第26話 ミノタウロス

 イカロスを大広間に置いてきたのは正解だった、と急傾斜を息を切らして上りながら俺は思った。オイルランプを手にしたテセウスが先頭に立ち、背後からは黙々とオートマトンが登ってくる。

 来た道を戻っているだけなのに、一向に二股の分かれ道にたどりつけない。Dの文字のペイントされた分かれ道から大広間まではずっと下りで、所々枝道はあったものの、俺たちは本道から離れなかった。紛らわしいと思われるところには、テセウスはナイフで岩に印をつけてきたから、迷うはずはないのだ。

 ところが、歩いても歩いても分かれ道に出ない。それどころか、道は登りになり、くだりになり、また上りになる。明らかに、来た時の道とは違う。どこかで間違ったかと、後戻りしようとすると、二十歩も歩かないうちにまた同じ場所に戻っている。

 三度目に、同じ形の岩を見た時に、テセウスが立ち止まった。

「これは変だ」

「変だとも。俺たちは迷っている」

「さっきから、同じところをぐるぐると回っている。迷宮とはこの事を言ったのか?」

 テセウスは懐から赤い糸玉を出した。

「この糸玉があれば迷わない、とダイダロスは言ったのだな」

 テセウスは糸玉をぽん、と投げた。糸玉はころころと転がり、テセウスの足にぶつかって止まった。無言のまま、テセウスは糸玉を拾った。

「どこへ行きたいのか、声に出して言ってみろ」

 俺は思いついて言った。「自動人形と同じだ」

 テセウスは糸玉を目の上に差し上げると、ミノタウロスの元へ案内せよ、と言ってから、糸玉を再び投げた。

 糸玉は地に落ちた。だが、今度はさっきとは逆に、ころころと転がりながら下から上へと傾斜を登っていく。テセウスと俺は顔を見合わせた。

「行こう」

 テセウスが言った。

 糸玉は生きているもののように傾斜した通路を登り、曲がり、枝道に入り、また曲がりして進んで行く。その動きにためらいは一切なかった。俺たちは息を切らしながら、ひたすらにその後を追った。二股の分かれ道を通過したかどうかはわからない。数え切れないほどのトンネルを抜け、次のトンネルに入り、坂を登り、降りた。

 気がつくと、今までよりもずっと広い通路を歩いていた。通路には所々松明が燃えていて、十分に明るい。テセウスはランプを吹き消した。さらに前方に広い空間があるらしく、明るい火がともっているようだ。糸玉はその明るみを目指すように、ころころと転がっていく。

 やがて、俺たちは広い円形の広間に入った。円柱のような岩の柱が背の高いドーム型の天井を支えている。壁にはいくつも松明が燃え、まるで王宮の大広間にいるような気がする。広間の中央は、玉座のように一段高くなり、その周囲に白い幕が垂れていた。

 糸玉は幕の前で止まった。

 俺たちは、ミノタウロスの居室に導かれたのだ。

 しかし、ミノタウロスはどこにいるのだろう?

 俺は耳を澄ました。だが、松明が盛んに燃える木の爆ぜる音しか聞こえない。

 テセウスはナイフを構え、俺に、油断するなよ、と声をかけると、あたりに気を配りながら、一歩一歩、白い幕に向かって近づいていった。俺も、ダイダロスの金槌を構えて後に続いた。オートマトンは、俺の後ろについているはずだ。

 テセウスは段のすぐ近くにまで近づいた。彼の影が白い幕に大きく、怪物のように写った。

 白い幕の内側で何かの気配が動いた。俺たちはぎょっとして立ち止まった。

「遅かったな。待ちかねたぞ」

 耳慣れた声が言った。

 幕の隙間から、アリアドネ王女がついと出てきた。

 テセウスは驚いたにせよ、態度には見せなかった。

「王女、わたしはミノタウロスに会いに来た」

 殺しに来た、と言わないのは、王女の気持ちを斟酌した上のことだと思うが、王女はテセウスの目的を十分に承知しているはずだ。なのに、一向に動揺した様子は見せなかった。

「わかっている。王の耳に、オートマトンまで引き連れてきたとは驚きだが」

 王女は落ち着き払った声で答えた。

 俺はテセウスの方を見た。ナイフを構え、警戒を解いていないが、明らかに戸惑いの表情を浮かべている。

「せっかく来たのだから、会わせてやる」

 王女は白い幕を持ち上げた。

「入れ」

 テセウスと俺は、用心しながら、幕の中に入った。

 白い幕に囲まれたそこには、透明なガラス板で作られた箱が安置されていた。そしてその箱の中に、豪奢な絹の布団に包まれて、三歳ぐらいの少年が横たわっていた。色白で、端正な顔立ちの少年だった。大人の小指ほどの長さの角が二本、茶色の巻き毛の間から覗いていた。少年は目を閉じていた。見ただけで、息をしていないのがわかった。

