第28話 再び、港

 大地が苦しみ、咆哮しているようだった。

 水と火が荒れ狂い、濛々たる蒸気で息が苦しい。天井が崩れ落ち、地が割れて全てを闇に飲み込もうとしている。

 赤い糸玉は、地を滑るように転がっていく。暗闇のなかに、赤く光る糸玉を追って、俺たちは駆けた。イカロスは息がきれて途中で走れなくなり、俺は彼を背負って駆けた。少しも重くないことが、ありがたく、情けなかった。どれくらい走ったか、ふいに前方に星空を見た。わずかな岩の隙間から縦に見える星空に向かって、俺たちは駆けた。二つの大きな岩の隙間を潜り抜けると、冷たい夜の空気が、俺たちを迎えてくれた。糸玉は、山の中腹の岩の裂け目に、俺たちを案内してくれたのだった。

 誰もが疲れきっていた。地面に転がって、痛む横腹を押さえながら、無事に外へ出られたことを皆で喜びあった。

「ラビリンスは崩れてしまったようだな」

 テセウスが言った。

 何が起こったのか、俺にはまだよくわからない。なぜ、オートマトンはイカロスをかばったのだろう。俺は何も命令していない。魂のない自動人形が、自分の意思で動くことなど、あるのだろうか? それとも、ずっと昔、幼いミノタウロスの乳母やをやっていたという人形の記憶のどこかに、子供を守ろうとする本能のようなものが、残っていたのだろうか? いつか、機会があったらダイダロスに聞いてみよう。今の俺は、あの奇妙な自動人形に感謝するだけだ。

 王女が突き刺したのは、オリハルコンが埋め込まれていた、自動人形の胸部だった。それが、ラビリンスの崩壊を引きこしたのだろう。ミノタウロスは、崩れ落ちた迷宮の底深くに埋められてしまった。これで、伝説の怪物の正体を知る者はなくなる。テセウスにとっても、ミノス王にとっても、これが一番都合のいい結末だったろう。

 ダイダロスの作り上げた迷宮。ラビリンスは、女房の墓にもなった。だが、女房のことは今は考えたくない。後で、もう少ししてから考えよう。今、考えると、俺は動けなくなってしまいそうだ。

 テセウスは立ち上がった。

「王女、ここがどこかおわかりか?」

 王女はしきりに周りを見回していた。

「ここは、ラビリンスの入口の真後ろにあたる。ここから東へ下れば、ダイダロスと船の待っている港に出る」

 テセウスは空を見上げた。夜の漆黒はもうそこにない。濃い藍色の空は夜明けの近さを確実に告げている。

「みんな、疲れているだろうが、もうひとがんばりだ」

 励ますと、王女と共に先頭に立って歩き始めた。


 ダイダロスはすっかり帆を上げて、出帆するばかりになった船の前で待っていた。

「王女様、心配していました。あの地震は?」

「ラビリンスが崩れた」

 王女の言葉に、ダイダロスはさして驚かなかった。ただ、瞑目して、じっと立ち尽くした。彼が作った迷宮。彼の傑作に黙祷を捧げるようにも見えた。

「ダイダロスか。お前の糸玉のおかげで脱出できた。礼を言う」

 テセウスの言葉に、ダイダロスは目を開いた。

「あなたが、テセウス」

「お前もアテネに帰らないか? 昔の事は忘れよう。その気があるなら、一緒に来い」

 だが、ダイダロスは首を振った。

「アテネは、わたしにはもう、過去の町です。夢の中でだけ訪れる町です。その夢も決して快い夢ではありません。しかし、こんな話をしている場合ではない。時がありません。地震のせいで、王宮が異変に気付いたようです。クノッソスの警備兵が、ラビリンスに向かいました。間もなく、ここへも来るでしょう。急いでください」

「わかった」

「船の扱いはご存知ですね」

「アテネ人を馬鹿にするな」

「この船は、少し特殊な装置を積んでいます。すくりゅうという…。扱い方は王女様に聞いて下さい」

 テセウスはうなずいた。

「色々、世話になった」

 テセウスは、アテネ人の若者と乙女たちに、船に乗るように指示した。

 東の空が明るくなってきた。星がひとつ、ふたつと消えていく。

「王女様、お早く」

 王女は、やにわにダイダロスに抱きつくと、達者でいろよ、と叫び、船に向かって走っていった。

「耳役殿、幸運を祈ってますぞ」

 俺はダイダロスの手を握りしめると、イカロスの手を引いて、船に向かって歩き出した。

「父さん、僕たち、アテネに行くの?」

「そうだ。きっといい所だぞ」

 その時、俺の背中に何かがぶつかった。

 息ができなくなった。

 目の前の船がぼやけてきたかと思うと、膝が砕けた。何が起こったのか、わからないままに、俺の身体から空気が抜けていく。目の前に地面が迫ってくる、と思った時、身体を裂かれるような痛みが襲ってきた。

「父さん!」というイカロスの悲鳴が聞こえた。

「耳役殿!」というテセウスの声も聞こえた。

 そして、どこか遠くで大勢のときの声が聞こえた。俺の身体の下の地面が、彼らの足踏みで揺れるようだ。俺は懸命に目を開いた。

 見えるのは暗黒だけだ。だが、絵巻物を広げたように、脳裏に次々に絵が浮かんでくる。こちらへ突進してくるクレタ兵の一団がいる。指揮をとっているのは、ポントウス将軍の副官、コリウスだ。病床のポントウス将軍は、ラビリンスが崩れたのを知ったのだろう。クレタ島の守り神である迷宮の神が、永遠に失われたのを知ったのだろう。そして、彼の神を殺した者を捕らえて罰するために、コリウスを差し向けたのだ。将軍配下には優れた槍騎兵がたくさんいる。そのうちの一人が投げた槍が、今しも逃げようとしているクレタへの裏切り者の背中を貫いたのだろう。

「耳役殿」

 テセウスが俺の脇にひざまずいた。

「行け」

 俺はテセウスに言った。口中に血が溢れてくる。「早く行け」

 ダイダロスが傍にやってきて、テセウスに船に乗るように勧めている。イカロスは俺の手を握って泣いている。テセウスが一緒に来るようにと、腕を掴んだが、イカロスは振り払った。

「すまない、耳役殿」

 テセウスの足音が遠ざかっていく。

 ダイダロスがもやいを解いた。

 船は、折から吹いてきた一陣の風をとらえて、ゆっくりと動き出した。

 ダイダロスが俺の傍に戻ってきた。

「行ったか?」

「ああ、行った」

「ダイダロス。イカロスを頼む」

 俺は繰り返した。

「イカロスを頼む」

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