第16話 死という旅立ち

次の日、昨日子供達に固く約束させられたヒカリとツバキは、二人でまた樹の図書館を訪れた。

あらゆる遊びに付き合って一緒になってふざけて笑って、いつも一人ぼっちだった二人にとってはこんなに賑やかで楽しい時間は人生で初めてだった。

しかしやはり三時間程で疲れ果ててしまい、今日はもう勘弁してくださいと子供達に頼んだ後二人は樹の図書館を後にした。

「それにしても、子供のエネルギーは無限だね。」

体力には自信のあるヒカリでさえげっそりしていた。

しかし表情はとても晴れやかで楽しげだった。

その時。

「たっ!」

そう言う声が聞こえたかと思うと、ツバキは後ろから足の自由を奪われた。

慌てて振り返ると、三歳ぐらいの女の子がツバキの足に抱きついたのだとわかった。

顔を上げた女の子はキラキラした目でツバキとヒカリを見て言った。

「ツバキちゃん、ヒカリちゃん、ママのジュース飲んでって。」

そう言って近くのカラフルに彩られた小さなお店をその小さな手で指差した。


女の子に誘われるがままお店に入った。

「ママ、ツバキちゃんとヒカリちゃんいたよ~」

そう言って女の子は高めのカウンターの椅子に器用によじ登った。

「まぁ、あなた達が噂の?いらっしゃい、よかったら掛けて。」

若いイキイキとした女の子の母親は弾けるような笑顔で二人を迎え入れた。

女の子の母親は野菜や果物だけでジュースを作って皆に飲んでもらう、ということをしていた。

「全部その日の朝収穫したもので作ってるの。その日取れるものも違うし、野菜や果物自体それぞれ味に個性があるから、毎日まったく違うジュースができるのよ。」

そう言いながら手早く野菜と果物を切ってジューサーのような、しかし手動で動かす機械に入れた。

「私は毎朝たくさんの野菜と果物を前に、今日はどれとどれを組み合わせてジュースを作ろうかと考えている時が最高に幸せな瞬間なの。」

そう言いながら二人になんとも色鮮やかなジュースを差し出した。

「わ~美味しそう、いただきます。」

一口飲んだ二人の顔がパッと明るくなった。

「すごく美味しいです!野菜の苦みもなくほどよい甘さで後味も爽やか。」

「ふふ、ありがとう。そう言ってもらえると嬉しい。」

そう言ってはにかんだ女の子の母親は、女の子に負けないぐらい無邪気な顔だった。

そして母親と二人の一連のやり取りをじっと見ていた女の子も、なんだか誇らしげな顔をしていた。

すっかりゆっくりしてしまった二人は、マキちゃんという名前だとわかった女の子とのたわいもない話しを楽しんでいた。

その時。

「やぁ、一杯もらえるかな?なんだか煮詰まってきちゃってさ。」

そう言いながら、はげた頭を輝かせたなんとも人が良さそうなおじさんが入ってきた。

「こんにちは。よかったらゆっくりしていって。」

そう言ってマキの母親はまたさっきと同じように野菜を切り始めた。


どうやらマキはこのおじさんに強く興味を引かれたようで、キラキラした目でおじさんをじっと見て観察していた。

そしておもむろに話しかけた。

「ねぇねぇなんでおじちゃんは前だけ髪の毛がないの?」

ヒカリとツバキは驚いた拍子にジュースを勢い良く吸い込んでしまい、激しく咳き込んだ。

ヒカリにいたっては鼻からジュースが出ていないかと本気で心配していた。

そしてさり気なく、気遣わしげにおじさんを見た。

しかしおじさんはただ笑っているだけだった。

「はっはっはーおじちゃんのこの頭が気になるかい?」

「うん、気になる~」

ツバキはマキの母親をチラッと見たが、母親も微笑んでこのちぐはぐな二人の会話を聞いているだけだった。

「おじちゃんのこの頭は遺伝ってやつさ。おじちゃんのお父さんもおじいちゃんもこうだったんだよ。」

そう言いながらその立派に光る頭を誇らしげに女の子に向けた。

「いでん?へ~お父さんもおじいちゃんも?すごいね~」

女の子は心底すごいと感動しているようだった。

「どうしてみんな同じになるの?」

おじさんは迷わず答えた。

「それはおじさんもこの頭に憧れたからだよ、子供の頃からね。おじちゃんのお父さんもおじいちゃんも人としてキラキラ輝くとてもかっこいい人だったんだ。そして頭もキラキラ輝いていた。」

