第25話 ラビリンス 其の二

 問題の扉は、狭いトンネルにぴったりとはめ込まれた一枚扉で、中央の丸い取っ手は、押しても引いてもびくともしなかった。

「この扉には鍵穴がない」

 テセウスが、松明でじっくりと扉を調べながら言った。

「中から閂をさしてあるんだ」

「じゃ、中に誰かがいるのか?」

 俺はぞっとした。ラビリンスの中にいる誰か。

 ミノタウロス以外の誰がいる?

「変だと思わないか、耳役殿?」

 テセウスは落ち着き払っていた。

「何が」

「もし、これがミノタウロスの棲みかだとすると、やつは存外、小柄じゃないか?」

 俺は、テセウスのいう意味を理解した。扉は大きくはない。ここを出入りするものは、俺達と大してサイズが違わないことになる。

 テセウスはなおも扉を調べていたが、突然、どんどんどん、と扉をこぶしで叩いた。俺はあわてた。

「おい、よせ、何をするんだ」

 テセウスは俺に構わず、扉をたたき続けた。それどころか、大声で叫んだ。

「おーい、誰かいませんか!」

「やめろ、ミノタウロスが出てきたらどうするんだ?」

「結構じゃないか。わたしはそのために来たんだ。おーい」

 どんどんどん。

「ここを開けてくれ!」

 よせ! と俺がテセウスの左手―右手は使えないのだーを押さえた時、扉の向こうで誰かが近づいてくるような足音が聞こえた。俺は凍りついた。足音は扉の前でぴたりと止まり、閂をはずす音が聞こえた。

「耳役殿、さがってろ」

 テセウスは俺を後ろに押しやり、自分も二歩さがって、右腕の包帯の下から取り出した長いナイフを構えた。俺は、しゃがんで足元の石を拾った。つぶてになるだろう。

 心臓が一つ打ち、また一つ打った、そしてまた一つ…

 息を詰めて見守るうちに、耳障りな金属の悲鳴をあげて、扉がゆっくりと動きだした。

 徐々に、扉は内側に向けて開いていく。

 徐々に、扉の向こうの暗黒が広がっていく。

 半分ほど開いたところで、扉の動きは止まった。

 テセウスは松明を掲げて、慎重に中を覗きこんだ。

「おい、耳役殿。これを見てみろ」

 俺はテセウスの後ろから首を伸ばした。

 最初に俺の目に止まったのは、壁に掛けられたスコップとつるはしだった。次いで、大小の鋸、かなてこ、竹竿の束、ロールに巻いた布……。

 テセウスの松明が移動するたびに、新たな工具類が目に入る。部屋の中央にはテーブルが置いてあって、その上には、大小の紙、かんな、金槌、釘のたくさん入った箱、オイルランプ、鑢、錐、ペンチなどがごちゃごちゃと載っている。俺はこんな部屋を見たことがあった。それもつい最近。

 テセウスがナイフを構えたまま、そろそろと中に入った。俺も後に続いた。

「テセウス、これは…」

 俺が言いかけた時、俺の後ろで動くものの気配があった。さっと振り返って、松明を突き付ける。背の高い、白い着物を着たものが、そこに立っていた。

「大事に…ミノタウロス……クレタの繁栄を…」

 細い声で、無表情に繰り返している。

 俺はほっとした。ナイフを構えているテセウスに、大丈夫だ、と声をかけた。オートマトンの胸を探って蓋を開け、オリハルコンを取り出した。オートマトンはとたんに、くたくたと床にくず折れてしまった。

「ダイダロスの作った自動人形だ。ここは、ダイダロスの工房だよ」

 ダイダロスの家から消えた道具類は、ここへ移されたのだ。ダイダロスは道具類を移し、オートマトンを留守番に置いたのだろう。

「驚かせるな」

 テセウスはただ一つの椅子にどっかりと腰をおろした。

「すると、ダイダロスは時折、ここへ来ていたことになるな」

「そうだろう。ここなら、誰にも邪魔されずに仕事ができる」

 俺は、命を賭けることになる、と言ったダイダロスの言葉を思い出した。おそらく、そのためにダイダロスは用心して工房をここへ移したのだろう。

「じゃあ、我々はまちがった道をたどってきたことになる」

「まちがった道?」

「あの、最初の二股の分かれ道だ」

 テセウスは不機嫌に言った。

「Dはダイダロスの工房への道を指していたんだ。ここにはミノタウロスはいない」

「しかし、二番目の組が見つけた白骨はどうなる?」

「ミノタウロスに襲われて食われたわけじゃない。考えてみろ。野獣に食われた残骸が、原型をとどめてるわけがないじゃないか。服まで着てるんだぞ。あれは、道に迷って飢えて死んだか、病気で倒れたか、だ」

