜けているところも多いけど。選挙前の実篤が、一番仕事をちゃんとしていていいと思う」
目を輝かせている雪を見ていると、情けない気持ちも、卑屈な気持ちも、どこかに消え失せた。
「そっか。おれ仕事ちゃんとしているのか」
「うん。いつもは頭のねじが緩いのにね。選挙前の実篤は一味違うと思う」
「頭のねじが緩くて悪かったな」
「悪くないよ。だって、それが実篤でしょう?」
雨音が聴こえている。今度はかすかに。だが、それは悪くはない。自分はじっとその雨音のようにささやかなことを積み重ねているのだ。いつか、大きなうねりに変わることを期待して、こつこつと頭を下げる——。
「今日は奮発して即席ラーメンでも作るか!」
その提案に、雪は更に目を輝かせた。
「なにも入っていないやつね」
「え~、ゆで卵くらい入れようぜ。海苔も」
「嫌だ。なにも入っていない醤油のラーメンがいい」
「贅沢言うなよ」
「贅沢言ったっていいでしょう? キス二回もした。対価はもらう」
「ちぇ」
わくわくして待ちきれないのか、雪は目をキラキラとさせている。
——そんな顔されたら叶えない訳にいかないじゃないか。
躰を起こし、それからキッチンへ向かう。
「さて、明日からもいっちょ気前よく頭下げちゃうぜ」
「うん」
嬉しそうについてくる雪を振り返りながら、憂鬱な心は、晴れた空のように清々しい気持ちになった。
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