「へ~キラキラ。じゃあおじちゃんもキラキラかっこいいね。」

女の子の満面の笑みが、眩しかった。

「いや~そうかな?」

おじさんも子供のようにかわいく照れて、髪のない頭を撫でた。


その時、ヒカリとツバキが見ていることに気づいたおじさんは、二人に快活に笑いかけた。

「やぁ、君達は噂の子達だね。」

「そう、ツバキちゃんとヒカリちゃん。」

マキがそう紹介してくれたが、突然だったので二人のやりとりを見て半分口が開いたままで、いつもの顔に戻るのを忘れていた。


そしてまた、カランカランとドアが開いて爽やかな老人が爽やかな風と共に入ってきた。

マキの母親が笑顔で話しかけた。

「いらっしゃい、ナチさん。いつものでいい?」

「あぁありがとう。…では頂こうかな。」

ナチと呼ばれたおじいさんは一瞬ためらったが、いつもの席にゆったりと座った。

「実はね、今日はもうすぐ旅立つから皆に挨拶をして回っているんだ。」

『旅立つ?こんなおじいさんが旅に出るのか。』

ヒカリはジュースを飲みながらなんとなくそう思っていた。

「…そうなんですね。」

マキの母親は一瞬寂しそうな顔をしたが、笑顔でそう言うとカウンターから出てきてナチを優しく抱きしめた。

「…ありがとう。」

そして女の子も抱きついた。

「ナチじぃちゃん、いっちゃうの?」

ナチは愛おしそうにこの小さな女の子を見て、頭を撫でながら答えた。

「うん、おじいちゃんは旅立つことに決めたんだ。でも、寂しくないし、マキちゃんも寂しくないだろう?」

マキはナチの目をじっと見た。

そして何かを理解したように笑った。

「うん、寂しくない。だってナチじぃちゃんはそれで幸せなんでしょ?」

ナチも女の子の目を深く、そして優しく見た。

「あぁ…とても幸せだよ。」

マキはもう一度ナチにギュッと抱きついて、自分のジュースに戻っていった。

離れていったマキの背中を見送るように見ていたナチが、ふと見慣れない二人に気づいた。

その視線を感じたヒカリは笑顔で挨拶した。

「はじめまして、ヒカリと申します。」

ツバキも続いて笑顔で名乗った。

「あぁ、皆が噂している子達だね。いやいや、よく来たね。私はナチという、よろしくと言いたいところだが、明後日の満月の夜に旅立つことになってね、ゆっくり共に居られないのが残念だ。」

「どこに行かれるんですか?まだ来たばかりで全然地理もわかっていないのですが、旅行にでも行かれるんですか?」

「まぁ旅行と言われるとそんなようなものだが、旅立ちとは、え~と向こうの世界ではなんと言ったかな?いや~最近物忘れが多くてね、えっと…ん~…あぁ、そうそう思い出した、向こうの世界では旅立ちのことを死と言うんだったかな。」

そう爽やかに言った。

二人は驚いて数秒間固まってしまった。

「えぇ!?旅立ちって、死のことなんですか?」

「そうそう、いや~思い出せてスッキリしたよ。」

度肝抜かれている二人をよそに、ナチは前だけ髪のないおじさんにも爽やかに挨拶をし始めた。

ナチと前だけ髪のないおじさんがハグしている様子をボーっと眺めながら、ヒカリもツバキもどう反応していいかわからなかった。


「いや、すまないね、君達は来たばかりだからちゃんと説明しないとね。」

戻ってきたナチは二人を見て優しくそう言うと、ツバキの横のいつもの席に再び腰掛けた。

「私達は肉体から離れることを旅立つと言う。同じ現象を向こうの世界では死と呼んでいる。」

「あぁそうだ、思い出してきた。向こうの世界では皆死を怖れているというのは本当かい?」

「えぇ本当です、皆が怖れています。できるだけ死のことを考えないようにしていますし、どうにかそれが避けられないかとも思っています。それに死を巡って、私も含め皆が傷ついています。」

