第29話 ナクソス

 君たちは幽霊を信じるだろうか?

 信じてもらわなければ困る、というのは、ここから先は、俺は幽霊だからだ。

 テセウスたちの船は、ダイダロスが約束した通りの快速船だった。港を出るとすぐに風が死んだ。追っ手のクレタ海軍は手も足も出なかったが、ダイダロスの船は、帆をだらりと下げたまま、ぐんぐんとスピードを上げていった。すくりゅうとかいうものの威力は大したものだ。あっという間にクレタ海軍を引き離し、日が昇る頃には、クレタ島も青くうねる波の向こうに消えてしまった。アテネ人たちは、手をたたいて喜んだ。

 テセウスは、船をナクソスの島へ向けた。水と食料の補給のためだったが、ナクソスは美しい島だ。長い間の虜囚生活で疲れ切ったアテネ人のために、テセウスはここで数日を過ごすことにして、海岸にテントを張った。

 アテネ人にとっては何週間ぶりかの自由だ。ここには監視する目はない。人身御供になるその日が心に重くのしかかることもない。夕日を見ながら、また一日が過ぎたと残り少ない命を数えることもない。命を取り戻し、未来を取り戻して、彼らは自由気ままに歩き、話し、歌い、走り、大声で笑った。

 だが、王女にとっては退屈だったのかもしれない。アテネ人が王女に打ち解けることはなかったし、王女はただぼんやりと海を見て、森を一人で歩くしかすることがなかった。次に起こったことは、おそらく、その手持ち無沙汰のせいだったのだろう。

 ナクソスに着いた翌日の朝、王女はテセウスのテントを訪ねた。テセウスは、彼の恋人の手を借りて、怪我をした右腕の包帯を取り替えているところだった。

「腕の具合はどうだ?」

「もう、ほとんどいい」

 テセウスはゆっくりと右腕を屈伸させながら言った。

「そうか」

 王女の顔がぱっと輝いた。

「それなら、長らくお預けにしていた勝負ができるな」

「何のことだ」

「わたしとお前の勝負だ」

 王女は腰に吊っていた剣の柄を叩きながら言った。

「忘れたとは言わせないぞ」

 テセウスは苦笑した。

「忘れてはいない。だが、遠慮しておく」

「なぜだ」

「戦う理由がない」

 王女は小鳥のように首をかしげた。王女が心底戸惑ったときの癖だ。

「戦うのに理由なんかいらない。どっちが強いか、やってみるだけだ」

 テセウスは首を振った。

「わたしにとっては違う。戦いには大義名分がいる。無意味な戦いはしたくない」

「怖いんだな?」

 王女はずるそうに笑いながら挑発した。「負けるのが怖いんだ」

 そこでなぜ、あの内気な乙女が口を出してしまったのか。彼女もやはり、クレタ島を離れた開放感に酔っていたせいなのかもしれない。

「テセウスは、戦いたくないと言っているのです。無理強いはおやめください」

 王女はゆっくりと頭をめぐらして乙女の方を見た。

「何か言ったか?」

「ここはもう、クレタ島ではございません。貴方も王女ではない。ご自分の思いのままにはなりません」

 王女は雷に撃たれたようだった。呆然と乙女の顔を見ていた。

 テセウスは二人の間に割って入った。よさないか、と乙女を叱った。

「でも、テセウス」

「口を出すな」

 テセウスは王女に向き直った。

「王女、わたしは今、戦いたいとは思っていない。それだけです。負けるのを怖れている、と王女が思われるなら、それも仕方がない。わたしはただ、今しばらく、この平穏な静けさを楽しみたいと、そう思っているのです」

 王女は何も言わず、ふいとテントを出ていった。

 その夜のことだ。

 皆がそろった夕食の席に、あの乙女は姿を見せなかった。食事の前に、ベリーを摘みに行くと言ってキャンプ地を離れて行ったきり、戻ってこなかったのだ。テセウスは心配した。ナクソスは無人島で、人を襲うような大きな獣はいない。だが、有毒な牙を持つ蛇はいるし、滑りやすい石の崖もある。どこかで足でもくじいて、帰れなくなっているのではと、二、三人ずつアテネ人を組にして、捜索に送り出した。

 彼らは迫ってくる夕闇に急かされながら、広くもない島じゅうを探し回った。だが、乙女は見つからない。三々五々、捜索隊はむなしくキャンプ地に戻ってきた。最後に残ったエイモスが、乙女を肩に担いでキャンプの焚き火の前に戻ってきた時、日はもう、とっぷりと暮れていた。

 エイモスは乙女をそっと、地面に下ろした。乙女は目を大きく開いていたが、その目は何も見ていなかった。彼女の白い長衣の胸は、赤く血に染まっていた。

 テセウスは、乙女の頬を撫でて、そっと名前を呼んだ。

「サローニカ」

 俺は初めて乙女の名前を知った。

 アテネ人の若者たちは、二人の周りに集まって無言のまま頭を垂れた、乙女たちは、仲のいい者同士、抱き合ってすすり泣いている。テセウスは、乙女の手を取ると、自分の額に押し当てた。両手を胸で組ませてやり、まぶたを閉じてやると、乙女の唇にそっとくちづけした。短い祈りの言葉を唱えると、エイモスに、どこで見つけたのか、と尋ねた。