 テセウスは立ち上がった。

「そうとわかれば、こんな所でぐずぐずしてはいられない。戻るぞ」

 しかし、工房を出る前に、俺たちは、金槌、錐など、武器になりそうないくつかの工具を持ち出していくことにした。なかでも有り難いのは鯨油を用いたオイルランプだった。松明よりもずっと長持ちする明かりは、この地下の迷宮でどれほど俺たちを助けてくれるかわからない。

 ランプと工具を持ち、俺達は大広間へ戻った。

 ところがそこで、思いもかけない出来事が待ち受けていたのだ。

「一体、どうして、そんなことになったんだ?」

 テセウスはエイモスを怒鳴りつけた。

 イカロスがいなかった。最初の斥候が入ったトンネルで、一つだけ狭くて中を調べることのできなかった横穴があった。残留組がその話をしている時に、イカロスが、自分なら中に入れるのではないか、と言い出したのだ。最初の斥候の一人が、その提案に乗った。最初のトンネルは短く、何も発見できなかったことを、彼は残念に思っていたらしかった。だからと言って、不必要な危険をおかす必要がどこにある! とテセウスは珍しく声を荒げた。

 俺は心配しながらも、イカロスの気持ちが少しだけわかるような気がした。イカロスは若いのだ。最後尾で皆にかばわれながら前進するのが、心苦しかったに違いない。自分が役に立つ機会が目の前に現れた時、それをつかんだのだろう。

 だがやはり、それは軽率な行動だった。そのせいで行動が遅れれば、皆が危険にさらされる。俺は女房を叱った。

「なぜ、行かせた?」

「あの子がどうしても、と言うから…」

 テセウスは、てきぱきと対策を立てた。イカロスともう一人は、短い松明を持ち、ロープを持って出かけたという。それほど時間はたっていない、とエイモスは言った。

「俺が連れて戻ってくる」

と、俺は言った。「俺の息子だ」

 一人では行くな、とテセウスが言ったが、俺一人でいい、と主張した。イカロスのためにこれ以上、他人を危険にさらすわけにはいかない。

 テセウスは折れた。これを持って行け、と万一のために金槌を渡してくれた。新しい松明はまだ十分に長い。俺はトンネルに踏み込んだ。

 斥候の報告通り、このトンネルは短かった。さして行かないうちに、俺は、その狭い横穴を見つけた。暗闇の中で、イカロスと一緒に行った若いアテネ人が、ロープを持ってうずくまっていた。

「イカロスはどうした?」

 俺が訊ねると、男は横穴を指さした。

「松明とロープを持って、中に入っていった。もし、危険なことがあれば、すぐに戻ってくることになってる」

 戻れればな、と俺は腹のうちでつぶやいた。

 横穴はひどく狭く、天井も低い。加えて、入口に大きな岩がでんと座り込んでいて、道を半分以上ふさいでいるので、子供ならともかく、大人は通れない。俺は横穴の奥に向かって、イカロス! と呼びかけた。

「戻ってこい、イカロス!」

 答えはない。俺は焦燥に駆られた。もし、イカロスが何かに襲われていたら? ミノタウロスでなくとも、何か他の怪物がいたかもしれない。それとも、急に具合が悪くなって倒れていたら?

 しかも、俺はここを通り抜けることができない。いや、俺たちの誰も、イカロスを助けに行くことはできない。絶望に胸を掴まれた時、ふと、思い出した。通り抜けられる者がいる、一人だけ。

 俺は、若いアテネ人に向き直った。

「三番目のトンネルの先に、ダイダロスの工房がある。そこから、白い服を着た人形を持ってきてくれ」

 男は一言も言わずに、トンネルを戻っていった。

 俺は懐からオリハルコンを取り出した。さっき、オートマトンから取り出したまま、うっかり元に戻すのを忘れていたのだ。僥倖だったかもしれない。

 オートマトンを持って戻ってきたのは、意外なことにテセウスだった。

「皆は大丈夫なのか?」

 テセウスはふっと笑った。

「エイモスが見ている。二度続けて失敗はしないだろう。これをどうする気だ?」

 俺は狭い入口を指さした。

「俺たちには無理でも、こいつならここを通れる」

「だが、人形だろう? どうやって操る?」

「考えていたんだが、ごく簡単な命令なら、この人形はわかるんじゃないかと思うんだ。さっき、お前が、ドアを開けてくれ、と命令したら、こいつはその通りにした」

「ふん。まあ、やってみろ」

 俺はオートマトンの胸を開いて、オリハルコンを入れた。ぱちん、と音をたてて蓋を閉めると、人形はしばらくジーという奇妙な音をたてていたが、いきなり目を開いて、立ち上がった。

「ミノタウロス……クレタ島…ミノタウロスを……」

 さっきと同じ細い声で繰り返した。

「こいつは同じことしか言わないな」

 テセウスが忌々しげにつぶやいた。

「おい、お前」

と、おれはオートマトンに呼びかけた。「こっちを向け」

 オートマトンはゆっくりと、頭をめぐらして俺の方を見た。

 きいた! 俺の命令をきいたぞ!