 俺は、思わず床に膝をついた。何かとてつもなく深い神秘に立ち会っているのだという感動と畏怖の念に打たれて、動けなかった。

「これが?」

 テセウスの声も低く、静かだった。

「ミノタウロス。わたしの弟だ」

 王女の声は、優しかった。いつくしむように、その名前を発音した。

「死んでいたのか」

 テセウスはため息をつくように言った。

「この十五年間」

「しかし…しかし、そんな馬鹿な」

 テセウスは愕然としたようだった。

「九年前の貢物はどうなったのだ? わたしは、ミノタウロスの餌食になったものだとばかり思っていた。もし、そうでないのならば……」

「話してやるから、落ち着け、テセウス」

 王女はなだめるように言った。テセウスは必死で感情を抑えようとしている。ごくり、とつばを飲み込み、話してくれ、と言った。

 王女はミノタウロス誕生のいきさつと、彼を守るためにダイダロスがでっちあげた偽の神託の話をした。

「ラビリンスが出来ると、ダイダロスはミノタウロスをここへ移し、信頼のおける乳母の手で育てた。そら、そこにいるオートマトンだ」

 俺たちの視線を浴びても、自動人形は無表情に立ち尽くしていた。

「そこにいるでくの坊は、昔はいい乳母やだったんだ。信じられるか?」

 王女はクスクスと笑って話を続けた。

「ミノタウロスは三歳の誕生日の少し前に喘息の発作で死んだ。元々、ひよわであまり長くは生きないだろうと、ダイダロスも思っていたらしい。ダイダロスはきれいな箱を作り、死体を納めた。どんな細工になってるのかはわたしも知らないが、まるで生きているようだろう?」

「たしかに」

「ダイダロスはミノス王に、ミノタウロスが死んだと言わなかった。言えなかったんだ。言えば、クレタ島に災いをもたらした者として殺されただろう。その頃には、誰もが、ミノタウロスの存在こそが、クレタ島の繁栄の保証だと信じていた。ミノタウロスはもう、ミノス王の恥ずべき異形の息子じゃない。迷宮に住む神になっていたんだ。ミノタウロスをめぐって、色々な噂が生まれた。ミノタウロスは牛頭人身の凶暴で怪力の怪物だとか、逆に、人の顔を持つ巨大な牡牛だという説もあった。ミノタウロスは不死身だが、その怪物的な生命力の源泉はその角にあり、角を切られれば死んでしまう、とか、ミノタウロスの角には万病を癒す薬効がある、とか、どこぞの巫女が、ミノタウロスには九年ごとに七人の乙女と七人の若者を生贄として捧げるべしと予言した、とか」

 テセウスの愕然とした声がさえぎった。

「噂なのか?」

「そうだ。誰が言い出したのかもわからない噂だ。だが、ミノス王がそれを聞いた。クレタ島の繁栄のために生贄がいるなら用意しようと言って、アテネに攻め込んだ。というのが表向きの話だ。元々、王には、アテネを叩きたい理由があったんだろう。ミノタウロスは開戦のいい口実になった」

 テセウスは唇を噛んだ。

「それで、九年前の十四人のアテネ人はどうなったんだ?」

「どうもなりはしない。ラビリンスに入って、そこから出られなかっただけだ」

「飢え死にか?」

 王女は肩をすくめて、何も言わなかった。

 長い沈黙が続いた。

「耳役殿」

 テセウスの声は自らを嘲笑うようだった。

「わたしたち二人とも、下らぬ噂に振り回された愚か者ということらしい」

「耳がこれに何の関係があるんだ?」

 王女が不思議そうに口をはさんだ。

「耳役殿は、病気の息子のために、命懸けでミノタウロスの角を取りに来たんだ」

 へーえ、と王女は間の抜けた声を出した。

「そいつは気の毒だったな、耳」

「だが、王女。ひとつわからないことがある」

「何だ」

「なぜ、わたしに秘密を明かした?」

 王女はずるそうに唇をなめた。

「お前と取引がしたい」

「聞こう」

「お前、もうここに用はないだろう? 今夜、ダイダロスが港で船を用意して待っている。お前が、わたしをアテネに連れて行ってくれるならば、わたしはお前とお前の仲間をラビリンスから無事に出してやる。お前は皆に、ミノタウロスと戦って倒したと言えばいい。わたしは沈黙を守る。お前は救国の英雄としてアテネに凱旋できる」

「わたしに、嘘を言えというのか?」

「本当の話をしても、誰も喜ばない。人は退屈な事実や、辛気臭い真実よりも、華やかで、面白い物語の方を喜ぶものだ」

「……」

「ミノタウロスを殺すのは不可能だ、と前から言っておいただろう?」

 テセウスはふ、と苦笑した。

「憶えている。それで、貴方はなぜ、アテネに行きたいのだ?」

「お前、わたしの婚約披露宴に出なかったのか?」

「へなちょこ」

 二人は顔を見合わせ、声を上げて笑った。

「わかった。貴方に国を捨てる覚悟があるなら、連れて行こう」

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