 エイモスは、キャンプから少し離れたいちいの木の陰で見つけた、と言った。傍に、籠が転がっており、ベリーの実が散乱していたという。

「これは刃物の傷です。誰かが、細い刃で、彼女の胸を刺して殺したんです」

 エイモスが怒りを押さえかねたように言った。

 誰かが。

 全員が、王女の方を見た。

 王女は焚き火の傍に一人離れてすわっていた。アテネ人たちの行動には、全く関心がないように、燃え上がる火を見つめていた。

 エイモスが、王女の方に一歩、足を踏み出した。アテネの若者たちも後に続こうとするが、テセウスが止めた。

「よせ」

「なぜです、テセウス。この女がやったに決まってるんだ。なぜ、止めるんです?」

 王女はゆっくりと頭をめぐらし、若者たちを見た。

「何か言ったか?」

 その顔にはおかしがたい気品と威厳があった。たとえ国を離れても、王女は王女である、と主張するような。

 王女はゆっくりと立ち上がり、腰の剣に手をかけた。

「大義名分を作ってやったぞ、テセウス」

 テセウスは震えていた。その顔は蒼白で、額には汗が浮かんでいた。腰に吊った剣の柄をしっかりと握り締めたまま、王女の顔を見つめて立ち尽くしていた。

 長い時間がたった。

 テセウスは、王女から目をそらせた。エイモスを呼んで、乙女の埋葬の準備をするように命じた。アテネ人たちは不満そうだった。口々に抗議しかけたが、テセウスは彼には珍しい荒い言葉で彼らの不満を封じた。

 アテネ人たちがしぶしぶと、言いつけられた仕事にかかると、テセウスは一人で自分のテントに戻っていった。王女は何も言わずに彼のする事を見ていたが、テセウスの背がテントに消えると、ひとことつぶやいた。

「へなちょこ」

 

 翌朝、王女が目を覚ました時、キャンプには誰もいなかった。

 昨夜までいくつものテントが立っていた空き地には、支柱を立てた穴がそこここにあいているだけで、カンバス製のテントは消えている。焚き火の火はまだ、ちろちろと燃えているが、その周りで談笑していたアテネ人の姿はない。

 王女はまだ夢を見ているような気持ちがしただろう。

 テセウスは、夜明け前に全ての荷を積み、王女を置き去りにして出航していったのだ。海岸に走っていった王女が見たのは、青い波の向こう、はるか彼方に小さく見える白帆が遠ざかっていく姿だった。王女は島で一番高い丘に登った。見渡す限りに青い海と青い空しかなかった。テセウスを載せた船の白帆は、もう、どこにも見えなかった。

 

 俺は、テセウスの船室を訪ねていった。

 テセウスは、船室の中を行ったり来たり、落ち着かない様子で歩き回っていた。

「なぜだ、テセウス」

 俺が尋ねると、ぎょっとしたように顔を上げた。

「耳役殿! なぜ、ここに?」

「俺は王の耳だ。まして、今は幽霊だからな。どこからでも入れるさ」

「幽霊か。とうとう、わたしの頭もおかしくなったのか?」

「俺はただ、お前と話がしたいだけだ」

 テセウスはまじまじと俺の顔を見ていた。

「いいだろう。幽霊でも、幻覚でも、ダイダロスの魔術でも、何でもいい。ちょうどいい話相手かもしれない。なぜか、と問うのか。わたしは一番良いことをしただけだ」

「お前は、王女をアテネに連れていくと約束した」

「そうだ。そのつもりだった。だが、アテネに連れていってどうなる? 王女はアテネに向いていない。王女は、荒野に属している」

「野獣だと、そう言いたいんだな」

「非難してるわけじゃない。生きるために野を走り、獲物を捕らえて引き裂く獣を野蛮だと非難するのは、文明のおごりだ。だが、町には町のルールがある」

「それで、置き去りにしたのか?」

「約束を破った責めは甘んじて受ける」

「テセウス。王女はお前に惚れていた」

 テセウスの顔が苦痛にゆがんだ。

「わたしが気づかないとでも思っていたのか? 王女は、わたしに近づこうとして試合を申し込んだ。他に、愛情を表現するすべを知らなかったんだ。王女は恐ろしいほどに正直だ。邪魔者は排除する。逃亡の妨げになっている奴隷女であろうと、嫉妬を感じた恋敵であろうと」

「それで、お前はどうなんだ?」

「わたしは王女が言った通り、偽善者だよ。王女に惹かれる自分が恐ろしくて、逃げ出したへなちょこだ」

 テセウスは俺から顔をそむけた。

「さあ、もう行ってくれないか。わたしは選んだんだ。荒野よりも町を、沈黙よりも騒音を、正直な残酷よりも、欺瞞に満ちた平和を。後戻りはできない」

「お前はいい国王になるだろう。ミノス王にそっくりな」

 テセウスはきっと俺を睨んだが、無言だった。

 俺は船を離れた。

 テセウスの船は、一路アテネを目指して、水平線の向こうに消えていった。

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