最凶1


 駅のホームでその電話を受けたとき。おれは狼狽した。


『ごめんね。あつくん。せつが——職場で体調を崩してね。私の病院に運ばれてきたのよ』


 雪の母親の声は潜められていて、なんだか深刻な雰囲気に言葉を失ったのだ。叔父である梅沢市長の安田と一緒に東京への出張の帰りだった。梅沢駅のホームで受けたその電話に、茫然としていると、叔父が優しい笑みを浮かべて言った。


実篤さねあつ、雪のところに行ってあげなさい。これからの予定は大丈夫だ。秘書課にお願いするから」


 新幹線から一緒に降りてきた梅沢市役所秘書課秘書係長の水戸部みとべは真剣な面持ちで頷いた。


「大丈夫です。後はおれたちに任せてください」


「水戸部さん」


「さあ、まきさん」


 叔父や水戸部係長に背中を押されて、おれは駅を後にして、タクシーで梅沢総合病院に急いだ。


 ——職場で体調を崩したってどういうことなんだ?


 いつもずっと一緒にいたから。雪がいなくなるなんてこと、これっぽっちも考えたことはない。隣にいるのが当たり前すぎて、失われるなんてことありえないと思っていた。

 ここのところ、市長の仕事は立て込んでいる。なにせ市制施行百周年が近いからだ。ここ数日、自宅には帰っていない。雪の顔を最後に見たのはいつだったろうか。彼もなにかと忙しい身であるため、電話も行き違いになり、会話をすることはない。メールを送ってもそっけない言葉が返ってくるだけだった。


 駅から十五分程度かかり、梅沢総合病院に到着した。外来は終了しており、夜間入り口から中に入る。雪の母親から聞いた病室は個室で、一目散に入り込むと、雪は薄い浅葱色の病衣を着せられてベッドの上で横になっていた。

 腕には点滴がつながっている。閉じられたまぶたは、まるで息をしていないかのようで、心臓が高鳴った。


「雪——」


 そばに駆け寄って、そっとその名を呼ぶと一瞬、睫毛が痙攣し閉じられていた瞼が開いた。


「実篤」


「お前、どうした? だ、大丈夫なのかよ」


 ——よかった。意識はある。


 雪白の血色の悪い顔色は、余計に蒼白で体調の悪さがうかがえる。なにかを言わんと開かれた唇もいつもよりもくすんだ色に見えた。


「東京出張は?」


「——今、ちょうど帰ってきたところだったんだ。おばさんから電話が入って。おまえが職場で体調を崩したって聞いて。それで慌てて駆け付けたんじゃないか」


「別によかったのに。いつものアレだから」


「いつものアレって……栄養不足?」


 そう。雪はお菓子が大好きだ。三度の飯より好きなのだ。そのおかげで時々、こうして運ばれる。彼がお菓子を好きになるには、幼少期からの色々があるのだが、まあはっきり言えばおれの家事能力の低さも原因の一つではある。


 なんだかすまない気持ちになった。雪の頬を指で触れ、それから手のひらで包むように触れる。まるで猫が撫でられて気持ちよさそうに目を閉じるかのように、雪は瞼を閉じた。

 雪に会うのは何日ぶりだろう。そして、こうして触れるのは……?

 こんな状況なのに、彼の肌の感触に気持ちがざわざわと波打った。


 ——そうだ。おれには雪が必要なんだ。


 そっと親指で彼の唇をなぞる。その唇にキスをしたい。少し乾いたそれを濡らしたいと思った。

 だがここは、病院で……いや。少しくらいいだろう——? もう何日も我慢しているんだ。


「ねえ、雪。おれの飲んでいないから栄養が足りないんじゃない?」


 半分冗談で口にした言葉だが、雪は無表情のままだった。


「ねえ? 聞いてますか」


「実篤。精液の成分は果糖。それからタンパク質。だけど、一回に出る量は数ミリリットル。そんなに栄養価が高いとは思えない」


 真面目な顔で解説されても……萎えるだけだ。


「そ、そうですよね」


 がっくりと項垂れていると豪快に扉が開いて白衣姿の女性が顔を出した。


 そこに立っていたのは、雪の母親だった。





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