第27話 崩壊

 ダイダロスの赤い糸玉を使って、俺たちはダイダロスの大広間へ戻った。王女が一緒にいるのを見てアテネ人たちは驚いたようだが、テセウスは王女がアテネへ行く船を用意してくれる、と言って納得させた。

 それよりも、皆はミノタウロスの話を聞きたがった。テセウスは、ミノタウロスは死んだ、とだけ言った。

「今はのんびりおしゃべりしている時間はない。夜が明ける前に港に着くんだ」

 アテネ人たちは、俺たちを待っている間に、せっせと砂金を集めていたらしい。皆、長衣の裾や袖を破いて作った手製の袋を大事そうに抱えていた。

 イカロスも布の袋を抱えていた。

「お前も砂金を集めていたのか?」

 俺が訊ねると、イカロスは違う、と言った。

「もっといい物だよ。父さんにだけは見せてあげる」

 秘密めかしてひそひそと言うと、そっと袋を開けてみせた。袋の中には、ダチョウの卵よりも一回り大きいくらいの青い卵が二つ、入っていた。

「さっき、狭いトンネルに入った時に見つけたんだ。父さん、これ、何の卵だろう?」

「わからん。初めて見る」

「僕、持って帰って、温めてみようと思うんだ」

 イカロスは大事そうに袋を閉じた。俺は、そんなもの捨てろ、と言いそうになったが、その時、テセウスが、耳役殿、と呼んだ。

「行くぞ」

 テセウスは赤い糸玉を目の高さに差し上げて、ラビリンスの出口へ導け、と言った。地に投げられた糸玉は、ころころと転がって、通路の一つに入っていく。アテネ人たちはその後を追った。俺も、イカロスと女房を促して、後に続こうとした。

 ところが、女房は動かなかった。

「どこへ行くの?」

 何、寝ぼけたこと言ってるんだ、と俺は腹を立てた。

「ここを出るんだよ。さ、早く」

「ミノタウロスの角はどうなるの?」

「何だって?」

「ミノタウロスの角よ。この子の病気を治すための。あんた、取ってこなかったの?」

 俺は女房に角の話はしていない。だが、女房は、クレタ島の民衆の間に広まった迷信を聞いていたんだろう。ラビリンスに来た時から、なんとかして角を手に入れたいと願っていたに違いない。

「角はないんだよ。さ、早く」

「あんた、行きなさい。あたしは角を取ってから行く」

「だめだ」

 俺たちが押し問答をしている間、イカロスは不安そうに傍に立っていた。

 テセウスが戻ってきた。

「何をしてるんだ?」

「なんでもない。今、すぐ行く」

 俺は言ったが、女房はいきなり、テセウスの足元にひざまずいた。

「殿様。ミノタウロスを殺してくれて、感謝します。あたしは、ミノタウロスの角を取ってきます。この子を連れて先に行ってください」

「ミノタウロスの角……」

 テセウスは呆けたように言った。

 テセウスにとっては、絶対に認められない願いだ。あんな小さな角が人前にさらされれば、救国の英雄の名誉はどうなる?

「お前は馬鹿だ!」

と、俺は女房に怒鳴った。「角に薬効があるなんて嘘なんだ。誰かのでっちあげなんだよ。第一、糸玉無しでどうやってラビリンスから出るんだ?」

 テセウスは、精一杯の忍耐を見せて言った。

「御婦人、ご主人の言うことをきいた方がいい」

 だが、女房は強情だった。立ち上がると、「角を取ってきます」と言って、大広間を出ようとする。

 テセウスがエイモスを呼んで、ロープを持ってこい、と怒鳴った。

「手荒なことはしたくないが、止むを得ない」

 俺はテセウスに感謝した。縛り上げて無理矢理に引きずってでも、とにかく連れて出ようとしてくれている。

 そこに、王女が来た。

「おい、何をぐずぐずしてるんだ?」

 エイモスと俺が女房をようやく捕まえて、ロープをかけようとやっきになっているところだった。

「放してください! あたしは角がいるんです! ミノタウロスの角があれば、あの子は助かるんです。せっかく怪物が死んだというのに……角を取るんです!」

 王女の目が、きらり、と光るのを俺は見た。

「王女様、どうか…」

 俺は叫んで前に飛び出した。だが、遅かった。

 王女はやにわに剣を抜くと、女房の胸を刺し貫いた。俺たち全員が凍りついたように見守る中で、女房はずるずると地に崩れ落ちて、そのまま動かなくなった。

 王女は、ふん、と軽蔑したように鼻を鳴らして、きびすを返した。その時、小さな影が王女に向かって突進した。

「人殺し!」

「やめろ!」

 俺は叫んで影に飛びつこうとしたが、とうてい間に合わない。王女は振り向きざまに剣を突き出した。

 俺は、覚悟した。イカロスの小さな身体はまちがいなく、王女の剣に刺されて、母親の後を追うだろう。そして俺も。

 ただ、そうはならなかった。

「なんだ、お前」

 王女の、心底仰天した声が聞こえた。

 王女の剣は、オートマトンの胸を貫いている。この自動人形は、イカロスと王女の間に割り込んで、王女の剣を代わりに受けたのだ。

 オートマトンの胸から虹のような光が発した。光はどんどん強くなり、まぶしくて目を開いていられない。次いで、しゅうしゅうと蒸気のような音を立てながら、火花が飛んだ。火花は四方八方に飛び散り、黄金の走る壁を突き崩し始めた。

 大広間全体がぐらぐらと揺れ始めた。もう、まっすぐに立っていられない。大きな石が、天井から落ちてくる。地下の川の水量が増えてきたと思うと、洪水のように俺たちの方に押し寄せてきた。

「逃げろ!」

 テセウスが叫んだ。

 俺はイカロスの手を引くと、走り出した。

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