第30話 エピローグ 

 ミノス王は、王女とテセウスの逃亡と、ラビリンスの崩壊に激怒した。ダイダロスが関与したことが、どうしてばれたのか、俺は知らない。ミノス王にとっては、自明のことだったかもしれないな。ミノス王は、ダイダロスとイカロスを捕えて、高い塔のてっぺんに閉じ込めた。そう、ダイダロスはイカロスの面倒を見てくれていたんだ。

 伝説によれば、ダイダロスは鳥の羽をたくさん集め、蜜蠟で接着した大きな翼を作り上げて背中に装着し、鳥のように空を飛んでクレタ島から脱出した、という。イカロスも共に脱出した。だが、イカロスは空を飛ぶ喜びに我を忘れ、ダイダロスの、あまり高く飛ぶな、という注意も忘れた。イカロスはまっしぐらに高みを目指して駆け上り、太陽の熱で蠟が溶けて、ばらばらになった翼と共にまっさかさまに海に落ちていった。

 なかなか印象的な話だ。

 天から落ちていくイカロスの姿は、神に挑戦する人間の驕りへの戒めとも、理想を追い求める若者の野心とその挫折の象徴ともとられて、多くの絵画に残っている。

 ただ、実際におこったことはそうじゃない。

 イカロスがラビリンスで見つけた青い卵を憶えているだろうか。

 ダイダロスとイカロスは捕えられた塔の中で、卵を温めた。ダイダロスのことだから、きっと卵を温めるのにふさわしい、すぐれた細工物を作り出したに違いない。月満ちて、卵は孵化した。中から出てきたのは、トカゲのようなうろこに覆われた身体に蝙蝠の翼を持った生き物、竜だった。

 ダイダロスとイカロスは、竜に乗ってクレタ島を離れたのさ。竜の翼は強力だ。イカロスは天から落ちたりしなかった。風を切って海を渡り、シチリアに下りた。シチリアのコカロス王に歓迎されて、幸せに暮らしたという。

 

 テセウスの船は無事にアテネに着いた。ただ、さすがのテセウスもぼんやりしていたらしい。父王との約束を忘れて、船に白い旗を掲げず、黒い旗を掲げていたので、アイゲウス王は、息子がミノタウロスに殺された、と思いこんでしまった。悲観した王は死んでしまい、テセウスは帰国するとすぐ、父王の後を襲ってアテネの王となった。

 

 そして、アリアドネ王女は?

 置き去りにされた王女は、ナクソス島の中をひとり、うろついていた。と、どこからか太鼓の音が聞こえてきた。激しく打ち鳴らす太鼓のリズムに乗って、甲高い笛の音が空気を引き裂く。大勢の人々が足を踏み鳴らし、手を叩き、踊りながら近づいてくる。王女は、怖れて藪の陰に身を隠した。

 やがて現れた一団には、男も女もいた。半裸の身体に、獣の皮をひっかけ、裸足で大地を踏みしめていた。一団の中心には、葡萄の葉を頭に飾り、豹の毛皮を身にまとい、常春蔦の巻きついた杖を手にした若者がいた。

 若者が杖で大地を突くと、そこから噴水のように赤い水が噴出した。一団は赤い水を全身で受け、飲み、笑いながら抱き合った。

 好奇心にかられた王女は、恐る恐る藪から出ていった。一人の若い女が、狂人のように笑いながら王女の手を取って仲間に引き入れた。赤い水が王女の頭に、顔に、手にかかった。王女は指で水を舐めてみた。葡萄酒だった。

 賢い君にはもうおわかりだろう。

 葡萄酒とそれのもたらす陶酔の神、狂気と情熱の神ディオニソスと、彼を崇める信者の一団だった。アリアドネ王女の顔に幸福な笑みが浮かんだ。

 ディオニソスが王女の手を取った時、王女の頭に小さな角が二本、ゆっくりと生えてきた。

 

 これで、クレタ島の迷宮の神、ミノタウロスの話はおしまいだ。

 信じるかい?

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迷宮の神 日野原 爽 @rider-k

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