 俺は興奮を抑え、落ち着いた声を出そうと努めながら、ゆっくりと言った。

「この通路の先に、イカロスがいる。連れて帰ってこい」

 オートマトンは動かなかった。ぼんやりと俺を見ている。

「命令が複雑過ぎるんじゃないか」

と、テセウスが言った。俺は言い直した。

「イカロスを連れて帰ってこい」

 まだ、動かない。

「イカロスじゃわからないだろう」

と、テセウス。

 俺は考えた。

「子供を連れて来い」

 そして、オートマトンを横穴の方におしやった。

 オートマトンは動き出した。岩と通路の隙間を潜り、ゆっくりと通路の奥に向かって進んでいく。

 頼むぞ。

 俺は命のない人形に向かって、祈った。

「大した人形だな」

 テセウスが感心したように言った。

「あの人形は、ミノス王に神託を告げるために、ダイダロスが作ったんだ」

 俺は、ダイダロスが以前話していたことを、簡単にテセウスに説明した。

「クレタの繁栄がミノタウロスにかかっている、というのは嘘だったわけか」

 テセウスは苦々しげに言った。松明の光で、その顔がゆがんでいるのを見て、俺はこの話をしたのを後悔した。騙されたのはミノス王だが、この神託のために実際に犠牲を払ったのは、アテネ人だ。それを思うと軽率だった。俺は黙った。

「他にもいくつ嘘があるか、知れたものじゃないな」

 テセウスが疲れたように言った。

「こういう言葉を知っているか? 『すべてのクレタ人は嘘つきだ、とクレタ人が言った』」

「いや、初めて聞く」

「有名なパラドックスだ」

 すべてのクレタ人は嘘つきだ。だが、そう言ったのはクレタ人なのだから、彼は嘘をついている。するとクレタ人は嘘つきではないことになるのか? だが、最初の命題によれば、クレタ人は嘘つきでなければならない。頭の中がこんがらかってきた。

「わたしは荒野ではなく、町を選んだ」

 と、テセウスは言った。

 知ってる、と俺は言った。話は聞いていた、と。

 そうか、とテセウスは苦笑した。王の耳だものな。

「荒野が町よりも優れている点が一つある。荒野は嘘をつかない」

「……」

「荒野は残酷だが、嘘をつかない。時折、わたしはあの単純で明快な残酷さが懐かしくなる」

 俺はなんと言っていいのか、わからなかった。俺はミノス王ではなく、テセウスを選んだ。そのテセウスが迷っていては、俺たちはどうなる……。

 俺がそういうたぐいのことを口ごもりながら言うと、テセウスは笑った。どこか苦しそうな、無理やりの笑顔だった。

「つまらないことを言った。忘れてくれ」

 俺たちは後は黙ったまま、暗くて狭い横穴の先を見守った。

 それからほどなくして、トンネルの先に白くぼんやりと動くものが見えた。

 俺が夢中で凝視している間に、それはゆっくり、じれったいほどにゆっくりとこちらに進んできた。

「イカロスか?」

 俺は我慢しきれなくて呼びかけた。

「父さんなの?」

 安堵のあまり、全身から空気が抜けたように、俺は地面にすわりこんだ。

 イカロスは無事だった。彼の話だと、この狭い横穴はしばらく行くと大きく広がり、そこから複雑な枝道があちこちへ伸びている。その枝道をひとつずつ、探索しているうちに、松明が燃え尽きて消えてしまい、あわてるうちに持っていたロープを落としてしまい、暗闇の中を手探りで探し回っていたのだと言う。

 さぞ恐ろしかったろうと思ったが、イカロスは意外に元気だった。こういうところは、まだ子供なのだ。

「それで、その枝道には何があった?」

と、テセウスが聞いた。

「なんにも」

と、イカロスは答えた。「すぐに松明が消えちゃって、あんまりよく見えなかった」

そうか、とテセウスはそれ以上、気に留めなかった。

 大広間に戻ると、テセウスは、これから二股の分かれ道まで戻り、ミノタウロスのいるはずの通路に入ると宣言した。但し、同行するのは、俺と、オートマトンだけだ。

 これは、大広間へ戻る途中で、俺とテセウスで話し合ったことだった。少人数の方が動きやすいし、何よりも、ラビリンスのこの部分にはミノタウロスがいない。乙女たちやイカロスにとって安全だった。若者たちは一緒についてきたがった。だが、誰かがここに残って女たちを守らなければならない。彼らはしぶしぶ承知した。

 オートマトンを連れていく、というのはテセウスの考えだった。

「この自動人形は中々利口だ。人間より役に立つかもしれない」

 出発の前、俺はイカロスに諄々と残る者の義務を説いて、二度と勝手に行動しないことを約束させた。

「わかったよ、父さんも気をつけて」

 俺はイカロスと女房を抱きしめた。

「必ず迎えに戻ってくるからな」

「うん。帰ってきたら、いいものを見せてあげるよ」

 なんだ?

 気になったが、その時、テセウスが、いくぞ、と声を掛けた。

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