ヒカリがそう語るのを聞いて、ナチは少し目を伏せた。

「そうなんだね。皆が死によって傷ついているんだね。」

「しかしここでは大きく感覚が違うんだよ。ここでは旅立ちは皆に祝福されるものであり、とても自然で温かいものなんだよ。」

「自然で…温かい?」

二人はナチから語られる言葉達に聞き入った。

「死を怖れているのは、その本質を知らないからだ。知らないが故に間違った幻想を抱いている。もちろんそれでもいいんだよ?怖れから学ぶことはたくさんあるからね。」

「しかし向こうの世界の皆にも、できたら死の本質を知ってほしい。本質が理解できたら、きっと君達も死を旅立ちと呼びたくなるよ。」

ヒカリは長年自分の中で葛藤してきたものの答えを掴めそうな予感で、心臓が激しく脈打った。

「死の本質って、なんですか?」

ナチはヒカリの真っ直ぐな瞳を見つめた。

そしてちょっと考えてから続けた。

「私は人間と宇宙との関係を光の砂と砂漠で例えるのが好きなのだが、聞いたことがあるかい?」

急に話しが変わって、ヒカリは自分の熱い意気込みをなんとなく持て余した。

そしてチラッとツバキの方を見たが、ツバキも聞いたことがない、というように小さく左右に首を振っていた。

「すみません、聞いたことないです。」

「そうか、では聞いてくれるかい?」

そう言ったナチの目はキラキラして見えた。

「私達人間はこの全宇宙からしたらそれこそ砂粒のように小さく儚い。いや、でも悪い意味ではないんだ。」

ヒカリとツバキが少し切ない顔をしたので笑顔で付け足した。

「儚いからこそ私達の存在は神秘に満ちている。だってそんな小さな儚い砂粒の中に、また私達の精神という小宇宙が存在しているんだよ?存在の偉大さはその体積では測れない、この全宇宙も、私達の小宇宙も、大地の砂の一粒の中の宇宙も、偉大さでは同じなんだ。」

二人はなんだか壮大なスケールになってきたナチの話しに、頭がフリーズしそうになっていたが、どこかで前からこの話しを理解していた気がした。

「さて、ここからが本題だが、私達のいのちを一粒の光の砂だとしよう。そしてある時優しい風が吹いたら、それは旅立ち、死の合図。体から離れた光の砂は、優しい風に乗って無限の光の砂漠へと帰っていく。」

「優しい風が吹いたら?」

「そう、優しい風とは旅立ちの合図であり、向こうの世界の人達が理解できないでいる自らの死のタイミングのことだ。優しい風は向こうの世界の人から見れば気まぐれに吹く、抗いようのない残酷な運命というものなのかもしれない。」

ヒカリはナチのこの難しい喩え話しに必死についていこうとしていた。

「えぇ、向こうの世界の人達は、自分の死の瞬間、大抵運命を恨んで死んでいっていると思います。」

ナチはヒカリを真っ直ぐ見つめて微笑んだ。

「しかし、優しい風はいつでも私達を慈しんでしか吹かないんだよ。なぜだかわかるかい?」

「優しい風は宇宙の呼び声。一度ここに帰っておいでと静かに語りかける。そうして私達は平安の砂漠に還っていくのだ。」

「そこで十分に休息して、再び学びに出たくなったら、また吹く風に乗って旅立てばいい。」


「私はここ数日、瞑想中に続けざまに同じイメージを見てね、それで私のいのちがもう旅立つ準備が出来たことを悟った。そして自我よりも早く、体もそのことを理解していたことに気づいた。このイメージと気づきが、私にとっての優しい風だった。」

そう言ってまた微笑んだ。

「私達の体は無限とも言える数の細胞でできているが、瞑想の中でその一つ一つの細胞が光輝く砂のようなものになってね、右手から、こう、サラサラとその光の砂達が自由に放れて流れていったんだ。」

ナチは右手から光の砂になって体が流れていった様を、なんとか伝えようと必死で身振り手振りした。

「その時わかったんだよ。私の細胞達も、今こうして私の体としてまとまってはいるが、実は一つ一つが自由でサラサラと流れる光の砂だったんだと。」

「彼等(細胞)は彼等の意思で、今は私の体として生きることを選択してくれている。しかしその時がくれば、役目を終えたように皆がバラバラに開放されていくのだろう。それが、肉体の死なのだと気づいた。」

