第5話

「このうさぎ汁はまずい」


 小平治はそう言い放った。


「え?」


 突然の言葉に、おあきは訝しげに小平治を見る。


「時が経ち過ぎておる、脂が凝って、いかにもまずそうだ」


「ならば温めなおします」


「そうよな、温めなおせば、またうまくなろう」


 そう言うと小平治はゆっくりと立ち上がった。


「しかしな、わしはもう、うさぎは食わぬ」


「なぜでございます」


 おあきの問いに小平治は刀の柄に手をやりながら答えた。いや、問い返した。


「なぁ、なんでうさぎはうまいと思う」


「えっ」


「うさぎは弱い生き物よ、猪の如く強い精気を持っておるわけではない。森の獣に、冬の寒さに、そして人間に。抗う事もなく逃げ回るだけのつまらぬ生き物よ」


 小平治は語る。


 そして自らの刀を見つめた。このような恐ろしい凶器を持ちながらも逃げ惑ってこんなところに流れ着いた自分を。


「なのに、うさぎはうまい。それはな、逃げるからよ」


 そう、俺のように、そしてお前のように。


「逃げて逃げて逃げて、逃げ回るうちにその身は鍛えられその肉には力が宿る。そして、食われる。逃げることでうまくなりそのせいで追われ食われる。うさぎとは、哀れな生き物よ」


 逃げ回り食い物にされ、また逃げる。


「なぁ、おあき、そなたはうさぎか」


 振り返って小平治は、おあきの顔を睨んだ。


 ゆらめく囲炉裏の火に照らされ、きっとこちらをにらみ返したおあきのその顔は、仁王の如くになっていた。


「私は、人間でございます」


 そうか、なればこそだ。


「ああ、拙者も人間だ。もう逃げぬ、また、食われもせぬ」


 うさぎは持たぬ鋭い牙を、小平治は持っている。そして、それを振るう理由もある。


 小平治ははゆっくりと息を吐くと、おあきに尋ねた。


「おあき、そなたの姉の名はなんという」


 おあきは、戸惑いながらもしっかりと答えた。


「おさき、おさき姉さんと申します」


 ああ、思った通りだ。なんという事よ、なんというめぐり合わせよ。


 話の途中からずっとその事が気にかかっていた、上州上田の武家の子で、親の死で一家離散となった。それは小平治が妻おさきに聞いていた身の上話そのものではないか。と。


 その後糸問屋に奉公に上がったおさきが、小平治の元に嫁いできた時に話した身の上話のままではないか、と。


 根三つ葉を入れたうさぎ汁。


 おさきの郷の名物。


 味付けも何もかも、まったく同じその味が、事の真実を裏付けていた。


「御祖師様、いや、おさきの導きかの」


「なぜ姉様の……」


「なんでもない」


 小平治は刀の柄を握りしめ、ゆっくりと土間に下り草鞋を履いた。


「江戸にはうまいものがたくさんある」


 そう、おさきの好物は、何もうさぎ汁ばかりではなかった。


「廓に籠っていたそなたが知らぬようなうまいものがな」


 小平治に言葉に、すべてを察したおあきがゆっくりとそれでいて力強く答えた。


「はい、頂きとうございます」


「うむ」


 そう答えると小平治は小屋の扉の前で腰を落とし、抜き打ちの構えで待機した。


 さあこい、猪撃ち。


 うさぎの一撃をくらわしてやろうぞ。


 逃げ回るうさぎが、人となるための一撃をな。


 にわかに、外に吹く風の音が轟轟と強くなる。


 その風の音のまにまに、小平治は確かに人がこちらに向けて歩いてくる音を聞いた。


 もう、逃げまいぞ。


 小平治の鼻を根三つ葉の香りがくすぐる。


 足音がすぐそばまで近づいてきて扉の前で止まった。


「おさき」


 小平治は小さくつぶやくと、跳ね上がるうさぎの如く。


 一気に鯉口を切った。

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脱兎 綿涙粉緒 @MENCONER

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