「そして、イメージの中で細胞が光の砂となって流れていった後に、私のいのちだけが残った。それは音もなく、ただただ静かな開放だった。」


「…死が、開放…?」

「そう、そして穏やかな平安への帰還だ。」

「…」

ヒカリの頬を涙がつたっていた。

それを見て、おじいさんとツバキは一瞬目を合わせ、微笑んでそれぞれジュースを飲んだ。

『…サキ。』

ヒカリの心にサキの笑顔が鮮明に映った。

やっと、サキがどこへ行ったのか少しだけわかったヒカリだった。


『サキ…やっと、お前をこの僕の心の中から解放してやれそうだよ。悪かったな、今まで窮屈な思いをさせて。だけどもう、お前も、僕も、自由だ。』


「さてと、私はまだ挨拶回りが残っていたんだった。」

そう言って、ナチは席から立ち上がった。

「君達と話せて良かったよ。もし良かったら明後日の夜、私の旅立ちを見に来ないかい?まぁどちらでもいい、気が向いたらおいで。」

そう言って店を出て行った。

まるで夕食に招待されるように、人の死に目に誘われた二人だった。




それから二日後の夜、ヒカリとツバキはナチの旅立ちを見送るために平安の庭近くの広場へ向かった。

この世界の夜は向こうの世界の夜とまったく違っていた。

向こうの世界の夜が冷たい闇なのに対して、この世界の夜は神聖な聖堂のようだった。

明るい満月の光が夜空と調和し、その空はロイヤルブルーの優しいベールのように穏やかだった。

そこには底知れない不穏や怖れはなく、ただ宇宙との繋がりを感じさせる無限の広がりがあるだけだった。


「やぁ皆、今日は集まってくれてありがとう。」

ナチがなんとも軽く挨拶した。

たくさんの花が円形に置かれたその中心に、ナチは立っていた。

コミュニティのほとんどの人間がナチの旅立ちを見送りに来ているようだった。

しかし皆、穏やかな笑顔を浮かべ口々にナチへの感謝の言葉を言っていた。

ナチが目に涙を浮かべて満面の笑顔になった。

「あぁ…皆、本当に…本当にありがとう。お礼を言うのは私の方だよ、君達と共に生きられたことを、誇りに思う。」

ヒカリもツバキも、ナチと集まった人達の思いやりを感じて温かい感動を覚えた。

「さぁ、私は元気よく旅立つことにしよう。」

ナチはそう言って「よっこらせ」と花の中心にあぐらをかいて座った。

そして瞑想に入るかのように瞼を半分閉じた。

「最後に、私がこの人生で学んだことを聞いてくれるかい?」

さっきよりさらに瞼を閉じてそう言った。

皆が固唾を呑んで見守った。

「私の人生は、時に厳しく試練のように思えた日もあるが、それを含めとても豊かなものだった。」

「またとても楽しく多くのものを手にしてきたが、人生の本質はとても静かで神聖なものだと思う。」

「そして私達は儚く、自然や宇宙からすれば本当に小さな存在だが、皆といれば自分の中に無限の力があるような気がした。人間の可能性は私達が思うよりずっと広がっているのかもしれない。」

「まだまだ学んだことはあるが、これぐらいにしておこう。この素晴らしい気づきを得るために、ここにいる全ての君達の力と愛を借りた。…本当にありがとう。」


集まった多くの人が、静かに涙を流していた。

「では、ひと時のお別れだ。」

そう言って目を閉じて微笑んだ。

次の瞬間、ナチのお腹の底に光が宿った。

そして…

真っ直ぐな雷が落ちたかと思うような光の柱が、天と地を渡した。


…光が無くなったナチの体だけが残された。

その顔に、はっきりと豊かな微笑みを残して。


ヒカリは今の人間のものとは思えない壮大な光景を見て、静かにハッとした。

『…もしかしたらあれは、今のナチさんと同じ旅立ちの瞬間のいのちの光だったんじゃ…』

ヒカリは夜空を仰いだ。

『ナチさんも、サキも、人生の最後は皆同じ、光になって帰って逝くのか?』


こうしてナチは旅立っていった。

ただ、温かさだけを残して。

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